孫崎享

Profile

1943年旧満州国鞍山生まれ。1966年東京大学法学部中退、外務省入省。 在ソビエト連邦大使館、在アメリカ合衆国大使館の参事官とハーバード大学国際問題研究所の研究員、在イラク大使館の参事官、在カナダ大使館の公使等を経てウズベキスタン駐箚特命全権大使、外務省国際情報局局長、イラン駐箚特命全権大使など要職を歴任。 2002年から2009年まで防衛大学校の教授を務めた。 著書に『小説 外務省―尖閣問題の正体』(現代書館)、『日本を疑うニュースの論点』(角川学芸出版)、『独立の思考』(共著。角川学芸出版)、『「対米従属」という宿痾』(共著。飛鳥新社)など。

Book Information

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迷えばリスクをとれ



長年、外務省の「情報屋」として要職に就かれ活躍されてきた、評論家の孫崎享氏。昨今の国際情勢の変化とそれに対する対応を、各種メディア、そして執筆という場において警鐘を鳴らされています。外務省時代のお話から、夏目漱石の大ファンでもある孫崎さんの読書観、執筆の際に心掛けていること、人生哲学まで伺ってきました。

「ロジックの正しさ」が尊重されない社会の危うさ


――国際情勢が刻一刻と変化する中で、ますます孫崎さんの発言をお見受けする場面が多くなっています。


孫崎享氏: 今非常に日本が不安定で、その政策決定過程が、あるべき姿でないような気がしています。それはどうも、太平洋戦争開戦前から、真珠湾攻撃までの過程に似ているのではないかと危惧しています。なぜあのようなおかしな選択をしたのかという問いを、今の日本の政治過程とダブらせながら書いています。

例えば、真珠湾攻撃の直前11月29日。天皇陛下の前で、重臣会議をやった際、若槻・近衛・岡田・広田こういう歴代の首相経験者人たちがこぞって反対しました。今の原発問題を見ますと、これまた首相経験者である小泉・細川・菅・鳩山と反対しているのです。それが、今は完全に無視されている。真珠湾攻撃の際も同じで、「ロジックの正しさ」というものが尊重されてない、そこが非常に似てるんだと思います。

――孫崎さんの分析力はどのようにして培われていったのでしょうか。


孫崎享氏: 外務省にいたことが非常にラッキーだった、と思います。一般企業の場合、上司の言うことが正しくて、部下は上司の指示をきちんと実施するという、メンタリティが作られます。けれど私の場合には、情報が集まる現場担当者であり、必ずしも一般企業のように上位のものが情報を持っているという図式が成り立ちませんでした。

外務省においては、最初から非常にまれな機会を与えられました。そこでしっかり勉強すれば、誰にも負けないものを自分が発信できるということで、私は恵まれていたなと思います。オブザーバーとして、イランに行けばイラン、イラクに行けばイラク。外国人の目の中では、おそらく自分が最前線にいるだろうなという、そういう機会にずっと恵まれてきたんですよ。

私の方が物事をわかる環境にいるということであれば、自分で責任を持って、誰よりも知るための努力はする。努力さえすれば、誰よりも、自分が知ることができる立場にあると、23、4歳で思っていました。

国に貢献したいという気持ち


――入省される事は昔から考えられていたのでしょうか。


孫崎享氏: 実は具体的に外務省に、と思っていた事は全くなかったのです。中国の鞍山で生まれ、現地で終戦を迎えたのは2歳のころでした。それから1年間、大連の島みたいなところにある居留区に、みんな一緒にいました。そこはものすごく密集していて、たくさんの大人の会話が耳に入ってきました。それが非常に大きな刺激となったと思います。その後、私は石川県の小松というところに、帰ってきました。

