デジタル時代の美術論
グラフィックデザイン制作とシステム開発の制作会社「彩考」の代表を務める佐藤良孝さん。メディカル・イラストレーション分野の制作に力を入れられており、デザインフェスタへの出展、美術解剖学会での講演などもおこなっています。美術とデジタルの関係とは。佐藤さんの想いを伺ってきました。
アナログとデジタルのはざまで
――佐藤さんが代表を務める「彩考」について伺います。
佐藤良孝氏: 創業したのは1990年。当時はまだバブルがはじける前で、世の中の景気も良く、起業に対しても楽観的に考えていました。結婚し、子供もできたので務めていた学校を辞めて、「なんとかしなければいけない」と、思って始めたのです。「自分にできることはなんでもやろう」と、美術を専門にやっていたので、イラストレーションと、システム開発の二足の草鞋をはいていました。最初は医学関係に限定していませんでしたが、もともと人体とか絵を描く時でも非常に興味があって、人体デッサンも好きでした。医学関係のイラストを並行してやっていて、徐々にその専門になってきたという感じです。
グラフィックデザインとシステム開発は、どちらも取り組んで25年になります。パソコンが出てきた当時は、そういう仕事も少なかったですし、個人で開発を請け負う人が結構いました。今は企業が開発部を作って、様々な分野で特化してやっているので、技術もどんどん進歩してきています。私はというと、動いているプログラムをメンテナンスするくらいで、現在は紹介の依頼しかやっていません。大変なのでね(笑)。当時はスタンドアローンで……パソコン1台でやるとか、せいぜい社内のLANくらい。まだインターネットがない時代でしたね。
――グラフィックデザインもコンピューター化されました。
佐藤良孝氏: たまたまプログラミングもやっていたので、「いずれはグラフィックの分野もコンピューター化されるだろう」と感じていました。当時のNECの9801というパソコンにグラフィックボードを入れるとフルカラーの絵が描けるようになったのです。100万円近くしましたが、それで無理やりイラストレーションを描いていました。3Dグラフィックスも当時はできたのですがビジュアルなインターフェースなどなく、遅くて遅くて(笑)。
どういう形をどこに置くかプログラムを書いて、それを実行して、朝起きてみると半分くらいしかできなかったことも。失敗したらもう1回やり直し。商売というよりは、新しいことに挑戦していたという感じです。
――全てが試行錯誤の時代だったのですね。
佐藤良孝氏: 当時は、パソコンで描いた絵も、デジタルのまま送ることはできませんでしたから、結局、デジタルの絵を紙に出力して入稿していました(笑)。渋谷の出力センターなどに行って料金を支払ってプリントして、それを出版社や雑誌社に持って行っていました。それでも、当時は面白かったのですが、私は今、逆に手書きの方に戻っています。『骨と筋肉がわかる人体ポーズ集』も8割くらい筋肉の動きは鉛筆でデッサンしました。2冊目の『体表から構造がわかる人体資料集』もほとんど手で描いています。
――佐藤さんの、デジタルとアナログを使ったイラストの技法が気になります。
佐藤良孝氏: 私の場合は、アナログで描いたものをデジタル化して、それをアナログに戻すなど、色々なことをやります。コンピューターが間に入ると、直接的でない部分がどうしてもあります。
もちろんタブレットで鉛筆のようなタッチも描けますが、やはり何かが違う気がします。鉛筆や色鉛筆の、あの紙に引っかかっていく感覚が、筋肉の緊張感などをより表現させるのではないかと感じるのです。
下絵の段階でも、最近は手書きを増やして、最後にコンピューターで処理をします。するとちょっと深みのあるというか、どちらかだけでは表現できないようなことが、効率よくできます。
これを積極的に考えるヒントとして、私が学生の時に学んだ古典技法の中に、テンペラと油絵の具を両方使うミックステクニック(混合技法)という技法があります。絵具の顔料はみんな同じですが、メディウムというか接着剤が違うのです。テンペラは卵を酢や水で薄めたメディウムを使い、油絵の具は乾性油、固まる油を使ってくっつけるということなのです。それぞれかなり性質が違いますが、うまく組み合わせると非常に効率よくできるという方法があるのです。ただし、両方の性質をきちんと知っておかないとグチャグチャになりますが…。このように、違う技法をうまく結び付けると新しい表現や、今までにない効率的な方法がとれるということがあります。私には、デジタルとアナログも、その混合技法のように思えるのです。
