ロマンとヒューマンで価値を生み出す
株式会社「あそぶとまなぶ」の代表を務める、経営コンサルタントの、くらたまなぶさん。次々と新規プロジェクトを立ち上げ、リクルートの『創刊男』と呼ばれたくらたさんの発想の源、「まわり道の効能」とは。規格外の幼児教育から、「○○元年」の秘密まで、歩みを辿りながら伺ってきました。
幼児教育でエロ雑誌が読めた!?
――特殊なキャリアを活かし、さまざまな活動をされています。
くらたまなぶ氏: 「あそぶとまなぶ」のコンサルタント業務では、中堅中小企業を対象に、ひとりだけでできる範囲で仕事をしています。ぼくは真面目な会議ありきという仕事がとても苦手なのですが、ありがたいことに取引先は皆、そんな私の傾向を見て依頼してくださっています。
こういう働き方は、リクルートでの最初の配属が、新規プロジェクトになったことで決定的になったと思います。社員になる前の1年間は、リクルートでA職(アルバイト)をやっていました。当時は『週刊就職情報』(後の『Bing』)という求人情報誌の制作をしていました。ぼくの場合は新規プロジェクトしかやっていないので、たしかに“特殊キャリア”と言えるかもしれません。準備段階から柔らかいところ、要するにずっとブレストモードですから。仮に“真面目”を“左脳”だと、そして僕の言う柔らかい発想を“右脳”と呼ぶとしたら、ふつうの仕事は “左”が9割で、 “右”の部分が1割、という比率で物事が進みますよね。
――その自由な発想はどのようにして培われていったのでしょう。
くらたまなぶ氏: 父親の教育もちょっと変わっていたのでしょうか。父は俳句を志す文学青年でしたが、それだけでは飯は食えないということで福山(広島県)で貸本屋をやっていました。ぼくも三歳まではそこに住んでいました。父は師匠である山口誓子のところに通って、句会にも参加していたそうです。「結社」と呼ばれる場で、匿名で添削しあったり、批評しあったり。うちは貸本屋でそれほど儲かっておらず、家族を食わせていくのは難しかったようで、ある日、東京のおじを頼って上京することになります。父の兄の家は武蔵境にあって、敷地内に貸店舗スペースがあったので、東京でも貸本屋をやることになりました。それからの記憶は、すべてくっきりと残っています。
東京でも父は相変わらずの文学青年で、当時、荻窪にいた井伏鱒二の元に通っていたそうです。貸本屋では、映画館のポスターを掲示したら、タダ券を1枚もらえました。それで、父におんぶされて、毎日映画館に行っていました(私は幼児だから無料だし)。その映画ポスターを利用して、父はぼくに漢字の書きとりを教え始めました。4歳までには常用漢字、800字を全部覚えさせられました。でも勉強というよりは、遊びのようなものでした。
掲示期間の終わったポスターを、トランプのカード状に切って、その裏に漢字と、ひらがなで訓、カタカナで音を書いていました。表のジグソーパズルで遊んだ後は、全部混ぜたカードの中から、ぼくに「1枚ずつ抜け」と。“林”のカードを取ると、父は漢字だけを僕に見せました。「リン、はやし」と読みを言えたら、また次のカード。800字を覚えるのに、そんなに時間はかかりませんでした。「お稽古事は早い方がいい」と言いますが、字を早く覚えたことによる弊害もありました。
両親が月に一回、御徒町に本を仕入れに出掛けるのですが、こども三人は留守番で、自由に本を読めます。ヘレンケラーやエジソンの伝記、『鉄腕アトム』や白土三平の本などのほか、大人向けのエロ雑誌など色々ありました。男ばかり三兄弟の末っ子でしたので、みんな読むのはエロ系ばかり……(笑)。何かわからない世界に、むずむずしていました。さらにぼくは字が読めたので、エッチな単語もどんどんボキャブラリーとして増えていってしまいました。幼児教育の弊害ですね(笑)。
1・2、1・2、1・2……「ジョギング通信簿」から大学へ
――漢字をマスターして、エッチな単語も覚えて、それからは……。
くらたまなぶ氏: 真面目に、小学校の教科書です(笑)。父はぼくに3カ月ぐらいで、1年生の教科書を全部終わらせ、小学校に入学するころには、6年間分の教科書全部を終わらせていました。読む力は誰にも負けないと思っていましたが、でもクラスの中で一人だけ、ぼくと読書で競う子がいました。彼女の名前は確か、ホンザワさん。読書カードで、読んだ本を互いに競争していたので、二人とも読書量がとんでもないことになっていきました。
読書カードを埋めるべく、本を読んでいくうちに、小川未明が大好きになりました。彼の本は童話のようであり、それでいて大人の小説のようにも感じました。「こんな風に味わわせるのはすごいな」と感動し、小説家になりたいと思いました。
時はたち、高校生の進路相談の時期です。ぼくは“ジョギング通信簿”と言っていますが、1・2・1・2が続くシロモノで、先生から「どこにも受からない」と言われます。その言葉が、負けず嫌いだったぼくの心に火つけてくれました。テレビでやっていたアメリカドラマの「弁護士ペリー・メイスン」に憧れて、親父の母校でもある、中央大学の法科を受けることにしました。一浪して猛烈に勉強して、なんとか合格できました。