自分だけが気付き、理解したつもりになった瞬間が一番楽しい
社団法人バトン「保険相談室」の代表理事である後田さん。長崎大学経済学部を卒業後はアパレルメーカーのグンゼへ就職するも、日本生命へ転職し、営業をされていました。現在は個人向けの有料保険相談をはじめ、執筆活動や講演会などで、ご活躍されています。著書には『生命保険のウラ側』『がん保険を疑え!』や『生命保険の嘘 安心料はまやかしだ』などがあり、『生命保険の「罠」』はベストセラーに。今回は、後田さんに、幼い頃に夢中になったこと、執筆に込められた強い思いや伝えたいことなどについて伺いました。
プロレス好きだったことから、活字を読むように
――本との関わりについて伺います。
後田亨氏: 小学校の頃、忘れもしない川村書店という本屋さんが浦上天主堂の近くにあったんです。小学生の時分には遠いお店で、歩いたら10数分ぐらいでは着かなかったと思うのですが、そこで月に1回、ツケで本を買うことができました。親は県庁の職員だったので、県営アパートでしたし、外食は年に2回ほど、旅行などは家族でしたことがないという、つましい暮らしだったのですが、親がお店の人に言ってくれて、好きなのを1冊だけ買ってもよいことになっていたのです。
――どのような本を買われていたのですか?
後田亨氏: プロレスファンだったので『月刊ゴング』などを買っては、親から怒られていました。書店は、学校の図書館とは品揃えが違いますから。あと、父がプロレスや野球が好きで、特にプロレスは絶対一緒に見るという家庭だったので、プロレスをよく知るために、小学校4年生くらいから『九州スポーツ』を買うようになりました。活字との付き合いが始まったのはそれからです。スポーツ紙ですから、当然ヌード写真も官能小説も載っていて、意味は分からいながらもドキドキしながら読んでいたのを覚えています(笑)。それでも、親から怒られて破られたりするようなことはありませんでしたね。
――『九スポ』から色々と学んでいたのですね。
後田亨氏: そうですね。言語感覚にしてもスポーツ新聞の影響が大きいかもしれません。例えば、保険相談室の有料保険相談のホームページの、「無料で行われているのは相談じゃなくて商談です」といった言葉の選び方など、スポーツ新聞から学んだのかなと思います。
夢は、記者からバンド結成へ
――『週刊ゴング』やスポーツ新聞を読む他には……。
後田亨氏: 周りと比べて体も小さくて、あまり丈夫ではなかったので、基本的に、家で1人で遊ぶのが好きでした。ただ、ソフトボールは大好きでした。長崎ではテレビでやっている試合がいつもジャイアンツだったこともあり、ジャイアンツのファンでした。でも、父が九州の球団ということで贔屓にしていた西鉄ライオンズ黄金時代を知っているので、帽子はNLマークだったっていう(笑)。
――やはり将来はスポーツに関連するお仕事を。
後田亨氏: 九州スポーツやゴングの熱心な読者でしたから、プロレスの記者になりたかったですね。小学校時代は、野球も見てはいましたが、プロレスがメインでした。
でも、中学校からは音楽雑誌にはまるんです。小学校の頃にエレキギターが出てきて、グループサウンズの時代になって、2年くらいで下火になったんですけど、同級生がラジオで聴いていた洋楽、当時はポピュラーと呼ばれていましたが(笑)、それが気に入って、レコードも欲しいなと思うようになりました。
行きつけの川村書店に行くと『ミュージック・ライフ』という雑誌があって、ラジオのヒットチャートなども聴くようになりました。レコードは高くて買えないから、グラビアと活字で余計に想像が膨らむんですよね。あと、「試験でクラスで一番になったらLP1枚買っていい」という契約を親と交わしていましたから(笑)、それにつられて頑張ったような感じです。洋楽は、歌詞の意味は全然分かりませんでしたが、音として好きだったんです。社会人になるまでは、聴くばかりでしたけどね。
――両親と契約を交わしたということでしたが、レコードは買えたのですか?