――大人の会話が自然と聞こえる環境にいたのですね。


孫崎享氏: はい、そのため少し早熟なところがありました。野口英世の本を暗記して、田舎であった宴会や結婚式の時にやってみろと言われ、暗唱したのを覚えています。小学5年生の時に、先生から「お前は5年生の分はわかっているんだから、私の授業は聞かなくていい。これで計算やっとれ」と言って、6年生の教科書をくれたんです。5年生だから、5年生のものをというように、型にはめようという考えの先生ではありませんでした。6年生になると、今度は中学の教科書を持ってきました。「とにかく自分でやりなさい」と言われましたね。そういうこともあって、ただ課題をこなすというような、言われてする仕事はとても嫌なんです(笑)。

――孫崎さんの素地はこの頃に培われていたのですね。東大に進もうと思われたのもこの頃ですか。


孫崎享氏: いえいえ、中学では勉強停滞期に入ります(笑)。相撲やバレーボール、バスケットをやっていて、東大はおろか勉強については特に考えていなくスポーツ一色。そんな感じでした。状況が一変したのは高校生になってからです。

私が通っていた学校は、150人ぐらいの小さな学校でしたが、同期が大体20人、東大に行っていたような学校でした。「やるならトップを目指そう」という感じの学校で、高校に入って初めて、「勉強を頑張らなきゃいけないんだな」と思いましたよ(笑)。外務省を受けようとしたのが、大学2年生の後半からで、3年生の時に受かりました。自分なりの可能性を見ながら、進む道を決めました。

1960年代というのは、まだ国づくりの時代でした。だからみんな、「国づくりにどう貢献しようか」というような気持ちが強かったんです。大学へ入るのも、よい収入を得るためというよりは、国家公務員になって貢献するんだ、という希望があり、みんなそうでしたね。私自身も、当然、国家公務員になると思っていて、その中でも外務省がいいかなということで、外務省の試験を受けました。

徹底した現場主義


――入省後の在外研修先は英国ということですが。


孫崎享氏: 英国での勤務を希望していましたが、私は英語が全然できなかったのです。周りには英語の流暢なものが何人もおりましたので、英国勤務は厳しい状況でしたが、ロシア語を選択していれば英国で勤務できると聞きました。それで入省後にまず英語を勉強したあと、赴任から3年目にイギリスから当時のソビエト連邦に赴きました。

――モスクワ大学に進まれたのは。


孫崎享氏: ロンドンからモスクワに赴任した時、大使館の人に「よく来た。モスクワ大学に行くのなら、大使館の後ろの道から、バスが出てるから、何番に乗っていけ。1年間は、大使館に来るな」と早々に言われました。知らない土地なのに、何を言っているんだと驚きましたよ(笑)。

大学に行ったものの、私のテーマの本は、図書館にありませんでした。それで、じゃあ今年1年は、本を読まないでおこうと。1年間ロシア人の学生と付き合おうということで、彼らと向き合いました。

大使館にはロシア語をずっと勉強していた参事官が、2人いました。全くタイプの違う2人で、1人は、毎日プラウダ(新聞)を読んで、そこに何が書いてあるかをチェックしているような人。もう1人は、勉強しているかどうかわからないぐらいに、毎日夜になるとロシア人を家に連れてきて、酒を飲んでいるというスタイルの人。

――様々なアプローチの仕方があったんですね。


孫崎享氏: 学者交流の枠がソ連との間であり、私はその枠の1人としてアプローチしました。こっちとしては、「付き合おう」というスタイルだったのですが、チェコ事件の後でしたので、必ずKGB(ソ連国家保安委員会)が周りにいました。そうすると誰が敵なのか、誰が味方なのか、オファーも、これはプラスのオファーなのか、それともひっかけのオファーなのかというのを、選択していかなければなりませんでした。

1人ひとり、この人間と付き合っていいのか、この人間とどこまで付き合うのかというのを、見ていました。面白かったのは、人が集まると「孫崎さん、あの人間は気をつけろ。あれはKGBだよ」と言ってくる人がいたこと。Aと会うと、Bに気をつけろと、Bに会うと、Aに気をつけろと言うんですよ。だから、どれがいいか、どれが悪いか。全ての人間が持つ、ポテンシャルな危険、あるいは善意。それを判断していました。

