漫画は、娯楽である
現在『ガーゴイル』(原作:冲方丁、少年画報社)を連載中の漫画家、近藤るるるさん。昔から漫画やゲームが好きで、読者にも「漫画を娯楽として楽しんでほしい」という。好きなことを仕事にしてしまった近藤さんは、いかにして漫画家になったのか。そしてその想いとは……。
『ガーゴイル』で新境地を開く
――今回の『ガーゴイル』は原作付きの漫画なんですね。
近藤るるる氏: 漫画家になって最初の仕事は、原作付きではありませんでした。次の『ファミ通』で、初めて原作付きの仕事をしましたが、「難しい」と感じ、それ以来敬遠していました。少年画報社での『アリョーシャ!』が終わった時に、「じゃあこういうのがあるんだけど、どう?」と担当編集者に勧められたのがきっかけです。
その方は、角川にいた時に『黒蘭』の連載で一緒にお仕事させていただいた方で、冲方さんと知り合いでした。私の描く漫画とはちょっと方向性が違う感じの内容で面白そうだなと思いやることになりました。
私にくる依頼は美少女漫画寄りで、「かわいい女の子を描いて」というのが多いのですが、今度は内容が新撰組でおっさんばかり(笑)。「あ、そんなのを描かせてくれるんだ。ちょっと面白いな」と思いました。そうやって新撰組の漫画『ガーゴイル』が始まりました。格闘系の作品も書いていたので、改めて「やるぞ」という気持ちも強かったかもしれません。
喜んでもらえるのが嬉しかった
――漫画は描くのも読むのも好きだということですが。
近藤るるる氏: 好きなものを仕事にしてしまったわけですが、これで良かったなと思います。作業などはたまに「しんどいな」と思うこともありますが(笑)、「もうやりたくない」とか、「辞めたい」と思うことはありません。作ったものに対して、人が喜んでくれたりすることが好きなのだと思います。
徳島の幼稚園にいた頃から描いていました。3歳上の姉も絵を描いていて、その影響も大きかったと思います。幼稚園の中でも得意な方で、周りの人も私の絵を見て喜んでくれたり、褒めてくれたりしました。小学校3年生くらいから、藤子不二雄先生の漫画の真似ごとをするようになりましたね。そのうち自分で話を作って描くようになると、クラスの友達が休み時間に机の周りに集まってきて、読んで喜んでくれました。
――どんな内容なんですか。
近藤るるる氏: 藤子不二雄先生の世界名作童話の『みにくいアヒルの子』という、ちょっとギャグ漫画のような短編集があるのです。それを真似て、『みにくいカラスの子』という感じのものを描きました。藤子先生の『みにくいアヒルの子』を知らない子は、「面白いなあ」というようなことを言ってくれるわけです。完全なパクリでしたね(笑)。
最初は私だけが描いているような感じでしたが、高学年時に知り合った友達2人が絵がうまくて、意気投合し一緒に描くようになりました。みんなが作った作品を展示するという学校の催しがあって、その時に、きちんとしたストーリー漫画を書こうという話になったのです。その頃は鉛筆書きでしたね。
――反応は上々ですね。
近藤るるる氏: 親からは「勉強しなさい」という反応でしたが(笑)。私が子どもの頃は、まだ漫画の市民権は得られておらず「目も悪くなる」というようなことを言われていましたし、親には快く思われていなかったと思います。授業中などに、こそこそ描いていましたね(笑)。
「本、作ろうぜ」会社の隣で、こっそり製本
――高校では、「ドラクエ」にはまっていたそうですね。
近藤るるる氏: 高校1年の終わりくらいに「ドラクエ」のⅠが出たのです。でも私の高校は一応進学校だったので、別の高校に通っている……つまり進学校ではない中学校時代からの友達の家に行って「ドラクエ」をやっていました。高校は帰宅部でゲームばかりしていました。友達とはゲーセンにもしょっちゅう行っていたので、友達と「将来、セガに入ろうぜ!」と盛り上がっていました。ちょうど高校2、3年生の頃「スペースハリアー」というゲーセンの稼働筺体が出てきて、「やっぱ、すげーな」と感動していました(笑)。
――ゲームに夢中で、漫画の方は。
近藤るるる氏: ゲームをやりつつも、高校でも授業中に漫画を描いていましたね。漫画がうまくて詳しい友人と「本、作ろうぜ」という話になりました。コピー代が1枚30円の頃ですが、10円でコピーできるところを探していました。自転車でそこそこ距離のある印刷所にたどり着いたのですが、なんと父親の隣の会社でした。まさか、自分の子供が勉強もせずに漫画を描いて、隣でコピーしているとは父親も思うまいと(笑)。
