プレゼンテーションは“聴き手への贈り物”
NPO法人国際プレゼンテーション協会の理事長、アクセス・ビジネス・コンサルティング株式会社の代表を務める八幡紕芦史さん。日本におけるプレゼンテーション分野の第一人者です。戦略コンサルタントとしても、企業のマネジメントに助言や指導、また支援をされています。「“国民主語”で、未来の日本を語れるプレゼンテーション力を」という想いを胸に、活躍の場をどんどん広げる八幡さんに、プレゼンテーションの極意から現在の仕事に至るまでの歩みまでたっぷりと伺ってきました。
「自分」を語らず、「相手の利益」を
――プレゼンテーションを、“聴き手への贈り物”という風に表現していらっしゃいます。
八幡紕芦史氏: プレゼンテーションの語源を辿ると、本質が見えてきます。“プレゼント”をする時、皆さんは何を考えますか。自分があげたいものではなく、相手が欲しいもの、喜びを考えますよね。プレゼンテーションというと、自分の言いたいことを伝えたり、押し付けたりというイメージがあるかもしれませんが、本当の意味でのプレゼンテーションというのは“相手が聴いて喜ぶこと”、それから”相手の利益を語ってあげること”それに尽きると思います。営業の方の中には、自分の会社や商品やサービスを説明する人がいますが、それでは買ってもらえません。相手の利益を中心に、相手が困っていることを、どうすれば解決できるかということを伝えることが大事です。そこの部分に対する誤解が多いように私は思います。コンペに勝つ方法はそうした原則を大切にすることです。
――“自分のことを、言わない”と。
八幡紕芦史氏: プレゼンをする側の目的が製品を売ることでも、プレゼンを受ける側の目的は「買う」ことではなく、あくまでも「問題を解決する」ことです。その目的と手段を混同しなければ、プレゼンはとてもシンプルなものなのです。また様々な場面でプレゼンは存在します。例えば結婚のプロポーズをするとき。よく聞くのは男性の「君を幸せにするから、結婚してよ」というセリフ。「幸せになりたいから、僕と結婚して」ではなく、“相手の利益”を語っていますよね。これがプレゼンテーションです。
コンサルティングの仕事で、「まちおこし」も手掛けていますが、失敗と成功の違いもこの“相手の利益”が重要です。「自分たちはこういう観光資源を持っている。自分たちはこういうことが優れている」ということを発信しがちなのですが、それでは“受け手”である観光客にはピンときません。まちおこしは失敗に終わってしまいます。“外部の人の論理”ではないので、なかなか正しい方向にたどりつかない。だからこそ私のような存在が、町の良いところを第三者の視点から意見する必要があります。そうしないと、「旅行先を、そこにしよう」と思ってもらえるような発信はできません。私の名刺には、コンサルティングとプレゼンテーションという二つの仕事が書かれてありますが、その二つの仕事は、まさに“表裏一体”なのです。
“青年”実業家、のキャリアは日本語教師から
八幡紕芦史氏: 昔は「性格はお前の星座、いて座と同じで、行ったら家に帰ってこないな」と言われるくらい、悪さばかりしていたガキ大将でした(笑)。遊ぶ時も、「こんなことをしたら、面白いんじゃないか」などと、色々と工夫して何度もチャレンジしていました。努力することによって、初めて物事が上手くいって、「もっと上手くいくように、またやってみよう」という、良いサイクルに入ります。そういった素地が子ども時代にできていれば、大人になってからも、努力や工夫をし続けます。逆に言えば、そういうことを経験していないと、チャレンジもせずに「どうすればいいの?」と人に聞くばかり、考えない人になってしまうのではないでしょうか。私は大学で教鞭をとっていますが「中途半端な状態ならば、大学に来なくてもいい。遊ぶのならば、いつか自分自身を嫌悪するようになるぐらいまで、とことん遊べ。そうやって反省した時に、大学に来るように」とよく言っています。いささか強引な言い方かもしれませんが、中途半端は良くないので自分でとことん考えることが重要ですね。
私自身は「人生とは何か」といったことを深く考えていたわけではありませんでしたが、昔から実業家。それもなぜか「“青年”実業家」になりたいと思っていました。色々な選択肢を選びながら、人生を歩んでいくことになりますが、私の場合は、その基本となる思いで一つの方向へと向かっていくことになるわけです。
――“青年”実業家を目指した八幡さんはどのように進まれるのでしょう。
八幡紕芦史氏: 中高時代はとにかく、勉強が面白かったですね。全国の高校の受験問題が出ている“電話帳”と呼ばれていた厚い問題集を解いていましたが、その膨大な量の中から「模擬試験に、これは出るな」と感じたものが的中して、それが勉強の楽しみの一つとなりました。自分でも不思議でしたが、無意識ながら、問題を作る側の「ここ、出したろ」というのを、予測していたのかもしれません。