――刺激的な日々でしたね。


孫崎享氏: やっぱり若かったので、好奇心が非常に強くて、どんどん入っていきましたね。原動力は好奇心。それから、私にしかできないということ。ここをやることによって、多分日本で、誰も知らない分野にいるんだという気持ちは、非常に強かったですね。

第一人者である事の責任


――最前線で働かれていた訳ですが、何を思って動いていましたか。


孫崎享氏: 国と国との折衝をするのが外交官の仕事ですが、その出発点となる人と人との付き合いをどうしていくか、ということを一番に考えました。例えがソ連は「悪の帝国」、イランならば「悪の枢軸」と言われていますが、絶対手を結べる分野があるはずなのです。相手との共通の価値観を対面で探りながら、手を結べる分野を探すということが重要なことだろうというように、感じていたんです。今、私が主張している尖閣の問題も、いかに武力紛争を回避して手を結べるか、ということを提言しています。

――そうした提言や、経験を本としてまとめられています。


孫崎享氏: 84年の『外交官 先輩の労苦をいしずえに』ですね。ソ連では、たくさんの報告書を書いていました。オファーは、人事課からきました。扇谷正造さんが、各職業、農業や、警察官、学校の先生など、それぞれの職業を、小中学生に知らせたいと。それを、現場にいる人たちに頼んで、書いてもらうというプロジェクト、「あいうえお館」というのをやったわけです。

私自身は、小・中学生が夏目漱石を読めるように、文体は優しくても、大人が読むのにも耐えうる、ソ連入門のようなものを書きたいと思って、書き始めました。外交分野においても、夏目漱石が人生論を語るのと同じレベルのものを書いてみたいと思ったのです。

――平易な文体を意識して書かれていたんですね。


孫崎享氏: 『外交官 先輩の労苦をいしずえに』の後は、92年に『カナダの教訓 「日米関係」を考える視点』、それから93年に、『日本外交 現場からの証言 握手と微笑とイエスでいいか』という本を出しました。やはり、書いてある内容は、私じゃなきゃ書いていないこと。本を書く時には常に、今まで出ていなかった切り口であるとか、そういうものを提示するということが、自分の使命だと思っています。似たようなものや、古いものの手直しは嫌なのです。

私のアプローチは、どれくらい証拠があるかということ。だから、私の議論と相手の議論を比較する時の判断基準は、どのくらいデータを出しているかということ見てほしいですね。どちらかの結論が正しいということではなく、物事を考える時に、Aという人とBという人がいたら、どちらが、より重要なデータを出してくれるかという点で、読者には判断してほしいのです。

抱えない生き方


――執筆の際の、膨大な資料はどのように収集、執筆されていますか。


孫崎享氏: 私は、書斎を持っていません。本を書くことが決まってから、外務省の図書館に行き、色々なものを見ながら、「このテーマは、この本」と。私はあまり本を持ちません。勉強しなくてはいけないものは、あまりにも多いから、その時に必要なものが取れるようにしておくことが重要で、大体どこに行けばいいかというのがわかったら、そこに行って、集めてくるというような形で仕事をしています。

こういったスタイルは、外務省にいたことが大きく影響しているのではないかと思います。命令が来た時、その時々で必要なものを、真剣に揃えてやっていくのです。与えられた時に、ベストパフォーマンスをして、終わったらピリオド。それを重ねていくのが公務員の生き方です。

確かに、与えられた時間での中でのベストだけれども、作品としてはベストではないかもしれません。ただ、やる以上は、その分野で今までにないもの、貢献ができるというものを、目指してやっています。

