ビジョンを見いだし 偏差値30から東大へ
上田渉氏: そんな風な子どもでしたが、中高一貫の進学校に進んでから落ちこぼれてしまいます。毎日出される膨大な量の宿題をこなしてもシールはもらえないし(笑)、勉強する目的を見失ってしまいました。先生に勉強する意味を質問したところ、「勉強しないと大学に入れない、大学に入れないと就職できない、就職できないと食べていけない。だから勉強するんだよ」という答えが返ってきました。けっして先生だけが悪い訳ではないのですが、何か面白いとか目標を持てる答えが返ってきていたら頑張ったかもしれません。例えば「宇宙に行きたいです」と言った時に「それなら、こういうのが必要だよ」といった返事を得られたら、おそらくそのために必要な学習を始めたのではないでしょうか。
――ビジョンを見せてあげられることが大切だと。
上田渉氏: 子どもにビジョンを見せられない教育はダメだと思っています。そのころ高校の同級生は、当然みんな東大に行くと言っていました。なぜだろうと思い理由を聞いてみたら、「日本で一番の大学だから」とか「偏差値が一番高いから」とか。あとは「小遣いが増える」「プレステ2を買ってもらえる」とか。「何々になりたいから」という人は二人だけしかいませんでした。一人は「しんかい6500に乗りたいから、東海大学の海洋学部に行く」と。その後、実際に「しんかい6500」に乗っています。もう一人は「宇宙飛行士になりたい」と言って、アメリカへ留学しました。この二人は筋が通っていていいなと思いましたね。
――そんな中、上田さん自身も東大を目指すことになるわけですが。
上田渉氏: 学生なりに、自分も含めてですが若者のビジョンがないということに危機感を覚えて、子どもがビジョンを見つけられる教育が必要だと思っていました。教育改革をするには、教育のトップである文科省(旧文部省)でトップの文部次官になるか、政治家になるか。文部次官は50代なのでそこまで待てないし、ならば政治家になろうと考えました。「文科省の役人と対等に渡り合って議論するには」と考えた延長線上にあったのが、東大でした。
けれども偏差値が30くらいだったので、進路相談の時に「東大に行きます」と話したら、先生に「ふざけるな」と言われましたけどね(笑)。高校三年生の時、英語のSVOCの「S」が「主語」ということを知らなかったぐらいです。本試験の過去問を買ってきて、現代文の問題を見てみました。日本語のはずなのに、何が書いてあるかさっぱり分からなかった。これはなかなか辛いなと思いました。日本語で書かれているのだから、やりかたさえどうにかすれば理解できると思って、いろいろ試行錯誤していました。そのうち、声に出して読むと少し理解が進んだような気がしました。解説文や、単語の意味なども二度、三度と音読して、結局100回くらい音読したら、大体の意味がつかめるようになった気がしたのです。
――音声学習のスタートですね。
上田渉氏: ただ、100回も音読すると喉が嗄れて疲れてしまいます。声に出さなくても音読できないかと思って、意識的に頭の中で大きな声で朗読していました。予備校の授業も録音して何度も聴きました。そのうち「目で見るだけより聴覚を活用したほうが頭に入るらしいぞ」ということに気づき、そこに着目します。世界史の教科書なども、丸ごと全部何度も朗読しました。自分で解答を書いて音読。文字で書いて、朗読して、何度も聴いて覚えました。数学も言葉、言語なのでまずは読み込みます。数学でつまずくのは、記号の読み方で失敗するケースが多い。微分の式が読めなくなったり、先生によっても読み方が違ったり、混乱してしまうのが上手くいかない原因の一つ。とにかく全教科、偶然発見した音声学習で、ひたすらやっていましたね。
教育と祖父への想いがつながる
――音声学習の結果、見事希望を叶えます。
上田渉氏: 受験勉強で、高三、一浪、二浪とやってきて知識にすごく飢えていました。東大には一線の研究者がたくさんいましたので、研究室に突撃しては質問しまくっていました(笑)。柏にスーパーカミオカンデの小柴昌俊さんらが当時所属していた宇宙線研究所があってそこの講義を聞いたり、ロボット工学のエースの先生がおこなう講義をひと通り受けたりしていました。
また現実世界とリンクしたことがやりたくて、いろいろな活動を立ち上げました。政治の世界を知る活動としては、元民主党の鈴木寛さんに土曜学校の校長先生になっていただき、土曜日に子どもを集めて、教育にかなり向き合ってやっていました。また、政治家の秘書みたいなことをやったりもしました。こうした活動の結果、政治から教育を変えるのは極めて難しく、また現場が大切なのだと感じました。子どもから言われる何気ない一言に対する先生の回答だったり、親の関わりであったり。政治から環境を作ることはできても、それを生かすのは現場の人。政策だけでは変えられない。では自分がやりたいこと、自分にこそできることはなんなのだろう。試行錯誤をしながら、否が応でも自分に向き合うなかで思い至ったのが、緑内障で失明して二十年間不自由をしいられていた祖父の存在でした。
祖父は、私が大学に入る前に亡くなったのですが、可愛がってもらったのに何も恩返しができなかったという想いがありました。
――ご自身の経験と、ご祖父への想いがつながります。
上田渉氏: 最初に考えたのは、目の不自由な方に向けて朗読をするNPOを立ち上げる事でした。盲学校や市が運営する施設、文科省に行って話を聞いた結果、日本は視覚障害者に対する支援が極めて薄いと感じました。生まれながらに視力のない人は、手の感覚を鍛えながら点字を学びますが、事故や病気で視力を失った人は、手の感覚を研ぎすますことに慣れておらず覚えることが難しいといいます。音声で、耳で本を読むことができれば目の不自由な人も本を楽しむことができる。読書のバリアフリーをオーディオブックによって達成していこうという思いに至り、オトバンクを創業することになりました。
著書一覧『 上田渉 』