原田曜平

Profile

1977年、東京生まれ。 慶應義塾大学商学部卒業後、株式会社博報堂入社。ストラテジックプランニング局、博報堂生活総合研究所、研究開発局を経て、現在に至る。 マイルドヤンキーや伊達マスクなどの言葉の名付け親であり、現代の若者全体を示す「さとり世代」という語を世に浸透させた。 多摩大学非常勤講師も務める。「ZIP!」(日本テレビ系列)等テレビ出演も。 著書に『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』(幻冬舎)、『さとり世代 盗んだバイクで走り出さない若者たち』(角川書店)、『近頃の若者はなぜダメなのか 携帯世代と「新村社会」』(光文社)など。

Book Information

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若者は時代を映す鏡



博報堂ブランドデザイン若者研究所リーダーを務める若者文化研究家の原田曜平さん。専門は日中を中心としたアジアの若者研究で、多摩大学経営情報学部でも非常勤講師としてアジア・若者マーケット論を教えています。日本テレビ系列「ZIP!」に、 毎週金曜日レギュラー出演中。「学んだことを還元したい」という原田さんに、ご自身のこと、若者研究で見えてきた未来、想いを伺ってきました。

若者と作り上げる喜び


――「博報堂ブランドデザイン若者研究所」について伺います。


原田曜平氏: 公募で集まった200人くらいの高校生から若手社会人と、私たちが一緒になって研究を行っています。その知見を生かして商品開発やテレビCMを作っています。例えば、若者向けの緑茶を作ろうという依頼が企業からあった時に、200名の中から、条件に合う子を10数名集めてプロジェクトチームを作ります。そして、3ヵ月から長い時は1年以上、週に何回か集まって開発を進めます。若者の商品の現場を僕たちと一緒に研究してくれる彼ら「現場研究員」が主役になって活躍してくれています。

――活動期間が長期に及ぶこともあるのですね。


原田曜平氏: 「現場研究員」というのは、SNSの人数や友達の数が多い「ネットワーカー」で、学校外の活動に参加するくらい相当意識の高い優秀な若者ばかりです。もちろん学生なので学業が一番で、プライベートもあります。予定通りに進まないことも多々ありますが、それも含めての若者との付き合いということで、苦労もありますが刺激を受ける毎日です。その子たちの感性と、色々なエリア、階層の多様な意見をインタビューして集められたものを我々が分析して「こういうコンセプトでいこう」と進めていきます。

「おりこう」と「やんちゃ」のはざまで


――原田さんご自身が、こうした若者文化に興味を持つきっかけはなんだったのでしょう。


原田曜平氏: 直接的な要因とは言えないかもしれませんが、海外での経験と地元のやんちゃな感じと(笑)、こういうダブルスタンダードな環境で多くのことを考えていたのがきっかけの一つでもあります。小学6年の時に商社に勤めていた親父の転勤が決まり、オーストラリアのシドニーへ転校することになりました。

――急激な環境の変化ですね。


原田曜平氏: 下町から海外へ(笑)。親父には「外国に住まわせたい」という思いがあったようですが、その当時は嫌でしたね。

シドニーは大自然が身近にありスケールが大きくて、いい国でした。日本人学校に通っていたのですが、当時は日本経済が絶好調で、「日本語を含めた日本の教育を受けさせたい」という親の意向で、現地の子どもも多く通っていました。オーストラリアはハエが多いのですが、ある日、スクールバスに入ってきたハエを、クラスメートのすごくかわいいオーストラリア人の女の子が、平気で手で潰していたのを見て驚きました。「人によって、当たり前というものは違うんだな」と勉強になりましたね(笑)。

――多様な人々とのふれあいを通して学んでいったのですね。


原田曜平氏: 小さい時にサメに足をかまれて、ものすごい傷を持っている子もいましたし、靴の中に大きな毒グモがいて救急車で運ばれる子など、語ればキリがありません(笑)。学校に通う日本人の生徒も、色々な仕事や出身地の子がいて、「同じ日本でもずいぶんと違うものなのだな」と感じたものです。