情報の量的優位性はなくなり、問題意識がより重要に


――資料的な側面として電子書籍について、どう思われますか。


孫崎享氏: 圧倒的に、素晴らしくなったと思います。例えば、アメリカの大統領選挙の一般教書。私が国際情報局長の時は、言わなければ、一般教書は手に入りませんでした。ところが今は、原文を、日本中の誰でも見ることができます。情報を集めるという意味では、外務省や新聞記者は、かつては圧倒的に優位に立てたのですが、今はもう、熱意のある一般市民に負けますよね。つまり情報の量的なものによる優位性は、非常に垣根が低くなっているのです。これから問われるのは、そのポストによる優位性ではなく、何を問題と思えるか、その問題意識の勝負になってくるだろうと思います。例えば、堤未果さんは、アメリカについての問題設定が、他の人より優れているため、成功しています。

今非常にいいなと思うものはTwitterです。最初は懐疑的でしたが、京都へ講演会に行った時に、要望があって始めることにしたんです。すでに日常化していますね。毎朝、日本の新聞と、外国の新聞のヘッドラインをザーッと見るし、今起こっていることについては、一応わかるような体制をとっているし、それから論評などをやり、発信すると、今度は反応がわかってきます。

私はブログもやっているのですが、記事別アクセスを見ると、自分が発信したもので、今どういう需要があるかが分かるのです。それから年齢も出てくるので、不正選挙についてはそんなに敏感ではないなど、リアルタイムに、読者が何を感じているかがわかってきます。例えば、20代の会員をできるだけ増やしたいという時は、表題に「20代の人へ」と呼び掛けたりします。そうすると確実に入ります。非常に面白いですね。

フォロアーが7万人ほどいるのですが、本を出すと予告すると、かなりの人が買ってくれるんです。7万人の中には、日々のニュースだけじゃなくて、本も追っかけていこうという人たちもいらっしゃるようで、彼らとのつながりは私の財産だと思っています。

0で掴む



孫崎享氏: 私には人生哲学があります。0と言ったら、多くの人は、タダで誰かに何かをしてあげるということを思い浮かべるのかもしれません。だから、タダというものに対してアクションしない傾向があります。だけど不思議なことに、そのタダのものは、人生において、必ず何らかの形で戻ってくるんですよ。

成功している方の中には、タダのものをものやっている人が、多くいます。例えば、地方コミュニティのボランティアだったり、大学の同窓会で幹事をやるということでもいいのですが、0のものを、いかに発出できるかということが大事。0のものは、必ず利子がついて返ってくると、私は思っています。

東洋経済の中東の担当者が、私のところへ取材に来たことがあったのですが、報酬はありませんでした。それを申し訳なく思ったのか、その記者から「『東洋経済』の書評欄に、書評を時々書いてくれませんか」と言われました。これも向こうにしてみたら、ただですよね。

それで、『イスラエルロビーとアメリカ外交』というウォルトとミアシャイマーの本の書評を書いたんです。好評だったのか、講談社の翻訳部長の人がものすごく喜んで、「お礼に行きたい」ということで、防衛大学へ来られました。その時に、大学の資料を題材に、日米同盟みたいなものを書いてみたいと思っていると話したところ、新書部の編集者に頼みますからと言われました。そうやって出ることになったのが『日米同盟の正体 迷走する安全保障』でした。そういった積み重ねがあると、ますます0で頑張ろうと思いますよね。

リスクはプラスになる


――今後どのようなことを、積み重ねたいと思われますか。


孫崎享氏: 社会が何を求めているかを考え、その求めに合わせて、動いていくしかないと思っています。将棋の羽生さんは、「常にリスクのある方を取っていく。未知のところへリスクを取ることによって、展開が開けてくる。今のものを継続をしようと思ったら、そこで止まる」と言っています。

リスクなしの言論人では務まりませんし、そのリスクは、マイナスに転ぶこともあります。でも総じて、リスクは、取った人にプラスに入るだろうと私は思うのです。だけど今は、多くの人がそのリスクにひるんでいる状況になってしまっているのではないでしょうか。私はこれからも、リスクを取っていきたい。他の人よりは、失うものがあるとは感じていないということ。それが私の利点、強みだと思うので、それを生かしていきたいと思っています。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 孫崎享

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