“見るために描く”
――絵を書くようになったのは、いつ頃ですか。
佐藤良孝氏: 絵は小さい頃から本当に大好きでした。父も非常に絵が好きでしたから、その影響でしょうか。旅行に行く時もスケッチブックを持って行って、一緒に絵を描いていましたね。上野で展覧会があれば、親子で観に行くということもありました。絵画教室にも通っていて、確か小学校4年生くらいの時には油絵を描いていました。
――高校卒業後、創形美術学校に進まれます。
佐藤良孝氏: 高校生の頃には、自分が美術の道に進むということを当たり前のように思っていました。藝大は当時、3、4浪は当たり前で、私も藝大だけを目指して3浪しました。高校3年から予備校に通って、先生に「今年こそ入れる」などと色々励まされながらやったのですが、とうとう入ることはできませんでした。創形美術学校も当時はレベルが高くて、教育内容も良かったので予備校の先生にも薦められて入りました。
――その学校ではどのようなことをされていたのですか。
佐藤良孝氏: 当初、ただ絵が好きというくらいで、芸術家や作家になりたいという思いはあまりありませんでした。普通、美術学校では、作家志望とか、アーティスト性の強いファインアートを目指すというような人が大半です。私もそういうつもりで勉強していましたが、例えば「ああいう作家になりたい」とか、「有名になりたい」とか、そういうモチベーションはあまりありませんでした。どちらかというと、「ものを見てものを描く、そしてそれを理解する」といった、“見るために描く”という色が強かったのかなと思います。
見るということは、何か感じているわけです。それを紙に置き換える、自分から出していく。絵というのは基本的にそういうもので、そういう根本的なことには興味がありました。
創形美術学校は現代美術の作品も作りますが、古典技法や学校で教えられる、美術に関わる技術的なことをしっかり教えてくれる授業があって、日本でも当時は珍しかったです。当時の先生方は、若くて情熱を持って指導してくださり、その指導で大きな成果を上げられました。その実績からその後芸大や美大などの教授になられた先生も数多くいらっしゃいます。創形美術学校で勉強できたのは非常に良かったなと思っています。
才能を活かせる場はひとつではない
佐藤良孝氏: 卒業後は研究科に残ったり、副手として指導や研究室での作品制作、職員として教務の仕事をしたりしていました。
私は一応、ファインアートでデビューし、個展やグループ展を繰り返していました。自分のために描いて、それを個展や展覧会などで「気に入った人は買ってください」という世界です。わたしの場合そのような世界に何か違和感の様なものを感じていました。何か人の役に立つような、はっきり相手が見える仕事の方がしっくりきたのです。
私のような仕事は、「発注する依頼者がいて、それを見る読者もいる」相手がはっきりしています。自分は「この色がいい」と思っても、依頼者から「いや、こうしてくれ」というようなやり取りもあって、100パーセント自分の思ったようにはなりません。でも、そういう方が自分には合っていると思いました。今でも、美大の学生の多くは作家を目指していると思いますが、何割かは私に似た人もいると思うのです。
彩考でスタッフを募集するとそういう人が全国から少しずつ現れるわけです。ここでは全国のそういう自分と似た感覚を持つ人間に活躍の場になればと思っています。絵が好きで美術学校に入っても、色々な道があると思います。ファインアートの道だけでなく、様々な道があるのです。
――アーティストではなく職人として生きる道もある、と。
佐藤良孝氏: 100年少し前まで絵描きは、教会や貴族あるいは富裕層から頼まれて描くのは当たり前でした。「自分のために描いて、気に入ったら買ってください」という方が歴史から言えば特殊なのです。だから、道は1つではない。様々な分野に活躍の場があると思います。それに視覚の仕事、見せるとか見るという部分の仕事は今、非常に多いと思うのです。その会社の製品や、会社自身をアピールする時に、視覚で訴える必要がありますよね。視覚を意識して勉強している人ほうが、プレゼンテーションやアピールも当然上手ですし、活躍の場はたくさんあると思います。