――2つの技法を融合して、さらに良い技法や作品を生みだすことができるのですね。
佐藤良孝氏: いいところもあれば欠点もあります。大事なのは特性をきちんと理解して知るということです。
私は今、美術は教えていませんが、美術学校の先生にはそういった色々な技法や知識を知っていてほしいという思いがあります。今は、どうしてもコンピューターの中だけでものごとを考えて、面倒くさいからとアナログなことをなかなかしようとしない。情報も、コンピューターの中からの情報しかなくて、図書館に行かないし、本も読まない。美術を学ぶ人たちには、もっと広く色々なものを吸収して、自分の表現に結び付けてもらいたいと思っています。
“見るために描く”
――絵を書くようになったのは、いつ頃ですか。
佐藤良孝氏: 絵は小さい頃から本当に大好きでした。父も非常に絵が好きでしたから、その影響でしょうか。旅行に行く時もスケッチブックを持って行って、一緒に絵を描いていましたね。上野で展覧会があれば、親子で観に行くということもありました。絵画教室にも通っていて、確か小学校4年生くらいの時には油絵を描いていました。
――高校卒業後、創形美術学校に進まれます。
佐藤良孝氏: 高校生の頃には、自分が美術の道に進むということを当たり前のように思っていました。藝大は当時、3、4浪は当たり前で、私も藝大だけを目指して3浪しました。高校3年から予備校に通って、先生に「今年こそ入れる」などと色々励まされながらやったのですが、とうとう入ることはできませんでした。創形美術学校も当時はレベルが高くて、教育内容も良かったので予備校の先生にも薦められて入りました。
――その学校ではどのようなことをされていたのですか。
佐藤良孝氏: 当初、ただ絵が好きというくらいで、芸術家や作家になりたいという思いはあまりありませんでした。普通、美術学校では、作家志望とか、アーティスト性の強いファインアートを目指すというような人が大半です。私もそういうつもりで勉強していましたが、例えば「ああいう作家になりたい」とか、「有名になりたい」とか、そういうモチベーションはあまりありませんでした。どちらかというと、「ものを見てものを描く、そしてそれを理解する」といった、“見るために描く”という色が強かったのかなと思います。
見るということは、何か感じているわけです。それを紙に置き換える、自分から出していく。絵というのは基本的にそういうもので、そういう根本的なことには興味がありました。
創形美術学校は現代美術の作品も作りますが、古典技法や学校で教えられる、美術に関わる技術的なことをしっかり教えてくれる授業があって、日本でも当時は珍しかったです。当時の先生方は、若くて情熱を持って指導してくださり、その指導で大きな成果を上げられました。その実績からその後芸大や美大などの教授になられた先生も数多くいらっしゃいます。創形美術学校で勉強できたのは非常に良かったなと思っています。
才能を活かせる場はひとつではない
佐藤良孝氏: 卒業後は研究科に残ったり、副手として指導や研究室での作品制作、職員として教務の仕事をしたりしていました。
私は一応、ファインアートでデビューし、個展やグループ展を繰り返していました。自分のために描いて、それを個展や展覧会などで「気に入った人は買ってください」という世界です。わたしの場合そのような世界に何か違和感の様なものを感じていました。何か人の役に立つような、はっきり相手が見える仕事の方がしっくりきたのです。
私のような仕事は、「発注する依頼者がいて、それを見る読者もいる」相手がはっきりしています。自分は「この色がいい」と思っても、依頼者から「いや、こうしてくれ」というようなやり取りもあって、100パーセント自分の思ったようにはなりません。でも、そういう方が自分には合っていると思いました。今でも、美大の学生の多くは作家を目指していると思いますが、何割かは私に似た人もいると思うのです。
彩考でスタッフを募集するとそういう人が全国から少しずつ現れるわけです。ここでは全国のそういう自分と似た感覚を持つ人間に活躍の場になればと思っています。絵が好きで美術学校に入っても、色々な道があると思います。ファインアートの道だけでなく、様々な道があるのです。