大学に入ってからは、「もっと行動的になりたい。自分自身を変えよう」と思い、車を買いました。全国版の地図を買ってきて、日本全国走り回るようになり、人生が変わりました。大学生になって初めてやったアルバイトが、大阪の梅田の地下センターの一角にある喫茶店のボーイ。ある日、仕事終わりに掃除をしていると、新聞の求人欄に“日本語教師募集”と書かれてあるのが目に入りました。それで電話したら、「英文の履歴書を送って」と。その梅田の学校は、ニューヨーク本校のほか、世界中にある外国語学校のうちの一つでした。それで、“英文履歴書の書き方”というような本を参照しながら、実際に書いて送ったら「面接に来い」という連絡がありました。
面接官が外国人だったので帰ろうかなとも思いましたが、通訳の方が来たので思いとどまりました(笑)。面接の最後に「教えるための一週間のトレーニングをやって、その成績で、採用するかどうかを決める」と言われました。私の他にトレーニングに来ていたのは、国語や英語の先生ばかりで、学生はいませんでした。でも最終的に選ばれたのは私でした。不思議に思って、後でそのディレクターに聞きました。
――八幡さんに白羽の矢がたったのは……。
八幡紕芦史氏: 「学生だから、時間が一番あると思った」と(笑)。その学校は、朝8時半から夜の9時15分までで、昼食時間以外は、全部レッスン。翌日からいきなり、40分の授業を、10コマ以上やることになったから、さあ大変。確かにヒマな学生じゃないと務まりません。でも喫茶店で一日働いた時のアルバイト料は、その当時で1000円ぐらい。その学校の給料は、40分で500円。一日でアルバイト料が6000円を超えたので、一カ月それを続けると、その当時の新入社員よりも給料が良かったんです。それに何より、仕事が面白かったですね。
日本語学校の生徒は、日本に進出したアメリカやヨーロッパの会社のトップクラスの人たちばかりでした。授業料も高くて、一カ月みっちりすると、100万円ぐらい。バイエルのトップとか、IBM、それからキリスト教のシスターなども来ていました。そういう人たちを教えたことによって、私のネットワークができ本当に貴重な経験でした。その当時、梅田と神戸に学校があって、私は掛け持ちでやっていました。ハイソな人たちとお友だちになり「パーティをやるから来いよ」と誘われることもありました。最初は英語が話せないから会話の波に乗れませんでした。何か言おうかなと考えているうちに、話題が変わってしまうわけです。それで私が思いついたのは、話についていくのではなく、「ところで万博には、みんな行ったの?」というように、自分から話題を投げようということ。そうすると、みんなが万博の話で盛り上がるわけですよ。しばらくして別の話題を投げると、またそこでもみんなが盛り上がる。英語が話せないのに「ミスター八幡は、英語がうまい」と (笑)。
国際会議で認識した“プレゼンテーション”の本質
八幡紕芦史氏: そういったアルバイトをしていたこともあって、ほかの企業に入っても、今よりも給料が下がるし、昔からの夢もあったので、就職はしないことにしました。そして、「アルバイト料が悪くはないということは、雇用主はもっともうけているということ。それならば、自分で学校をやろう」と思ったのです。でも名前を“八幡学校”にしても誰も知らないし、面白くない。何かないかなと探していたら、スイスにあるフランチャイズの学校を見つけました。それで私はスイスまで行って、元締めに「日本のテリトリーを、私にくれ」という話をしました。すると相手は、それまで日本をあまり意識してなかったから、「いいよやるよ」と。それで、渋谷にちょっとしたスペースを借りて、始めることにしました。
――お客はどのようにして獲得していったのですか。
八幡紕芦史氏: お金を持っている会社=銀行へ営業に行こうと、最初に“銀行の大元締め”ということで(笑)、日本銀行に営業に行きました。話をした人が、たまたまそのスイスの学校で勉強したことがあって「じゃあ、うちの銀行員を出そう」と話がまとまりました。そこで評価を得ると、当時の日本輸出入銀行や、日本興業銀行や第一勧業銀行、三和銀行などからも生徒が来るようになりました。ある年「学校の国際会議を、今年はスペインでやる」と通知を受けて、私も出席することになりました。その当時は、日本人が海外旅行に行くような時代ではなく、会議には200人ぐらいいましたが、外国人ばかりで圧倒されて、後ろ隅っこの席に座りました。ドイツの人が開催宣言した途端、前の方にいた人が手を挙げて「この会議を何語でやるか決めよう」と言いました。当然、英語でやると思っていたので、カルチャーショックを受けましたね。そこからスペイン語や、イタリア語、といった意見が飛び交って、「国際的だな」とのんきに構えていたら、私の隣に座っていたイギリスの紳士が、私に「手を挙げろ」とつっつくのです。