後田亨氏: ま、数えるくらいは(笑)。話が前後しますけど、契約を交わす前におじから、「これで何か買え」と、1000円、お小遣いをもらったことも大きな出来事でした。シングル盤が400円の時代だったので、2枚買えると思い、思案橋のアトムレコードというところに行ったら、ローリング・ストーンズの1000円のLPがあったんです。クイズ番組か何かで、「ビートルズなき後、世界のナンバーワンバンドと呼ばれているグループは何でしょう」という質問に、誰かが「ローリング・ストーンズ」と答えたのがインプットされていて、買うんだったらこれだと8曲入りのベスト盤を買ったんですが、聴いてみると全然分からなかった。でも、「いいレコードのはずなんだ」と言い聞かせて何ヶ月も聴いていたら、次第に快感になってきたんです。今だと言葉にできるのですが、リフレインの快感とか、ブルースがべ-スになっている曲にある独特の色気やグルーヴが分かった気になりました。それまで聴いてきた音楽とは違う高揚する感じがあって、中毒みたくなりましたね。自分で見つけた気になっているから余計、気持ちがいいんです。ストーンズは、“自分だけ良さが分かる”というような独りよがりのツボを押してくれたんですね(笑)。ストーンズ、70年代の初め頃の日本では全然売れてなかったですから。それで、バンド結成などが夢になりました。
大学時代は雑誌を熟読
――音楽漬けの日々だったのでしょうか。
後田亨氏: 中学の頃は、並行してボクシングマガジンにはまるんです。プロレス並みにボクシングもずっと見ていたんですよ。うちの家は少し変わっていて、小学校の低学年の頃「東洋チャンピオンスカウト」という番組が、夜9時半くらいからあったのですが、僕は父と一緒にそれを見るために、夕方に仮眠をさせられていましたから。今でも「ああいう教育じゃなかったら、東大に行っていたんじゃないか」と親に言って笑われますけどね(笑)。
――素晴らしい英才教育だと思います(笑)。
後田亨氏: “勉強が本分”ということは親にも言われてましたけど、塾にも行かなかったですし。学校で時間割通りに過ごした後に、また時間割があるというのが、考えられなかったんです。それは後々、会社員を辞めた自分と繋がっているように思いますね。それと、団体行動も少し苦手でしたから。
――大学ではどのように過ごされていましたか。
後田亨氏: モハメッド・アリの時代が終わったこともあり、私のボクシングブームはそこで一旦落ち着きました、その後は急に色気づいてきて『MEN’S CLUB』や『POPEYE』を熟読するようになりましたね(笑)。ただ、一貫して読み続けていたのは『ロッキング・オン』や『ミュージック・マガジン』でした。
――本ではなく、雑誌をよく読まれていたのですね。
後田亨氏: 雑誌から派生した本を読んでいる感じですよね。ボクシングマガジンにかぶれた時は、佐瀬稔さんの原稿が好きで『感情的ボクシング論』などは、結構読みましたね。『流れ星ひとつ』という近刊が素晴らしかった沢木耕太郎さんもボクシングがきっかけですし。雑誌が本への水先案内人でした。
営業のために書いた日記が、契約へと繋がった
――最初の就職先は、アパレルメーカーだったそうですね。
後田亨氏: そうです。「グンゼ」というメーカーでした。学生の頃は、就職したいところが思いつかなかったのですが、スポーツウェアなどもやれるかなと思ったのです。でも経済学部を出ているというだけの理由で配属はずっと経理関係。全然面白くなかったのですが、特にやりたいこともなかったのでズルズルと続けていました。ストレスもありましたし、「自分はここにいても何も達成できないだろうな」というのは、ずっと思っていました。
最初に配属されたのは岡山県の津山市にある工場だったので、ボーナスが出たら高速バスで大阪に行き、大阪や神戸でレコードの輸入盤を買い込んでいました。配属先の津山でバンド活動を始めたりもして、その後大阪に移ってもレコードコレクター生活。東京に転勤しても、やっぱり音楽ソフトとコンサートだとか、関心の先は音楽ばかり、週末だけホットな生活でした。(苦笑)
――その後、日本生命に入られるわけですが、そのきっかけは。
後田亨氏: 日本生命の人が職場に営業で来ていて、「後田君の知り合いの女性で、日生で営業をしたい人はいないか」と聞かれ、その時に、私が「やろうかな」と言ったんです。職場に来ているセールスの女性より、「自分の方がよほど好感度が高いんじゃないかな」なんて思って自惚れていたのですが、実際にやってみたら難しかったですね(笑)。