中学2年生の終わり頃に帰国して、地元から離れた中野区の中野第3中学校という公立の帰国子女受け入れ学校に通うことになりました。中学校はロサンゼルスやクウェートから帰ってきた子や、クウェートでサダム・フセインに家族ごと捕まって解放された子とかいて、不思議な環境でしたね。

公立ですので、地元から進んできた子たちもいました。「帰国子女」ということもあり最初は目を付けられたのですが、色々あってヤンキーの子たちと仲良くなったのです。彼らの話は「誰を殴った」とか「タバコは何味がおいしい」とか(笑)、自分が生きてきた世界と違っていました。でもみんな温かくて、最初は「なんだよ、オーストラリアってどこよ」という感じでしたが、すぐに受け入れてくれました。卒業、受験の時期になるとヤンキーの子たちに「最近、お前マジで付き合い悪くない?」と言われながらも勉強することにしました。その頃の仲間とは、今でもたまに会ったりします。

ラグビーシャツに込められた想いとスピルバーグからの手紙


――その甲斐あって巣鴨高校に進まれます。


原田曜平氏: 高校は、ふんどし締めて海に行かせたり、1日かけて山を登らせたり、1時間目と2時間目の間に体操があったりと超スパルタ学校で……(笑)、自由な気風から超管理学校に入ったので、ギャップがありました。クラスメートは優秀で東大進学率も高く、320人中現役で50名くらいが東大に入っていました。学校の先生も「東大以外は学校じゃない」という感じで、みんな東大を目指していました。

僕は駿台のお茶ノ水校で一浪しました。浪人中に、近くの祖母の家で、レンタルビデオのハリウッド映画中心に、一生分くらいの映画を見ました。ちょうど野島伸司という脚本家が全盛期で、自分も文章を書くのが好きだったのもあって、脚本家になりたいと思うようになりました。映画を見たり、脚本を書いたり、脚本を英訳してスピルバーグに送ったりもしました。「君が日本で有名な映画監督になったら、ぜひその作品を見せてくれ」という、決まったような返事の手紙が帰ってきたのを覚えています(笑)。親父の想いもありましたし、慶応の商学部に絞りました。

――親父の想い、とは。


原田曜平氏: オヤジは早稲田出身です。家庭が貧しかった親父は、なんだかお金持ちが多そうな慶應にコンプレックスを感じ、憧れはあるものの、受けることができなかったそうです。が、会社に入ると、慶應人脈の強さに驚いたそうです。それで僕が小さな頃から、「慶応に行ってくれ」という感じが強かったです。そういうわけで僕は小学校時代、毎日、慶応のラグビージャージを着せられて学校に通っていました(笑)。黄色と黒のラグビージャージでしたが、子ども用のものはけっこう高かったんですよ。それが何枚も家にあって、毎日、着替えていたのですが、20歳の時の同窓会で「原田の家って貧乏だったよね。お前、いつも同じ服を着てたじゃん」と言われました(笑)。

父の哲学「孟母三遷」


――慶応では念願の(?)ラガーシャツを着て……。


原田曜平氏: いやいや(笑)。高校の監禁生活と、浪人時代の引きこもり生活で、女の子と恋愛もしたいし「大学デビューしたい!」という想いが募っていましたから(笑)。でも免疫もなくて、日本女子大と提携している、ごく普通のテニスサークルに入りました。

大学も行かずに、映画を見るかテニスサークルに行っているという自堕落な学生生活を送っていたら、親父が新聞の広告で日米学生会議という団体を探してきて「お前、これに応募したら?」と言ってきました。日米の大学生をそれぞれ30名、選出して、1ヵ月アメリカを旅して各都市をリサーチして、環境問題や外交、経済などの分科会に分かれてディスカッションするというものでした。色々な価値観や知識も得られるだろうからということでしたが、僕は興味がなかったし、英語で論文なんて書けないから内心困ったなと。「小遣い停止するぞ」と脅されて、仕方なく面接を受けました。

