成功ではなく、成長を
NPO法人「ハートフルコミュニケーション」代表を務める菅原裕子さん。人材開発、子どもやその親たちの支援活動を続けられています。節目節目に棚卸しをし、できることとやりたいことの接点を紡ぎ、形にしてこられました。「成功ではなく、成長を目指したい」という菅原さんに、活動に込めた想いを伺ってきました。
知識を知恵に「通訳」する。
――ハートフルコミュニケーションの活動について伺います。
菅原裕子氏: 会社勤めをしながらやっていた、ハートフルコミュニケーションの活動が広がり始めて今に至ります。1999年からビジネス関係のワイズコミュニケーション、2006年からNPO法人ハートフルコミュニケーションとしてやっています。独立してからの16年はアッと言う間に過ぎましたね。不安も特になかったです。一番大きなテーマとして、どこまで世の中のお役に立てるかということを考えていましたが、逆に世の中に助けられたような気がします。
「人生の節目節目で私は何を生きたいのだろう」と探究した時、常に私は「通訳」というキーワードで動いてきました。言語的な通訳もそうですが、子どものころから、自分や人の考えていることを、どうしたらもっと分かりやすく、受け取りやすく伝えられるだろうということを、よく考えてきました。今やっていること、世の中にある様々な知識を、分かりやすくすぐに使える知恵として伝えていくことも、やはり通訳だと思っています。一見関係のないように思われる事象を、子育てや部下の育成にどう生かしたらいいかを分かりやすく翻訳して伝えるか。今のキャリアを求めていたわけではなく、海外に行って英語を勉強した。そして通訳の仕事を探して人材開発のコンサルティングに出会った。何かの意思でそこに運ばれたと思うので、それに従って、できるところまでやろうと思いますね。
自分で人生を切り開くために
――昔から、どう「通訳」したら分かりやすく伝えられるかを考えていたんですね。
菅原裕子氏: 5、6歳のころ、ふと「普通のお母さんになりたくない」と思ったことを覚えています。別に専業主婦である母に反発を持った訳ではなかったので、どうしてそう思ったのかは謎です。後の解釈ですが、当時の女性の生き方は、結婚して子どもを産んで家庭の主婦。子どもと夫の世話をして生きていく。私はたぶんそのことを思ったのでしょうね。
高校2年生のころは、その時の成績を維持すれば、希望する大学に行けるくらいの成績でした。でも、そのころから「終わったな」というか、このまま近くの大学に行って、小学校か中学校の先生になるのかな、と思ったのです。かといって、自分のやりたいこともないので、この大学ではなくて、こういう道を進みたいと親を説得もできない。勉強する意欲もわかなくて、高校3年生になるころは、成績は普通よりも下くらいになっていました。
受験の直前になってやっと、4年間勉強しようと決めました。ただし、2年は日本で勉強して、2年は海外に出ようと決めました。2年で英語が話せるようにしてくれる可能性のある学校を探して、京都の精華短期大学(現:京都精華大学)に進みました。ところが、海外に行くことについては、事前に親から許可をもらっていたのですが、卒業していざ行くとなると、とんでもないと言われて……(笑)。大反対で、お金も出ず、働きながら留学の準備をしていました。
――念願の渡英中はどのように過ごされていたのですか。
菅原裕子氏: お金もそんなに余裕がないので、イギリス人の家で、お手伝いをしながらホームステイさせてもらっていました。男の子を幼稚園に送って行ったり、学校から帰ってきたお兄ちゃんと留守番したり。私はその間学校に行きました。土曜日には家の中を掃除したり、軽いお手伝いをして一緒に暮らしていました。休日は、プライベートレッスンを取って、とにかく勉強していましたね。
自らの棚卸しで、仕事を生み出す
菅原裕子氏: 日本に帰国してから、ジャパンタイムズの求人欄で通訳の仕事を探しました。1社1社電話して。その中で、「働く意欲があり、尚且つ働くことによって成長することを望んでいる人」という求人があったのです。「成長を望んでいる」これが1番いい、面白いと思いました。それで、面接を受けたのですが、一緒に受けた人たちと話していて、海外経験の豊富さに「ああ、もうダメだ」と思いましたね(笑)。それでも一応、面接を受けました。すると次の日に「いつから始められますか」と電話がかかってきたのです。
――どうやって突破したのでしょう。
菅原裕子氏: 「どうして私を採用していただいたのですか」と恐る恐る聞いてみたのです。答えは、「面接に来た人の中で、日本語が1番うまかった」ということでした。その会社は、アメリカの人材開発のコンサルティングの会社で、営業マネージャー向けの教育プログラムを販売していたのです。そこで日本人に販売するために日本語が上手でなければいけなかったのです。「そういうことか、なるほど」と思いましたね。だから、面接官が日本人とアメリカ人だったのかと。
通訳をしながら、欧米人のコンサルタントたちが行っている内容は、日本語で説明したらもっと伝わると思いました。それである日、社長に面接をお願いして「私にこの仕事をする資格があるだろうか。やってみたい」と言ったのです。アメリカ人の社長の答えは「日本じゃ女子は通用しない」ということでした。当時私はまだ24、25歳で、日本もそういう社会でしたからね。そうしていたら、ある仕事に入る時に社長から「君は今回通訳だけど、もう一つの役割として、見習いコンサルタントの立場で入りなさい」と言っていただけたのです。
人に教える立場になって、色々なことを考えました。仕事にしても、生きることにしても、色々なことをなんのためにと考えて、結局「世の中の、何かお役に立てるようなことができたら」と、そのために働きたいと思うようになったのです。