総務周りの仕事しかやったことがないので、そもそも社外の人と話すという経験も無く、名刺交換すらやったことがない。友人、知人、縁故などの関係で声をかけるというのは、やがて続かなくなりますし、自分の中でダメと決めていました。それでも、だいたい中堅クラスの成績は残せていましたけどね。
――契約を取るために、どういったことをされていたのでしょうか。
後田亨氏: 30後半の男だから、普通に営業をして回っても相手にされるわけがないと思っていました。だからA4一枚分の、今でいうブログのような文章を書いて印刷し、中小企業などに配って歩きました。「週に1回ほど置きに来てもいいでしょうか?」と言って回り、「来ていいよ」と言ってくれる所を少しずつ増やしていきました。最初の半年くらいは、毎日書いて持っていっていましたね(笑)。内容は、保険のこと以外だと、例えばその時々で盛り上がっているスポーツのイベントについてだとか、旬な話題を選んで書いていました。今だったら、保険会社の許可が必要だったりして難しいでしょうね。
書かずにはいられない
――文章によって、活路を開いたわけですね。
後田亨氏: 文章は・・・、高校の時からずっと日記を書いていました。話が合う人が少なかったんですよね。一貫して。自分のせいでしょうけど。(笑)でも40代になってからかなぁ、ある時「過去の文章を読んで笑ったりシミジミしたりしている自分って気持ち悪いし、もう二度と読まないだろうな」と思い、それらの日記は全部捨ててしまいましたが(笑)。
また、グンゼを辞める頃には、職場以外の自分を自分自身に証明したいというような欲求がどこかにあって、『週刊プロレス』の読者コーナーに頻繁に投稿していました。8割位の確率で私の文章は採用され、『ルーディ―ズクラブ』という音楽雑誌で募集していたクラブライターにも応募して、登録されたので、「文章はそこそこ書ける方なんだな」という自覚はありました。
私の場合、文章にすることで、なんというか、落ち着くんですよね。でもそれは、「書かなければ解決されないものが残っている」ということだから、ストレスでもあるのです。書く必要がない状態のほうが、多分、実生活で鬱積しているものが少なくて幸せなんじゃないかなとも思いますけどね。
――日本生命にいた頃も、「書かずにはいられない」ことというのはあったのでしょうか。
後田亨氏: マスメディアで保険について書いていることに賛同できませんでした。特に、私が営業を始めた頃は、更新型といって10年単位で保険料が値上がりする保険が、マスメディアにコテンパンに書かれている時期だったのですが、それは違うと思っていました。また、更新型の保険は諸悪の根源であると書いていたファイナンシャルプランナーが、ある時期から、更新は利用するものですと書き始めたのも疑問で・・・。
媒体に出ている人が主張を変える時はその理由を明らかにするべきだし、「自分は間違っていた」というのを公にしてほしいと思ったんです。週刊誌の特集なんかでも、これは違うと思った時には電話して、編集部の人と会ったりもしたのですが、まあ相手にされないんですよね。だから、自分で書いて、「こうじゃないか」なというのを伝えたいという思いは、保険の仕事に就いて割と早い時期から芽生えていましたね。
偶然入ったお店での出会い
――本を出すことは、どのようにして決まったのでしょうか。
後田亨氏: 2002年頃でしょうか、真冬の営業で三軒茶屋をウロウロしていた時、休憩を取るため、外は寒いし、「暖房が効いているところに入りたいな」と、たまたま通りかかったSEPTISというお店に入りました。そこには、ビートルズのレコードジャケットやポール・マッカートニーのベース、ジョン・レノンの靴などが置いてあり、ビートルズのファンだった私は、そのお店の人と意気投合して、メールのやり取りをするようになったんです。ビートルズのアイドルだったエヴァリー・ブラザーズというグループについてメールを書いたら、「そこまで話せる人は、初めて」と言われて、飲みに行くようにもなりました。お酒の場で、飲むたびに私が言っていたのが、「保険の営業をやっているけど、実は一番やりたいのは、保険についての本を書くことなんだ」ということ。
