「日常の感覚」で経済学の面白さを伝える
大阪大学で理事・副学長を務められる経済学者の大竹文雄教授。労働経済学と行動経済学が専門で、記した著書は多くの賞を受賞しています。また、NHK Eテレ「オイコノミア」では私たちの素朴な疑問を経済学の視点から解説されています。「経済学の言葉だけを使わないで、日常の感覚で‘こういうことか!’という感覚を大切にしたい」という大竹先生の想いを伺ってきました。
経済学への誘い
――大学でのお仕事について伺います。
大竹文雄氏: 理事になってから忙しくて、勤務時間の7割から8割くらいは大学運営の仕事をしています。自分の研究などもかなりの時間が必要なので、土曜日曜もなくて労働時間が長くなっています。研究は好きでやっているからいいという部分もありますが、仕事ですからね。それでもかなり研究時間が短くなったのが悩みです。学生の指導は、大学院のゼミを週2回。他に個別指導もやっています。全学の学部生向けのゼミも半期もっています。
大学院では週2回、一回に2人ずつ報告してもらいます。1人には最近学術雑誌に載った興味深い論文の紹介です。もう1人は本人の研究の進捗状況についての報告です。私と経済学研究科の佐々木勝先生と一緒にやっていますが、指導というよりは学生たちに質問して彼らと一緒に考えるようにしています。報告者は報告までにしっかり準備して質問になんでも答えられるようになっているはずですが、それでも分からない時はみんなで考える。そういうトレーニングをいつもやっています。あと、実際に共同研究プロジェクトを立ち上げて、一緒に論文を書くということもします。これが1番オン・ザ・ジョブトレーニングになると思います。
――先生が大学で経済学を選ばれた理由は。
大竹文雄氏: 京大に入るまでは経済学というもののイメージがはっきり分からず、経済予測や、株価の予測ができればいいなと思っていました。というのは、私の実家は商売をしていて、オイルショックの頃に商品がどんどん値上がりしたのです。1年間に20%くらい、相当上がったのでしょっちゅう値段の改定をやっていました。値札のシール貼りは子供の仕事でしたが、その時に「経済変動が最初から分かっていたらもうかるのでは。もっとうまく対処できて儲けも増えるのでは。」と思ったのです。仕入価格も上がりますし、全体的にも上がっていくのであまり意味はないのですが、ただあれだけ大きな経済変動がどうしてあらかじめ分からなかったのかということは不思議でした。
――実家の商売を通じて実感していったのですね。
大竹文雄氏: 実際に「経済学」に触れたのは大学に入ってからでした。学部の1年生から森口親司教授がされていた勉強会で、先輩や助手の人たちに教えてもらって、現在一橋大学教授の齊藤誠さんをはじめとする友人たちと『価格理論I』という教科書を一緒に読んだのが最初です。それで少しずつ経済学が分かってきました。教えてくれた1人は浅田彰さんで、すごく教えるのが上手でした。ですがその時は、すごく数学的で、世の中とどう関係するのか全然分からなくて、正直あまり面白いと思っていませんでした(笑)。
――大学での学問と、世の中の経済がつながってこなかったと。
大竹文雄氏: もう全然別モノでした。最初は経済の動きを知りたいと思っていましたが、『価格理論I』に描かれていたのは本当に数学で経済のメカニズムを抽象的に描いたもので、現実との関係はまったく分からないという感じでした。1番現実と経済学の関わりが分かるようになったのは、学部の3年生の時に西村周三先生のゼミに入って勉強するようになってからです。
西村先生は医療経済学の専門家でしたが、現実の経済と理論の間をうまく説明されていました。それに、学生に色々な質問を投げかけて、考えさせるということで、モチベーションを持たせることが非常に上手でした。それでなんでも経済学で考えてみるという癖がつくようになったというのが大きいですね。
――どんな風にモチベーションを維持させていたのでしょうか。
大竹文雄氏: 西村先生は、先生自身が本当に分かっていなくて聞いているのか、本当は分かっているのにわざと聞いているのかが分からないような感じで聞くのです。試しているのか、本当に分かっていないのか、が分からないように聞くことが大事だと思います。
例えば、「これはどうして?」という時に、「いや、俺は分かっているけれどお前を試しているのだ」という感じで言われると身構えてしまいます。ですが、先生が本当に分かっていないのであれば、一生懸命考えないといけないということになります。先生としては分かっているのだと思いますが、「ここのところ分からないけれど、これを君、教えてくれへんか」という感じで聞かれるほうが学生はモチベーションが上がるんですね(笑)。その後、いろんな研究者を見てきましたが、優れた研究者ほど、分かったふりをしないで、本当に分かるまで質問を続け、考え続けるということが共通しているように思います。
