症状の「元」を捉えよ
『人体力学』に基づいた整体をおこなう井本邦昭先生。整体指導者であった父・良夫氏より整体の手ほどきをうけ、その後欧州での留学を経て、現在は東京と山口を拠点に、整体指導をおこなっています。整体の道への歩み、欧州での出来事、井本整体を受け継ぐ全国から集まる生徒たちへの想いなど、井本先生の「今」の想いを伺いました。
「人体力学」に基づく、整体を
――井本先生の提唱する『人体力学』について伺います。
井本邦昭氏: 先程も、乳がんを患っている若い方が、「手術をした方がいいか、手術以外の方法はないか」と訪ねて来ました。下腹部も時々痛むそうですが、検査ではどこも悪くない。病気の原因が、体のどこかほかにあるのです。原因となる場所は人それぞれですが、私たちはそこを見つけていかなければなりません。
目で見ると、乳房と右の9番という肝臓を結んだ線が斜めにあって、これが下腹のところへきています。どこかで力を補うところが出てきます。色々なところに力が流れているので、その元になるところを探し当てて変えることで、色々な症状を緩和させる。これが、私たちが提唱する『人体力学』に基づく施術です。
――先生が「整体」を教えるようになったのはどうしてなのですか?
井本邦昭氏: 今からさかのぼる事25年以上前に当時の浦和市長であった本田直一氏から、「ぜひこちらへ来て、教えてくれませんか」というオファーを受けたのがきっかけです。それで埼玉県一円を2年がかりで回りました。この時、各生活クラブ生協が人を集めたところを回ると受講生が各教室には100名から、200名と常に満員だったのですが、その時に巷では整体の看板を掲げている人がとても多く、「こんなに難しい整体をよく大勢な人がやっているなぁ」と驚きました。しかしよくよく聞きましたら実はそれは整体ではなく、マッサージのようなことをしていたのです。マッサージも立派な職業ですが技術的にはマッサージはマッサージ、整体は整体と違うのです。それで「これが本物かどうかは分からないけれど、私の中での『整体』を教えてあげよう」ということで、私も本気になりました。一般的なマッサージのようなものを整体だと認識してはいけないので、『人体力学』を旗揚げしました。
――(千駄ヶ谷の井本整体にて)こちらの教室へ移られてどれくらいになりますか。
井本邦昭氏: 今年でちょうど10年になります。徳山(山口県周南市)と東京の二拠点を往復する日々です。先ほど申し上げたように生活クラブ生協が人を集めたところを回りましたが、それ以外の人達も次々に集まってくるので、次第に「どこかに拠点を持たなければ」と考えるようになり、原宿に場所を持つことにしました。さらにそこも手狭になり、音羽にある能舞台をお借りして、原宿と音羽の二カ所でやっていました。二カ所の往復は時間がもったいない上に生徒のみんなも不便を感じ現在の千駄ヶ谷にビルを持ち移りました。
親父の背中を見て整体の道へ
――整体への道はいつ頃から志していたのでしょうか。
井本邦昭氏: 親父が整体をやっていまして、小さい時から、親父を継ぐのが当たり前だと思っていました。友人たちは「あれになりたい」、「これになりたい」などと色々言っていましたが、私にはそういうものはありませんでした。親父の仕事を見て育ちました。一緒に電車に乗って仕事場に行くのですが、冬になると消し炭と新聞紙を持って行くんです。当時は今とは違って、七輪に消し炭を入れて火をおこして、火のついた消し炭と4~5個の炭を加えて、火鉢の中に入れていたんです。小学校3、4年生の時のことでしたが、苦にもならず当然のように通っていました。小間使いをしつつ、親父が整体しているのをそばでじーっと見ていました(笑)。
もっと世界を見てみたい
――大学卒業後は、さらに学びを深めるためヨーロッパへ渡ることに。
井本邦昭氏: 小さい時からずーっと親父のそばにいた事もあって、親のそばから離れたいというエネルギーが圧縮されて爆発した結果「もっと世界を見てみたい」という想いで、大学卒業後に渡欧しました。
整体の勉強が遅れるという焦りもありましたが、それよりも色々なことを今勉強したいという思いが強かったのです。西欧人は体の構造自体は日本人と同じでも、働きが少し違う。仕組みは全く同じなのに何かが違う。こういった違いを学ぶ事ができたのは貴重な体験でした。ヨーロッパにいたのは1年半くらいでしたが、色々なことがありました。
――ジュネーブでも整体をされていたそうですね。
井本邦昭氏: 1970年頃は、柔道の道場を借りて、週末に整体操法をやらせてもらっていました。ちょうど花時計の反対側のジュネーブの丘を上ったところにありました。私はヴァレー州のシェールというイタリアに近いところにいたのですが、ジュネーブ大学の教授が「シェールの様な片田舎より、ジュネーブに出てきなさい。週末だけではなく、ずっといなさい」と言って、ジュネーブ駅前のベン・ケイというドクターを紹介してくれました。
ベン・ケイは精神科の医者だったのですが、診察室にあるのは聴診器と、ビタミン剤くらい。面接を受けると「すぐ来てほしい。とにかくあなたの技術が必要なのです。週3日程度、午前中だけ。給料は思う存分出します。部屋も与えます。レマン湖にある私のヨットも使っていいです(笑)これでどうでしょう」という話になりました。当時の平均給与を考えても破格の待遇でしたが、あまりお金に執着はありませんでした。
――ジュネーブの整体操法は各方面からも反響があったそうですね。
井本邦昭氏: 北原大使が国連大使をやっていた当時、大使の公邸に週末出入りしていました。前任者の中山大使を大使公邸で診ていていたのですが、その後、中山さんがパリに行き、北原さんがベトナムから国連大使として来られました。奥さんの具合が悪いから診てくれと、私のアパートまでジュネーブからキャデラックで迎えに来られていました。この時、大使の公邸の1室を私のために使わせて頂いていたのですが、ある時北原大使が、私が使っていた部屋に昭和天皇が急遽泊まられるので大事に使うようにと言われたのでした。又北原大使からピカソの姪御さんが具合が悪いからを見てもらえないかという依頼があり診る事になったのです。彼女はジュネーブで画廊を開いていたのですが、その後体がとても良くなり、彼女から「次はおじのピカソを見て欲しい」と言われたのですが、私との時間が中々合わなくて結局見ることはなかったのです。そういえば彼女から体が良くなったと言うことでピカソの絵(デッサン)を2枚くれました。その絵の内1枚は誰かにあげたように思いますが、一枚はどこにいったか覚えておりません(笑)。確か一枚は鉛筆で書かれた肖像画だったと思いますが、今でも「人にやることはないだろう!」とみんなに言われています(笑)。
著書一覧『 井本邦昭 』