もう40歳を過ぎていたので、最初は、「何を言ってるんだ」とバカにしていたそうなのですが、飲みにいくたびに言うから、しょうがないなと(笑)出版関係の知り合いを紹介してくれたんです。その人は『POPEYE』などでお仕事をなさっていたことがあったそうで、複数の会社を紹介してもらいました。しかし企画は通らず、「ダメもとだから、一番デカいところに行こう」と言われて、講談社に行くことになるんです。その頃、姉歯建築士の偽装問題がニュースになっていたこともあり、「生活関連で疑問が多いことにスポットを当てる企画はどうかな?」ということで、私の企画も2005年に通ったのです。
――紆余曲折を経て、ようやく出版への道が見えてきました。
後田亨氏: でも、2006年に書いた1冊分の原稿は「著者の顔が見えない」などと言われて、全部ボツでした。そして2007年の7月頃には、だんだん後がなくなってきて、一般論より体験談を中心にして書いたらやっと良い反応が帰ってきて、11月に『生命保険の「罠」』が出ました。一昨年、文庫化された時、まえがきに書いたのですが、「あの時だけの怒り」のようなものが詰まっていて、良くも悪くも感情的なので、印象には残る文章でしょうね。
――08年からは、朝日新聞のデジタルサイトに連載をもつことになりました。
後田亨氏: 連載では週に1回、多くの人の目に触れる原稿を書かないといけないというのが、すごい実戦トレーニングになりましたね。去年、実現した日経新聞電子版の連載記事の書籍化では、章立てや目次を考える面白さも味わえました。
連載に限らず、原稿は論理的でないといけないし、データの裏付けなども欠かせないですけど、書籍の場合などは、あえて好き嫌いや感情を入れるのもありかなと思っています。たとえば保険の見直しなど、読者に行動してもらうには、理屈だけではなく感情に訴える部分も必要な気がするんですよね。
――最近読んだ本で、「感情に訴えかけられた」と感じた本はありますか?
後田亨氏: 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』ですね。“プロレス憎し”で書いているのが、ひしひしと伝わってくる。あんなインチキなビジネスに柔道が愚弄されたという、ただならぬ怒りがどんどん伝わってくるんですよ。毒々しいぐらい、感情が強いんですよね。変な言い方だけど、商業ベースに乗らなくても書きたいものを書いている人の文章の方が心に届くんじゃないでしょうか。「そう思いたい」という願望も入っているかもしれませんけどね(笑)。
将来への不安からではなく、相応しいから使うということ
――執筆を通して、伝えたいこととは?
後田亨氏: 保険に関して言えば、自分自身、もっと早く知りたかったということがたくさんあるので、それを伝えたいです。繰り返さないと伝わらないこともたくさんあって、繰り返しに自分が飽きたらマズいので、切り口を変える工夫もしているつもりです。
また、私を先生と呼ぶ人がいますが、「どこが先生?」と強烈に思う自分もいるんですね。謙遜ではなく、本当に知らないことばかりなので。本を出していたら、すぐ先生だとか、専門家だとか言われますけど、専門にしていても知らないことは多いし、間違うことも多いです。そういう実態も伝えたいなと思います。それから、「何かに気付くのは楽しい!」ということですね。
――6月に『保険外交員も実は知らない生保の話』を出されていますが、どういった思いから作られた本なのでしょうか?
後田亨氏: 「将来に対する漠然とした不安」を前提に保険が語られることについて「将来は不透明なのだから不安はあって当たり前じゃないか?不安だ、不安だ、って、贅沢だな」と、ずっと思っていたんです。今日明日生きるのに、困っていたら、そんなことは言えないじゃないですか。そもそも、保険をよく知っている保険会社の人は、不安を解消するために保険に入っているわけではありません。「必要だから、そして安かったから保険に入っている」と言うんです。要は、保険の利用が、自分が備えたいことに相応しいから入っているということ。その“相応しさ”というキーワードが出てきた時に、これを軸に置くことによって、既刊と差別化できると思ったんです。
皆が皆、「不安だから保険(で何とかしたい)」と、同じ方向を向いているような状態は、ほとんど生理的にと思えるくらい気持ち悪くて(笑)、だから「違うだろう!?」と伝えるためのキーワードを見つけた時、「これだ!」と分かった気がする時って楽しいんですよね。
――例えば、どういったことに気付いて、楽しさを感じるのでしょうか?
