営業のために書いた日記が、契約へと繋がった
――最初の就職先は、アパレルメーカーだったそうですね。
後田亨氏: そうです。「グンゼ」というメーカーでした。学生の頃は、就職したいところが思いつかなかったのですが、スポーツウェアなどもやれるかなと思ったのです。でも経済学部を出ているというだけの理由で配属はずっと経理関係。全然面白くなかったのですが、特にやりたいこともなかったのでズルズルと続けていました。ストレスもありましたし、「自分はここにいても何も達成できないだろうな」というのは、ずっと思っていました。
最初に配属されたのは岡山県の津山市にある工場だったので、ボーナスが出たら高速バスで大阪に行き、大阪や神戸でレコードの輸入盤を買い込んでいました。配属先の津山でバンド活動を始めたりもして、その後大阪に移ってもレコードコレクター生活。東京に転勤しても、やっぱり音楽ソフトとコンサートだとか、関心の先は音楽ばかり、週末だけホットな生活でした。(苦笑)
――その後、日本生命に入られるわけですが、そのきっかけは。
後田亨氏: 日本生命の人が職場に営業で来ていて、「後田君の知り合いの女性で、日生で営業をしたい人はいないか」と聞かれ、その時に、私が「やろうかな」と言ったんです。職場に来ているセールスの女性より、「自分の方がよほど好感度が高いんじゃないかな」なんて思って自惚れていたのですが、実際にやってみたら難しかったですね(笑)。
総務周りの仕事しかやったことがないので、そもそも社外の人と話すという経験も無く、名刺交換すらやったことがない。友人、知人、縁故などの関係で声をかけるというのは、やがて続かなくなりますし、自分の中でダメと決めていました。それでも、だいたい中堅クラスの成績は残せていましたけどね。
――契約を取るために、どういったことをされていたのでしょうか。
後田亨氏: 30後半の男だから、普通に営業をして回っても相手にされるわけがないと思っていました。だからA4一枚分の、今でいうブログのような文章を書いて印刷し、中小企業などに配って歩きました。「週に1回ほど置きに来てもいいでしょうか?」と言って回り、「来ていいよ」と言ってくれる所を少しずつ増やしていきました。最初の半年くらいは、毎日書いて持っていっていましたね(笑)。内容は、保険のこと以外だと、例えばその時々で盛り上がっているスポーツのイベントについてだとか、旬な話題を選んで書いていました。今だったら、保険会社の許可が必要だったりして難しいでしょうね。
書かずにはいられない
――文章によって、活路を開いたわけですね。
後田亨氏: 文章は・・・、高校の時からずっと日記を書いていました。話が合う人が少なかったんですよね。一貫して。自分のせいでしょうけど。(笑)でも40代になってからかなぁ、ある時「過去の文章を読んで笑ったりシミジミしたりしている自分って気持ち悪いし、もう二度と読まないだろうな」と思い、それらの日記は全部捨ててしまいましたが(笑)。
また、グンゼを辞める頃には、職場以外の自分を自分自身に証明したいというような欲求がどこかにあって、『週刊プロレス』の読者コーナーに頻繁に投稿していました。8割位の確率で私の文章は採用され、『ルーディ―ズクラブ』という音楽雑誌で募集していたクラブライターにも応募して、登録されたので、「文章はそこそこ書ける方なんだな」という自覚はありました。
私の場合、文章にすることで、なんというか、落ち着くんですよね。でもそれは、「書かなければ解決されないものが残っている」ということだから、ストレスでもあるのです。書く必要がない状態のほうが、多分、実生活で鬱積しているものが少なくて幸せなんじゃないかなとも思いますけどね。
――日本生命にいた頃も、「書かずにはいられない」ことというのはあったのでしょうか。
後田亨氏: マスメディアで保険について書いていることに賛同できませんでした。特に、私が営業を始めた頃は、更新型といって10年単位で保険料が値上がりする保険が、マスメディアにコテンパンに書かれている時期だったのですが、それは違うと思っていました。また、更新型の保険は諸悪の根源であると書いていたファイナンシャルプランナーが、ある時期から、更新は利用するものですと書き始めたのも疑問で・・・。
媒体に出ている人が主張を変える時はその理由を明らかにするべきだし、「自分は間違っていた」というのを公にしてほしいと思ったんです。週刊誌の特集なんかでも、これは違うと思った時には電話して、編集部の人と会ったりもしたのですが、まあ相手にされないんですよね。だから、自分で書いて、「こうじゃないか」なというのを伝えたいという思いは、保険の仕事に就いて割と早い時期から芽生えていましたね。