――手を挙げて「ジャパニーズ」と言えと。
八幡紕芦史氏: 無茶ぶりですよ(笑)。でも何度もつっつかれるので、仕方なく手を挙げて「ジャパニーズ!」と言いました。会場に「ジャパニーズ」という声は響きましたが、案の定、私一人で却下されました。内心ドキドキしながら、「まあ、こんなもんだな」と思っていたのですが、その後、休憩になると、色々な人が私のところに来て、「あなたが、ジャパニーズと手を挙げたのは、素晴らしいプレゼンテーションだった」と言ってくれました。日本人である自分がここに参加して、自分の意見を述べる、要求を述べるということが、重要なんだと、自分のスタンスをしっかりと発信していくことが、プレゼンテーションなんだろうなと、その時に、おぼろげながらわかったわけです。それが、“プレゼンテーション”という言葉を初めて認識するできごととなりました。それに、「侍はいるのか?」とか「刀を持っているのか?」とか色々な質問を受けて(笑)、そこでもネットワークができました。
日本人の“プレゼン下手”を変える
八幡紕芦史氏: そうして学校業務をやりながら、だんだんと新たな取り組みに繋がっていきました。当時、日本の高度成長期で、日本の企業が海外進出していました。それに伴う色々な問題もあるので、コンサルを始めることにしました。海外でどう事務所を開いて、どう現地の人を雇って、それをどうマネジメントしていくかについて、海外に行く前にきちんと勉強させるということをやり始めたのです。海外に進出していった大手企業の多くは、私のお客さんでした。今も覚えているのは、12月の25日~27日の時期に、朝から晩まで研修していたということ。相手国がクリスマスの間に勉強させて、終わったらすぐに出そうという思惑があったのです。
――最初の本『国際ビジネスでのプレゼンテーション技術』へとつながっていきます。
八幡紕芦史氏: 日本人はプレゼンが下手だということを、コンサルの仕事をやり始めて感じました。日本の会社の方がクオリティの高い、素晴らしいサービスを提供するにもかかわらず、外国の企業に負けるわけです。外国の企業は70の力を、140ぐらいに見せますが、日本の場合は100持っていても、60ぐらいしか見せることができませんでした。そういった状況を打破すべく、プレゼンテーションに取り掛かることにしたのです。最初の本は、題名に“国際ビジネス”という言葉があるように、海外で仕事をする人、あるいは外国人と一緒に仕事をする人向けに書きました。でも時代が進むにつれ、色々な人があの本を手に取ってくれるようになりました。
ある時、青山の近くの居酒屋で飲んでいたら、お客のおっちゃんの一人が「昨日のプレゼンでね…」と話し始めたのです。“プレゼンテーション”という言葉が一般的ではなかった時代からすると、隔世の感がありましたね。今は、商品においても「誰が作っているのか」という“個人”が重要な時代になりました。「企画を立てた人が説明すべきだ」という風に、個人がプレゼンテーションを必要とする時代になってきました。さらに年齢もどんどん下がっていって、今は“小学校一年生からプレゼン”というものもやっています。ある時、文科省の学習要領の中に“自分の気持ちを伝える”という一文が入ったのですが、私たちが色々と意見を言うと、その翌年に“相手の立場を考えて伝えよう”という風に内容が変わりました。そういったように、昔に比べると、プレゼンテーションの裾野がだいぶ広がってきたように思います。
“聴き手主語”で伝える
――そうした想いをたくさん、本で伝えられています。
八幡紕芦史氏: 最初に出した本を自分の本棚に置いてみた時に、横に並んだ無数の本と見比べて「一冊仕上げるために、こんなに本を読んで」と生産性の悪さを痛感するとともに、愛読書であった『徳川家康』の26巻には、どれだけのバックグラウンドがあるのだろうと想いを馳せました。本は、膨大な知見を集約したものです。ただ、「仕事の効率的なやり方」というようなビジネスに関わる本に関しては、ノウハウを知りたいがゆえに参照したりする、参考書のように感じています。私自身は、そういう本はあまり書きたくない。最後まで読み切れる本を書きたいですね。また「皆さんは、こういう問題を抱えていませんか」というように、常に“皆さん”が主語になるように、文章を組み立てて伝えるようにしています。それは仕事でも同じで、“トップ100の優秀な営業社員の改造計画”というのをやったことがあります。「私と商談をしてみましょう」ということで、ビデオに撮って分析しました。その結果、営業社員は「我が社の製品は…」というように、みんな自社主語で話をしているということがわかりました。そこで私は、「“お客さん”を主語にして話をしましょう」という、“顧客主語”を提案しました。社長もその提案にのってくれて、中期経営計画の方針に書いて、全国に発信したのです。