――アーティストではなく職人として生きる道もある、と。
佐藤良孝氏: 100年少し前まで絵描きは、教会や貴族あるいは富裕層から頼まれて描くのは当たり前でした。「自分のために描いて、気に入ったら買ってください」という方が歴史から言えば特殊なのです。だから、道は1つではない。様々な分野に活躍の場があると思います。それに視覚の仕事、見せるとか見るという部分の仕事は今、非常に多いと思うのです。その会社の製品や、会社自身をアピールする時に、視覚で訴える必要がありますよね。視覚を意識して勉強している人ほうが、プレゼンテーションやアピールも当然上手ですし、活躍の場はたくさんあると思います。
世の中に無かった本をつくる
――『骨と筋肉がわかる人体ポーズ集』が出されることになったのは。
佐藤良孝氏: 最初の本『骨と筋肉がわかる人体ポーズ集』は出版社側の発想で、私に依頼があり、一緒に作りました。美術解剖にはずっと興味を持っていました。メディカル・イラストレーションという分野では、当然、筋肉や骨、体表に焦点をあてて描くことが多くあります。美術解剖学として、筋肉や骨の本は過去色々出ていますし、描き方の本のようなものもでていましたが、そのものの動きについて注目した本はなかったので、それを描こうということになりました。できあがった本は評判になって、翻訳版も出ました。
それで、次はこちら側からの発想として、体表解剖をテーマとした2冊目の『体表から構造がわかる人体資料集』を出版しました。体表解剖学について書かれた良書は、古い本には何冊かあります。しかし、最近はまとまった本がありませんし、美術解剖学の世界から見ても、体表解剖という切り口でまとめられた本がなかったので、自分で書いたのです。ドクターの方などからも読まれているようで、「絵を論文の引用に使いたい」との依頼のメールを頂きました。
――アナログとデジタルの技法、それに想いが重なって出来上がっていくのですね。
佐藤良孝氏: 書籍の電子化は、否応なしにどんどん進んでいくと思います。今のところ私は試しに使ってみる程度です。将来の風景はどうなるかまだ誰もその明確な答えを持っていないのではないでしょうか。電子書籍がもっと浸透してきた時に、どういう形が1番いいのか議論されるようになるのかなと思います。私たちが1番気をつけなくてはならないのは、著作権とか、作り手がものを作れる環境を維持するということ。いい作り手がいなくなると良いものはできなくなりますから、作り手が安心して仕事ができるような状況になってほしいと思います。
イラストレーションの世界においては、「メディカルの分野はまだいいよね」と言われます。一般のイラストレーターやカメラマンはもっと酷いと聞きます(笑)。作り手が生活できなくなってきている状況も多いですし、これをそのままにしておくのは良くないと思います。結局、良いものはできなくて、良いものが何であるのかも分からなくなるようなことになるのではないかと思っています。
イラストに限っていえば、解像度やプロセスなど、技術的にはある程度円熟してきていると思います。アナログとデジタルの両方をやってきた私から見ると、デジタル技術は1つの大きな方法ですがそれだけではないと思います。アナログでもデジタルでも、要するに1番ふさわしい方法でモノを作るという感覚ですね。
知的好奇心が開いてくれた本の世界
――読み手としてはいかがですか。
佐藤良孝氏: 実は、中学に入るまで本をあまり読みませんでしたし、漢字も嫌いでした(笑)。それが、中学に入って知的好奇心が芽生えたのか、急に本を読みたくなったのです。少しずつですが読むようになって、高校に入ると友達はたまたま文学少年や少女が多く、彼らと話をする中で「知らないとカッコ悪い」という気持ちと、知的好奇心とで、とにかくあらゆる本を乱読しました。
最初は面白い本を読もうと思って、北杜夫や筒井康隆、星新一の本などを読んでいましたね。北杜夫の本は本当におかしくて、ケラケラ笑って読んでいました。作中にでてきた旧制高校に憧れて、西田幾多郎の『善の研究』や阿部次郎の『三太郎の日記』などといった旧制高校生の必読書や三木清の『人生論ノート』などを、哲学っぽくて難しいながらも読みだすわけです(笑)。まだ若く、青年期特有の背伸びをしているような時代で、普通のことと思っていましたけど、そうではない人も多いようです。
とりあえず、分かっても分からなくても難しい本や小説を読んだりして。読んでいて分からないことがあると、また次の本を読んでみるというように、色々な本を読みましたね。