――行ってみて、どうでしたか。


原田曜平氏: 移動しながら、各大学の寮などに泊めてもらったのですが、アリゾナ州立大学の授業も受けました。60人もいるので、アメリカ人でも色々な学生がいます。危ないことしていたり、一方でハーバードの優秀な子がいたり、恋愛やけんかもおこります。そういった共同生活も、勉強になったと思います。それから、マサチューセッツのスミスカレッジという女子大に行って、次はシカゴ、イェール大学、コロンビア大学など、色々なアメリカの超一流大学に行って議論したりしました。世界のエリートを肌で感じることができ、すごく勉強になりました。

最初は「脅されて仕方なく」だったのが、もう1度やりたくなって。翌年、実行委員として選んでもらったのです。その時の友達が中国、タイにもいて、沖縄での調査でも琉球大学の人がいるし、どこへ行っても情報がもらえます。親父は、僕を北区から文京区の学校に行かせたり、オーストラリアに行かせたりもしましたし、彼なりの哲学があったのだと思います。今でも昔の友達にも会ったりしますし、そういう意味では、幅広く参加して良かったと思っています。

「若者研究」のテーマを与えてくれた所長


――大学卒業後、博報堂に進まれたのは。


原田曜平氏: 日米学生会議にいた1つ上の先輩が情報通で、その人がいるゼミだからということで、マーケティングの世界で有名な村田昭治先生の弟子にあたる先生のゼミに入りました。博報堂に入ったのも、その先輩の影響からでした。

僕の就職活動の状況を見て心配してくれた先輩が食事に誘ってくれたのですが、羽振りが良くて、女の子もいるようで……(笑)。でも僕は博報堂を知らなくて、老舗のお菓子メーカーなのかな、などと思っていたのです。

面接時に「本当に、うちの会社が何をやっているかわからないの?」と聞かれ、「わかりません。本当はテレビ局でドラマを作りたかったのですが、ダメで今は行くところがないのです」と全部正直に話して、書いた脚本の話とか、世の中にうけるコンセプトとか、広告発想に近い話をしていたら「お前、面白いね」という感じで入社することができました。入社二年目に博報堂生活総合研究所に異動になりました。

当時の所長は、今は大学の教授をされていて、社内でも人望の厚い元トップクリエーターでした。「一ヶ月、街を自分で歩いて、自分はこのジャンルの専門家になりたい、というのを探してきてごらん」と指示を受けましたが、一ヶ月たち二ヶ月が経ち……経過報告で「全然まだです」と言うと「じゃあ、また一ヶ月行ってごらん」という感じで半年がすぎた頃、ついにテーマをお膳立てされました。

センター街の「おっさん」に


――どういうテーマだったのですか。


原田曜平氏: 年齢的にも近しい「若者」をテーマに研究してはどうかと言われました。なかなか決まらなかった方向性を指し示してくれた所長と会社のおかげだと思っています。本当にみんなから愛されていて、人格形成も含めて僕を見てくださいました。レポートの指導や、マーケティングの指導を受けても、レベルが全然違いましたよ。研究を重ねながらセンター街に足繁く通っていると、若者から「あのおっさん、なんか毎日いるぞ」と、ちょっとした有名人になっていました(笑)。

次第に若者と交流を持つようになり、彼らと自分たちの時代の違いが見えてくるようになりました。彼らは「空気を読んだり、友達に好かれたい願望」がすごく強い。「これが世代論というやつか、面白いジャンルだな」と思って、若者研究にハマッていきました。社内レポートもウケが良く、『プレジデント』と『中央公論』が見てくれて、若者論についての原稿依頼がきました。それで初めて文章を書いたのです。さらには若者についての本『10代のぜんぶ』を書くことになりました。


「若者」視点から実感するグローバリズム


――若者研究は日本だけにとどまらず、中国にも広がっています。


原田曜平氏: ある時期から、中国の若者研究もするようになりました。最初はインターネットが共通項でしたが、今ではみんな、スタバに行ってMacBook AirやiPhoneを開いています。LINEは中国で禁止されましたが、WeChatという似たサービスがあります。中国で若い子を見ていると、やっていることは日本の若者と同じでした。雑誌にしても両方とも『Ray』や『ViVi』を読んでいます。上海にある若者研の学生の組織に定期的に行って、一緒に商品開発をしていて、WeChatで英語でやり取りしていますが、日本と北京、上海はほぼ差を感じませんね。

