自分学部自分学科で学ぶ
くらたまなぶ氏: 無事、大学には進みましたが、入ってみると想像していた世界とは違いました。同級生のほとんどが、法曹界を目指していましたが、飲みに誘っても、「親から『飲む・打つ・買うは、試験に受かるまでやるな』と言われている」とか「専門書を平積みにして、身長の7.5倍くらい読んだ時が、受かる時だ」などという返事が返ってきて、嫌気がさしました(笑)。「他の大学を受け直すか、それとも転部するか」と考えるも、ほかに「ここ!」という場所もありませんでした。
それで、理工系も含めて全学部全学年のカリキュラムを取り寄せて、“自分学部自分学科”というカリキュラムを勝手に作っていきました。白水社の『サルトル全集』を翻訳されていた白井健三郎先生が仏文にいたのですが、ちょうど読み始めていた本だったので、「単位はとれなくても教室で聞くだけでいい。絶対に講義を受けよう」と、教室にもぐり込んだりもしました。仏文は、95パーセントが女子なので、知らない男が講義を受けているとすぐにバレます。それでなぜだか、周りの女子学生のレポートを手伝わされるハメになりました。講義に対する自分への評価が知りたくて、真剣に取り組んだので、手伝ったものはすべて「優」でした。
グループHで学んだこと
くらたまなぶ氏: それから、「グループH」というクラブで活動もしていました。神保町の書泉グランデの裏に今でもある「ラドリオ」という小さな喫茶店を部室にさせてもらって、そこにクラブノートを置いていました。クラブのOBの多くが、新聞・出版・放送・通信・広告などのマスコミに進んでいたのですが、そこに飲みにきたお歴々に、とうとうと説教をされたものです。議論が大好きな人たちで、それに巻き込まれて、朝まで生テレビ状態でした(笑)。
いつもキーワードになっていたのは“太平洋戦争”だったので、議論に負けたくなくて太平洋戦争を勉強することに決めました。ぼくは、なにか新しく物事を始めるときには、その年を「○○元年」と定めます。その年を「太平洋戦争元年」と定めたぼくは、吉行淳之介や大岡昇平、開高健など、エッセイや戦争もののドキュメントを読みあさりました。そして二日に1回くらい、ラドリオで激論していくうちに、先輩などを打ち負かすことも多くなりました。
――刺激的な日々ですね。
くらたまなぶ氏: 一番刺激的だったのは、そのクラブ活動を通じて妻に出会えたことかもしれません(笑)。ラドリオ以外にも1か所だけ、学生課に連絡ノートが置かれていたのですが、そのノートに手を伸ばしたら、同時に手が触れてしまって……マンガのような展開でしたが、ぼくは早熟すぎて、逆に女子のことがわからなくてプッシュすることができませんでした。ここにも幼児教育の弊害があるわけです(笑)。結局、飲み会の途中に、彼女を家まで送っていったのがきっかけで、その子とつきあうことになりました。それが妻です。
――“H”というのは、どういった意味があるのでしょうか。
くらたまなぶ氏: 勧誘時に、ぼくも“H”について聞きましたが、ある男性が「それを自分で考えるんだ」と、そのわけのわからなさに惹かれました。ぼくが入った時の作文のテーマは、“世界”というものでした。「グループH」を創部したのは、小谷哲也という大学職員の方で、彼が現役時代に立ち上げたそうです。“ヒューマニティ”のことをフランス語で“ユマニテ”というのですが、彼もサルトルが好きだったので、そこからきたのかなと思って聞いてみましたが、明確な答えは返ってきませんでした。わざと「グループH」という名前にして疑問も持たせながら、自分で考えることから始めさせたのだと思います。
「自分で何かやりたいことを企画して、みんなを巻き込め。企画した人がそのプロジェクトのリーダーになる」ということを彼は言っていました。また「グループH」の伝統として“絶対に金を稼ぐ”というのがありました。例えば海外旅行の企画をたてると、一般からも集客して、旅行代理店で交渉して自分たちの事務費用を捻出します。先輩の中にはたくさんマスコミ関係の人がいますから、そういった人たちに講師になってもらい、教室を借りて300円~500円で人を集めたりもしました。