小説や哲学関係以外では、日本人論をよく読んでいたと思います。樋口清之さんの『梅干と日本刀』、山本七平さんの『日本人とユダヤ人』、『「空気」の研究』。あるいはそこから、人類学や生物学にも少し興味を持ちました。SFに凝った時もありますし、学生の時には、メルロ=ポンティやサルトルの読解をやりました。一生懸命読んでいて、面白かったです。授業なので先生がいますから、質問されていいかげんなことを言うと突っ込まれるので、ちゃんと読みこんでいくわけです。そういうやりとりをした時間が、非常にいい経験になっているのかなと思います。
――色々な経験が、仕事にも活かされていくのですね。
佐藤良孝氏: 私は絵を描く人間なので、「空間とはなんなのだ」という漠然とした思いがありましたが、オットー・フリードリッヒ・ボルノウの『人間と空間』という本を読んで、「空間についてこんなに考えている人がいるのか」と非常にショックを受けて、その本は特に印象に残っています。それに、三木成夫の『胎児の世界』という本は、今でもたまに読み返すことがあります。これは今の仕事にもつながるような内容ですね。
――こちらにある『法隆寺とパルテノン』は。
佐藤良孝氏: この本は、田中英道さんが書かれたもので、鎌倉時代、奈良、京都の美術品や彫刻を、西洋美術との対比の中で評価した本です。私は洋画の教育を受けたので、日本美術はあまりよく分かっていません。日本画の技法も知らないですし、水墨画などを自分で描いたり研究したこともないです。また、日本美術と西洋美術、それぞれに研究者がいてはっきり分かれていて、関連性を語られるものは少ないのです。特に日本美術の解説は、具体性がなくて読んでもよく分からず不満を持っていました。我々は世界でも一級のものという評価をされている日本美術を継承する立場にいるわけです。この本に出会って、日本美術を再評価でき「こういう見方があるのか」と非常に印象に残っています。
――佐藤さんにとって、「本」はどういう存在ですか。
佐藤良孝氏: 仕事に関わっているものであり、自分を育ててくれた先生のようなものだという気がします。それに、自分でも本作りを経験してみて、本当に命を削るように作るわけですから、どんな本でも簡単にできている本はないと思います。私の本は割と若い人にも読んで頂いています。
メディカル・イラストレーションの今後
佐藤良孝氏: メディカル・イラストをきちんと組織化したいということで、川崎医療福祉大学の佐久間先生が日本で唯一、メディカル・イラストレーションコースを教えています。そこで、メディカル・イラストレーションの分野や、教育システムを組織化して、プロとして活躍できる環境を作るための活動がスタートするので、私も何かできることをやっていきたいと考えています。
今年の7月に芸大で美術解剖学会というのがありました。メディカル・イラストレーションも1つのテーマになって、私も講演しました。私のようなイラストレーターや、佐久間先生などといったその分野に携わる先生たちが講演をしました。講演のお話しは年に1回くらいで、不得手ですし(笑)、拙い短い講演でしたが、若いメディカル・イラストレーションをやっている人などが一生懸命質問してくれました。その中の1人は、「この前の講演をもう1度詳しく聴きたい」と家まで訪ねて来たので(笑)、20分くらいの講演を、その1人のために1時間以上かけてもう1度丁寧に説明しました。非常に熱心な方で、感激して帰っていきました。
――明るい展望を持てそうですね。
佐藤良孝氏: 私はたまたまこういう分野で、色々と試行錯誤してやってきました。ですが、あと2年ほどで還暦になりますので、いつまで第一線で仕事ができるかは分かりません。今うちにいる3人のスタッフにも、さらに成長してもらいたいと思いますし、自分の技術や経験してきたものを次の世代に伝えたいという気持ちは強いです。結局、技術や経験を持っていても、いずれは死んでしまうわけです。すると、何もしなければ自分のやってきたことはゼロになります。そうではなくて、次の世代にその技術を伝えていきたいということです。作品自体はデジタルとして生き残りますがいずれ時代の淘汰を受けます。自分の技術なり経験を、若い人たちが担ってくれたらいいなと思っています。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 佐藤良孝 』