「るるる」の名付け親
――「近藤るるる」というペンネームの、名付け親がいるとお聞きしました。
近藤るるる氏: 高校では漫画ばかり描いていたのですが、なんとか大学に入る事が出来ました。福岡の大学で生徒数も普通の大学より少なくて、サークル数もそれほど多くはありませんでした。「漫研がないな」と探していたら、美術部らしきものを見つけました。そこが実質、漫研だったので入ることにしたんです。
ある日大学の漫研の先輩が「漫画大賞に出すぞ」と言うので「じゃあ、私も一緒に出します」という感じで出したのですが、結局、私だけだったようです。その先輩が「近藤るるる」というペンネームの名付け親なのです。私がサークルに入った時に、先輩はすでに5年生でした。先輩はものすごい読書家で、小説などが部屋に山積みという感じでした。すごく理屈っぽくて、初めて遊びにいったときなど「初対面で、こんなことを言う人がいるんだ」と、軽いカルチャーショックを受けるほどめちゃくちゃなことを言う人でしたが、何度か遊びに行っているうちに先輩とも仲良くなりました。
――印象深い先輩の誘いがきっかけになったのですね。
近藤るるる氏: はい。それまで、漫画家を職業にするという意識はまったくありませんでした。遊びというか、趣味でやっていて、みんなが喜んでくれるからやっているような感じでした。私は漫画の描き方という本も読んだことはないですし、絵の学校に行ったこともありません。単に好きで、趣味のような絵を描き続けて、ここまできた感じもします。
求人情報誌で、アシスタントに
近藤るるる氏: 『愛の砂嵐』で漫画大賞をいただいた頃には「将来は、漫画家」と考えるようになりましたね。私は大学を辞める前に、1年、休学届を出したのですが、そのことでも親とはもめましたし、不安はありました。盆、正月に祖母の家に親戚一同が集まるのですが、そこで「漫画家になるよ」と言っても、「お前は馬鹿じゃないのか」とか「そんなものなれるわけないだろ」などと、親戚中から言われましたよ(笑)。
――周りは敵だらけ、という感じですね。
近藤るるる氏: 味方がいませんでした。でも賞をもらったので、「これからは、どんどん仕事が舞い込んでくる」と思っていました。実際は、飛び込みの仕事は時々あるという感じで、次第に「これでは困るな」と思うようになりました。親とも仕送りの問題などで、喧嘩状態になってしまい、私はアルバイトをして生活費を稼ぐことになったのです。それでバイトを探していたら、求人情報誌『an』に『クッキングパパ』のうえやまとち先生のアシスタント募集の記事が載っていたのです。ちょっとした巡り合わせだなと思いました。
当時の先生の仕事場は、私の住んでいるところから自転車で山を2つ越えるくらいのところで、だいたい10キロくらいあったでしょうか。その頃はスマホもないし、家を探してもわからなくて、派出所で聞くと「ああ、うえやまさんね」と教えてくれたものです。先生に、私が描いた絵を見てもらったところ、採用されました。うえやま先生のアシスタントは2年くらいやっていましたね。
動き出した漫画家への道
――その後、『アスキーコミック』での連載が始まり……。
近藤るるる氏: 連載が始まって、単行本が出たので親戚にも、「こんなの、でたよ」という感じで知らせたり送ったりすると、ガラッと風向きは変わっていきましたね。本という形になってしまえば説得力がありますし、父親もこっそり何冊も買っていてくれたようです。初めて単行本化された時は、やっぱりうれしかったですね。雑誌だと色々載っている中の1人ですが、単行本は自分の本が出るわけなので、高校の頃に作っていた、ホチキスで留めたコピー誌とは違うなと思いました(笑)。
――作品を描かれていて、一番楽しいのはどんな時ですか。
近藤るるる氏: 私はネームをざっと描いてから、原稿用紙にペン入れする前段階で、結構手直しをします。ネームの段階では結構書きなぐっている感じで、うまくいけばそれをそのまま使ったりしますが、だいたいグダグダなので、前後を入れ替えたりしながら再構築するというか、形を作る時が一番好きですね。
ただ、時間的に余裕があると色々考えてしまいます。自分で良くしようとか「あ、ここはこうだから、これは違うよな」というようなことを考えてしまい、なかなか始まらないのです。だから意外と切羽詰まってからの方が、乗っていける感じもします。締め切りに動かされているというか、締め切りがあるからこそやるという感じですね。