そういった経験もあったので、本を書く場合も、“読者主語”が重要だと思っています。私は常に“あなたは”という書き方をしていますが、それは私のこだわりなのです。それからもう一つ。最後はやっぱり面白い部分がほしいと思っているわけです。関西人ですから、笑っていただいてなんぼなんです(笑)。それから物事の本質、原理原則をどう捉えるかということも重要です。知識や情報は、今の世の中、どこでも手に入れることができますから、それをどう分析し解釈するか、聴き手を主語に考えることです。
こちらは“聴き手”のお話ですが、天童よしみさんはすごいですよ。彼女は、コンサートの会場に前日に入って、最初に三階の一番後ろの端に、座ってみるそうです。そうやって、この会場はどう見えるか、音はどうかということを確認し終わったら、今度は一番前に座るんです。ここから舞台は、どう見えるかということを考えて、照明についても細かく考えていくそうです。彼女は決してステージから見ません。天童よしみさんが、あれだけの歌手でいられるのは、そういうところも大きいと思います。
――読み手としてはいかがですか。
八幡紕芦史氏: 中学生の頃から、夏目漱石からパール・バックまで、読書の幅は広く、できるだけ長編ものを読むようにしていました。本屋でも、大人買いをしていました。私が一番読んだのは、先ほどお話しした山岡荘八の『徳川家康』で、通学電車の中で読んでいました。『徳川家康』を読むと、その前後の時代のものも読みたくなって、幕末のころの本も読むようになります。ある程度、史実をベースにした小説が好きで、特に戦国時代以降が好きで、信長、秀吉、家康を、繰り返し今も読んでいます。
ある時、書棚にある本をもう一回ひっぱり出して読んでみると、昔とは印象が全く違ったので驚きました。昔は、ストーリー展開の面白さを味わいながら本を読んでいましたが、年を重ねると、その時代背景なども考えるようになります。そうやって“時代の動きの面白さ”がわかってきて、またしばらくしてから読むと、今度は、自分の人生と照らし合わせるのです。関ヶ原だったら、「家康は、なぜこういう采配を振るったのか」とか、「戦略的には、どう考えていたのだろうか」とか、「もし私がこの場面にいたら、どうするんだろう?」と考えると、面白くてしょうがない。それで何回も同じ本を読むようになりました。
本を読むことによって、時間と空間を飛躍していけますよね。自由に色々な時代、空間へ行けるし、色々な人と会うこともできる。人間は一定期間しか生きられないし、その人の世界といったものも限られていますよね。それを広げてくれるのが、本なのです。吉田松陰は29歳で亡くなっていますが、その短い人生の中で、彼は死ぬほど本を読んでいました。野山獄に入れられて、一年間で600冊ぐらいの漢文で書かれてある本を読んだそうです。それを知って、「すごい人がいるな。自分はまだまだ本を極めてないな」と感じました。そう考えると、自分はまだまだ“途上にあるな”と感じるわけです。
挑戦する勇気を
八幡紕芦史氏: 最初に書いた本を書棚に入れたとき「自分の背の高さまで本を書こう」と思いました。その思いを新たに、今年からまた色々な本を書いていきたいと思っています。『パーフェクト・プレゼンテーション』を一緒に作った人は、著者とともにチャレンジする編集者でした。980円の本などが多い中、「2500円の本を作ろうよ」という話になりましたし、原稿のやりとりも、パソコン通信でやろうよと。次作では、「人は絵を見てから読む。その方が理解がすすむ」ということで、通常は最後に絵を入れるところを最初に入れることにしました。そういった細かいことにもチャレンジした結果、『パーフェクト・プレゼンテーション』は、11版まで版を重ねました。
――このほど『話ベタでも100%伝わる「3」の法則』も出版されました。
八幡紕芦史氏: 常日頃唱えている法則、伝える技術を「3」という数字を軸に、わかりやすく根拠を示しつつキーワードと図解でまとめました。保守的になる本は届かないし、つまらない本になってしまいます。この本もそうした“途上にある”私のチャレンジの一環です。私にとって一番の喜びは、皆さんの「勇気が出た」という言葉です。いろんな人が私のオフィスに来て話をすることによって元気や勇気が出て、さらに挑戦しようと思ってもらえることが何よりの喜びです。皆さんが目標や夢を叶えていくために、私の力が少しでも役立つことを願っています。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 八幡紕芦史 』