リスキーでも面白い方へ進む
――研究者以外の、就職などは考えていましたか。
大竹文雄氏: 3年生の頃は一般企業への就職も考えていましたし、当時は4年生の夏くらいから就職活動だったので、就職活動も大学院受験も同時期にしていました。当時、経済学部生はほとんど大学院にいきませんでした。ですから、大学院にいくのは、かなり勇気のいる選択でした。できれば、研究ができるような仕事をしたいと思っていましたが、一般企業でそういう仕事は少ない時代だったのが大学院に進学した理由だったかも知れません。でも、私は基本的にあまり昔のことを思い出してあの時どうだったとか考えない方なので、どうして大学院に行くことを決断したのか全然思い出せません(笑)。ただ当時は、経済学部の学生が大学院に行くことは、リスクがとても大きかったです。京都大学の経済学生のほとんどは普通に一流企業に就職するのですが、大学院からの企業への就職というのはほとんどない時代だったので、大学院進学を決めた段階で、普通の会社員の道を捨てたということになりますね。本当に大きな決断だったと思います。
――リスクをおかしてもあえて大学院に進まれたわけですね。
大竹文雄氏: 面白いほうを取ったというのはあったのだと思います。それと、もう1つは当時の組織というものはカチッとしていて、そういう中で生きていくのはあまり好きではなかったというか向いていなかったということがあると思います。私は小さい頃から学校もあまり好きではありませんでした。とにかく集団行動が苦手でしたから。でも、京大だけは例外で、結構自由で授業に出なくても構わないという雰囲気で、ホッとしていました。どうも組織の中で生きていくことが向いていないと思っていたのではないですかね。
――そうして進んだ大学院はどうでしたか。
大竹文雄氏: 阪大の教育はカチッとしていました。私はカチッとしたものは嫌いだと言いましたが、大学院の頃にはこれはプロフェッショナルになるために避けて通れないものだと割り切ってやっていました。コアコースがあって、ミクロ経済学、マクロ経済学、エコノメトリックスが必須になっています。講義があり、宿題があって、中間試験と期末試験を受けるという高校や大学のような感じです。1年目はその繰り返しに必死でついていかないといけません。今では、どこの経済学の大学院もこんな感じですが、当時、このスタイルを取っていたのは、阪大だけでした。それだけ阪大の教育が充実していたので、京大からも経済学で大学院に進む場合は、阪大に進むことが普通でした。その後は論文作成をやっていきます。当時の大阪大学経済学部は旧帝国大学や一橋大学、神戸大学といった有力な経済学の大学院の中では長い歴史がないためもあって、あまり大阪大学の出身者が多く就職する大学がほとんどない時代でした。そのため、とにかく業績を出さないと就職が決まらないというプレッシャーが強くありました。つまり、論文を書かないと就職できないということです。おかげで研究して論文を書くということが当たり前になっていきました。
――その流れから本を書くように。
大竹文雄氏: 大阪大学の経済学部の助手をしていた頃だと思うのですが、中谷巌先生のマクロ経済学の『入門マクロ経済学』という当時ベストセラーの教科書があり、この本のスタディガイドを書いてほしいと日本評論社の編集者の人から頼まれて、『スタディガイド 入門マクロ経済学』を書いたのが最初です。「自分ならどういうふうに書かれていると、理解できるかな」という書き方をしました。読んだだけでは分かりにくいところを「要するにこういうことだ」というように書いてみたかったのです。このスタディガイドというのは、問題集なんですが、執筆中、大阪府立大学の経済学部に講師になったので、府立大学の学生たちに出題してみました。でも、最初の頃は誰も解けなくて「難しすぎるのだ」ということが分かりました。はじめて経済学を学ぶ学生の身になって考えないとだめだ、ということがよく分かりました。自分は何度も経済学のことを考えてきたので、当たり前のことでも、学生たちは初めて目にすることばかりなのだということです。もう一つ、「オイルショックの頃はどうだった」と言うとみんなポカーンとしていて、「ああそうか、彼らにとっては過去の歴史なのだ」ということが分かりました。こちらが当たり前に思っていることも相手にとっては全然当たり前ではないという、そういう当たり前のことが教えてみて私自身が理解できたのです。それで、彼らが6割から7割回答できるくらいの問題を作るということを念頭に置いてやっていきました。
著書一覧『 大竹文雄 』