結局、親に知られることはなく、漫画のコピー誌のようなものを、20部~30部くらい作って学校で売っていました。その漫画は、ほかのクラスの人なども買いにきたりしました。ネタが学校の先生と生徒が戦うような内容で、ちょっと島本和彦先生の『炎の転校生』のパクリのようなところがあったのですが、結構うけました。友人の結婚式で宮崎に戻った時、まだその漫画を大事に持っていてくれた事を知りました。
「るるる」の名付け親
――「近藤るるる」というペンネームの、名付け親がいるとお聞きしました。
近藤るるる氏: 高校では漫画ばかり描いていたのですが、なんとか大学に入る事が出来ました。福岡の大学で生徒数も普通の大学より少なくて、サークル数もそれほど多くはありませんでした。「漫研がないな」と探していたら、美術部らしきものを見つけました。そこが実質、漫研だったので入ることにしたんです。
ある日大学の漫研の先輩が「漫画大賞に出すぞ」と言うので「じゃあ、私も一緒に出します」という感じで出したのですが、結局、私だけだったようです。その先輩が「近藤るるる」というペンネームの名付け親なのです。私がサークルに入った時に、先輩はすでに5年生でした。先輩はものすごい読書家で、小説などが部屋に山積みという感じでした。すごく理屈っぽくて、初めて遊びにいったときなど「初対面で、こんなことを言う人がいるんだ」と、軽いカルチャーショックを受けるほどめちゃくちゃなことを言う人でしたが、何度か遊びに行っているうちに先輩とも仲良くなりました。
――印象深い先輩の誘いがきっかけになったのですね。
近藤るるる氏: はい。それまで、漫画家を職業にするという意識はまったくありませんでした。遊びというか、趣味でやっていて、みんなが喜んでくれるからやっているような感じでした。私は漫画の描き方という本も読んだことはないですし、絵の学校に行ったこともありません。単に好きで、趣味のような絵を描き続けて、ここまできた感じもします。
求人情報誌で、アシスタントに
近藤るるる氏: 『愛の砂嵐』で漫画大賞をいただいた頃には「将来は、漫画家」と考えるようになりましたね。私は大学を辞める前に、1年、休学届を出したのですが、そのことでも親とはもめましたし、不安はありました。盆、正月に祖母の家に親戚一同が集まるのですが、そこで「漫画家になるよ」と言っても、「お前は馬鹿じゃないのか」とか「そんなものなれるわけないだろ」などと、親戚中から言われましたよ(笑)。
――周りは敵だらけ、という感じですね。
近藤るるる氏: 味方がいませんでした。でも賞をもらったので、「これからは、どんどん仕事が舞い込んでくる」と思っていました。実際は、飛び込みの仕事は時々あるという感じで、次第に「これでは困るな」と思うようになりました。親とも仕送りの問題などで、喧嘩状態になってしまい、私はアルバイトをして生活費を稼ぐことになったのです。それでバイトを探していたら、求人情報誌『an』に『クッキングパパ』のうえやまとち先生のアシスタント募集の記事が載っていたのです。ちょっとした巡り合わせだなと思いました。
当時の先生の仕事場は、私の住んでいるところから自転車で山を2つ越えるくらいのところで、だいたい10キロくらいあったでしょうか。その頃はスマホもないし、家を探してもわからなくて、派出所で聞くと「ああ、うえやまさんね」と教えてくれたものです。先生に、私が描いた絵を見てもらったところ、採用されました。うえやま先生のアシスタントは2年くらいやっていましたね。
動き出した漫画家への道
――その後、『アスキーコミック』での連載が始まり……。
近藤るるる氏: 連載が始まって、単行本が出たので親戚にも、「こんなの、でたよ」という感じで知らせたり送ったりすると、ガラッと風向きは変わっていきましたね。本という形になってしまえば説得力がありますし、父親もこっそり何冊も買っていてくれたようです。初めて単行本化された時は、やっぱりうれしかったですね。雑誌だと色々載っている中の1人ですが、単行本は自分の本が出るわけなので、高校の頃に作っていた、ホチキスで留めたコピー誌とは違うなと思いました(笑)。
――作品を描かれていて、一番楽しいのはどんな時ですか。
近藤るるる氏: 私はネームをざっと描いてから、原稿用紙にペン入れする前段階で、結構手直しをします。ネームの段階では結構書きなぐっている感じで、うまくいけばそれをそのまま使ったりしますが、だいたいグダグダなので、前後を入れ替えたりしながら再構築するというか、形を作る時が一番好きですね。
ただ、時間的に余裕があると色々考えてしまいます。自分で良くしようとか「あ、ここはこうだから、これは違うよな」というようなことを考えてしまい、なかなか始まらないのです。だから意外と切羽詰まってからの方が、乗っていける感じもします。締め切りに動かされているというか、締め切りがあるからこそやるという感じですね。