大企業では上海、北京や東京といったエリアごとの予算や裁量権があったりすると思うのですが、「若者」という切り口で見ると、全く違ったモノが見えてきます。日本も中国も一緒だから同一市場と考えましょうと。「グローバルって、こういうことなのだ」と思いましたね。

――東南アジア全域でも研究されているそうですね。


原田曜平氏: 自動車メーカーさんと中国向けの車を一緒に作る仕事をしていて、「インドネシアも一緒に見ないか」と言われ、それからインドネシアをはじめ、東南アジア全域でやっています。インドネシアに言及すると、経済的に日本と格差があるし、気候は熱帯に属します。イスラム圏なので文化や習慣も違う。でも若い子はスタバにも行っているし、LINEがものすごく普及して、そういった部分での差はないと感じています。

若者は時代を映す鏡


――若者研究を通して、どのような世の中が見えていますか。


原田曜平氏: 少子高齢化は大きな問題の1つだと思います。若い世代にスポットが当たらなさすぎる国になっているので、毎週「ZIP!」で若者のトレンドを紹介しています。でも社会学の世界では、若者の車離れ、海外離れ、などで止まってしまっていますが、よく見れば新しいニーズがあって、レッドブルのように売れている商品もたくさんあるのです。バブルの頃ほど若者人口も多くはないし、消費意欲も旺盛ではないようにも思いますが、今のノールックな状態は企業としてはもったいないと思います。

――人口ボリュームの多い団塊の世代だけがターゲットなのは惜しい、と。


原田曜平氏: 人口の多い団塊の世代の時代はこれからですが、その先はいずれ若者・子どもが中心の社会になるのだから、先行投資も含めて、今の時点でしっかり見れば若者をつかむことができるはずです。人口ボリューム上、仕方がないとは思いますが、未来のことを考え、現状を改善するためにも、若い人を見るべきなのです。若者研究は未来研究に近いと僕は感じています。若い人は経験値がなく、正直で素直です。景気が悪いという臭いがしてきたら、最初に財布のひもを締めるのは若者です。

「若者が車を買わなくなった」と言われていますが、若い人はそもそもお金がないし、データを見ると50、60代の方の購買も落ち込みが激しくなっています。もちろん、想定外の未来も起こり得ますが、速い時代の変化の影響を受ける若い人の方が、自然と人間が目指す方向へ先に立っているのです。若い子を見るということは、実は未来の日本を知ることに近いのです。

若者は未来からきた生活者


――若者研究は、どのように展開されていくのでしょう。


原田曜平氏: 若者は時代を映す鏡です。いつの時代の若者も、幸せになりたいと思っていても、具体的に道が見えていないだけ。基本的に若者は健全で何色にも染まっていないので、一番幸せに近づきやすい道の方にフラフラと向かってしまうのかもしれません。若者にこうしてほしい、こうなってほしいという特定の想いはありませんが、上の世代には、若者の特徴や、向かう方向を学んで商品開発に生かしてほしいと思います。

――このほど、宝島社より新刊『女子力男子 ~女子力を身につけた男子が新しい市場を創り出す』も出されました。


原田曜平氏: 「さとり世代」、「マイルドヤンキー」など、色んな言葉で若者を表してきましたが、最新キーワードは『女子力男子』です。料理、美容やダイエットに関心を持ち流行にも敏感な“彼ら”に注目して、実態調査をもとに解説しています。若者は未来からきた生活者で、自分たちの一歩先を行っています。今回の本も、単なる若者評に終わるものではなく、世界で広がる『女子力男子』市場の魅力と、彼らに響く新商品サービスのアイデアの芽、また座談会も収録するなど、「いまどきの若者が何を考えているのか」丸わかりになりビジネスにも役立つ内容に仕上がりました。僕自身もこれからは、「若者研究」からより「未来研究」に焦点をあてて、社会に還元したいと思っています。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 原田曜平

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