後田亨氏: 例えばプロレスにしても、別にいつもプロレスのことを考えているわけではないんですけど(笑)、何年も観ていると、レスラーの芸風が変わる瞬間が分かたりするんです。「この人アスリートとしてのピークが過ぎたけれど、守勢から攻勢に転じる時の盛り上げ方などが上手くなって、お客さんに一番ウケているのは40歳を過ぎた今だ」とか、自分だけが気づいた気になる瞬間があって、その瞬間が、ものすごく楽しいんです。他にも「ベテランになると、攻められているふりをして息を整えているように見えなくもない。ひょっとしたら攻め続ける方が力を使う分、疲れるんじゃないか?」と仮説を立てたうえで試合を見るとか。そんなことやっても誰もほめてくれないですけど、検索しても出てこない観戦の仕方で(笑)楽しいなぁと感じるんですよね。
最近、一番“やった!”と思ったのは、40歳の男性が50歳までに死亡する確率と、がんになる確率が殆ど一緒だということに気付いたこと。10年間で大体2%。だけど、40歳の男性が10年間で、亡くなったら500万という死亡保険と、がんと診断されたら500万というがん保険の保険料を比べると、がん保険は死亡保険の2倍なんです。それに気づいた時「がん保険ってボッてるんじゃないか」っていう仮説が立てられるわけですよ。プロレスの楽しみ方に似てますよね?(笑)
――なぜ、がん保険は高いのでしょうか?
後田亨氏: 保険業界の人に聞くと、診断方法が進化することによって、見つからなかったがんが見つかるリスクがある。それを考えると、どうしても高めにとっておく必要があるという説明なんです。だから、がんの方がまだ確率論が働きにくいのです。
プロの編集者を通すことで、書籍の信頼度がアップ
――編集者の役割とはどういったことだとお考えですか?
後田亨氏: 複数の役割があると思います。新しく発見したデータに熱くなって、全体の文脈からどんどん逸脱していくことなどもあるので、それを見張っておく人だったり、あるいは伴走者のように一緒に走ってくれる人。その両方です。あと、目利きの方が多く、自分とは読書量が全然違っていたりします。ブログは誰でも発信できますが、編集者も当人です。でも、書籍はプロの編集者という高いハードルを1回越えないと世に出ないということを経験して、内容に対する信頼度が上がりましたね。
電子書籍の普及で、出版する機会が広がり、多くの人にチャンスが出る分、発信される情報の品質をしっかり見極めることが出来る編集者の需要はなくならないと思います。
――今、力を入れて取り組んでいることは?
後田亨氏: 出版がきっかけになって、マネー関連の有識者の方と接点が増えたら、「日本では金融教育が遅れている」ということをよく言われるんですね。それで「主にお金のことを勉強するセミナーを継続的に開いて行こう」と、去年から横浜サカエ塾をスタートさせました。
――新たなチャレンジは執筆においても見られるんじゃないでしょうか。
後田亨氏: 父が「プロレスのことを書け」とうるさいので(笑)、元気なうちに書きたいですね。何が言いたいかというと、「みんなが言っていることって、どこまで本当なんだろう」という風に色々なことを見ていくと、立つ位置によって敵と味方の見方が変わったりして、結構面白いということ。ネットでは白黒をつけたがる人が多いようにも感じますし、自分より弱い黒を一方的に叩くこともある。でも私は、想像が広がるから、グレーほど面白いものはないと思うのです。プロレスは勝敗が仕組んであるからこそ、「本気でやりあったらどっちが強いんだろう」とか、出ない結論を追って、いつまでもお酒が飲めるじゃないですか(笑)。そっちの方が、断然豊かだと思うんです。白と黒で決まるものごとというのは奥行きに欠けますよね。ものごとの見え方自分の年齢や体験でも違ってくるし、歪むこともある。でも、歪んで見えること自体を面白がることができれば、そっちの方が生きていきやすいというかハッピーになれる気がするのです。だから、仮に下賤なジャンルに見られているものでも、見方によっては尽きないものがあるんですよ、というものを発信してみたいですね。最近、プチ鹿島さんが『教養としてのプロレス』という良書を出されたので、もう機を逃したかもしれませんけど(笑)。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 後田亨 』