編集者との雑談が、創作の活力に
――編集者とはどのようなやり取りをしていますか。
近藤るるる氏: 原稿の受け渡しは電子化されて、昔に比べるとスムーズで、受け取る方も楽になったのではと思います。それでも月1の打ち合わせは必ず会ってします。内容について喧々諤々やるというより、内容に関して少し話して、雑談するという感じですが、それが活力にもなります。私は編集の方と会って話をするのが、結構好きです。仕事の内容とは関係ないのですが、業界の話などもしてくれますし、そういった話を聞くのが私は好きなのです。
――どんな存在ですか。
近藤るるる氏: 一番目の読者ですね。私の漫画を最初に読まれる方なので、編集さんが喜んでくれれば読者の方もきっと喜んでくれるんじゃないかと思っています。編集者の反応がなんとなく薄いなという時は、「ちょっと展開が良くなかったかな」などと考えたりもします。流れが悪いとか、話の持っていき方が良くない時は、色々アドバイスをしてくれます。編集者が言ってくれることは、こちらも心の中で分かっていたりすることもあるのです(笑)。「ああ、そこはやはりつつかれたな」ということも結構ありますよ。だから、私にとって編集者というのは、作品ができ上がる前からの第一の読者であり、共同で作業する人でもあり、欠かせない存在ですね。それと、作家と読者を正しくつなげることができる人ですかね。
――「正しくつなげる」とは。
近藤るるる氏: 作家に社会性を持たせてくれるのが編集者という存在なのではないかと思います。時間や締め切りの管理も含めたマネージメントをやってくれるので、作家は作品に集中できます。電子書籍時代となっても、やっぱり必要な存在だと思いますよ。
新技術と書き手、読者の関係
近藤るるる氏: 昔の単行本が電子化されるにあたり、電子書籍を見ました。目次などが分かれていて、電子書籍が出た頃と比べると、すいぶん扱いやすく進化していると思いました。いずれほぼ電子書籍になるのだろうなと、その時に思いましたね。
最近の若い子はスマホで漫画を読んでいたりしていて、普通の文庫本や本での漫画の読み方がわからない子が出てきているという話を聞いて、驚きました。それから、最近テレビCMでもやっている「縦読み」。スマホで漫画を読み始めた時に、通常の単行本をスマホで読ませるのは厳しいだろうなと思っていたのですが、やはりこういうものが出てきたかと思いました。
――電子書籍の普及で、漫画の描き方にも変化が起きそうですか。
近藤るるる氏: 電子書籍ばかりになると、漫画も少し変わるかなという気はします。今『ガーゴイル』という新撰組の漫画以外に、『神撃のバハムート』というCygamesさんのスマホのゲームの漫画をやっています。スマホで読む漫画なので、フラッシュで動かそうという話になりました。
4話分を描いて、次の括りの5話から8話のところで動かす要素を取り入れようということで、キャラクターはキャラクターだけ、背景は背景だけ、吹き出しは吹き出しだけ描いていきました。でも、パーツごとにバラバラに分けて描くのは、作業量も増えましたし、大変でした。でも、みんながみんなそれなりの性能のスマホを持っているわけではないし、携帯などで見ている人もいる。重くて見られない、動かないという話になったようで、すぐに止めることになりました(笑)。
生活の合間に喜んでもらいたい
――近藤先生のホームページでは、壁紙がダウンロードできますね。
近藤るるる氏: 私のサイトの管理をしてくれているスタッフが「サイトを見にきてくれるファンの人たちに、壁紙をダウンロードできると喜ばれるのではないか」と言われたのがきっかけです。「不定期でもいいので、描きましょう」と勧められて始めました。私の漫画の場合、ターゲット層は結構絞られていて、その人たちに喜んでもらいたいという気持ちがあるので、サービス的な要素を入れてみたりといったことは、結構考えたりします。
私の中には「漫画は、娯楽である」という意識があります。漫画を読むのは、仕事の合間であったり、気分転換にもなるので、楽しんでもらいたいという気持ちが第一にあります。「私の考えを見ろ!」とか、「私の思想を、みんな、分かってくれ」というようなことはあまり考えたことはありません(笑)。娯楽として、クスッと笑って、いい気分になってもらえればいいと思っています。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 近藤るるる 』