キャメル・ヤマモト

Profile

学芸大学付属高校卒、東京大学法学部卒、青山大学大学院国際政経学科修士、オックスフォード大学セントアントニーカレッジ・シニアアソシエイトメンバー。 外務省(アラビスト)、外資系コンサルティング2社を経て、現職。 現在は主に日本企業のグローバル化を組織・人材面で支援。 著書に『答えは、箱から逃げ出すこと』(日経BP社)、『「世界水準」の思考法』, 『世界標準の仕事術』(日本実業出版社)、『グローバルリーダー開発シナリオ』(日本経済新聞社)など。

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学びを重ね 道を切り開く



デロイト トーマツ コンサルティングにて日本企業の組織、人材のグローバル化を支援されるキャメル・ヤマモトさん。学びでステップアップして道を切り拓いてきた、キャメル・ヤマモトさんの歩みを語って頂きました。

ユニークでありたかった幼少期


――ユニークな名刺ですね。


キャメル・ヤマモト氏: 実はこれ、日本企業の実態を表したような感じになっているんです。ハーモニーを大切にする日本企業が、山手線の緑で、外資の一直線に進む感じを京浜東北線に見立てて青で表現しています。緑と青が入り交じっている。近年、日本企業が海外の企業を買収した結果、日本企業自身が外資系のようになっているところもあります。日本企業が買収しているのですが、グローバルな経営をするには、相手のほうが人材がいたり、言葉の問題もあったりで、日本企業のグローバル化と言えなくなってきて、この名刺のようにまだら模様になっています。今取り組んでいるテーマは、その原因を探ることで、パターンを読み解き、パターンを組みかえるための方法と道具(まだらメソッド)を作るところですね。そして、最終的にどうすれば上手くやっていけるかを各企業が独自に描けるように支援することと、まだらメソッドを使うとグローバルリーダーに必要な能力が磨かれるようになるということを狙っています。



――グローバルな知見が活かされています。


キャメル・ヤマモト氏: けれども大学に入るまでは、一人で海外に出たこともなければ、その後も今のような仕事をするようになるとは思っていませんでした。ただ「人と違うことを」という軸はずっとあったかもしれません。父親は化学系のエンジニアで、勤務先だった名古屋でぼくは生まれ、3歳まで住んでいました。その後はずっと東京です。三軒茶屋にあった社宅に住んでいて、当時は広い原っぱがあり、そこでずっと野球をやっていましたね。

父親は理系でしたが、ぼくは物理や化学など、実態的なものが苦手で、算数や数学など抽象的なものが好きでした。マンガは『少年マガジン』や『少年サンデー』を好んで読んでいました。小学校高学年になると、カラーの百科事典が出始め、父親が買ってくれた第1巻にアラブの話が出ていて面白かったので、夏休みの自由研究にと、中東戦争の話をまとめたのを覚えています。後に中東と深くかかわることになるので因縁めいたものを感じます。

中学生のころは、よせばいいのに『Fundamentals of Mathematics』など洋書を見つけて、英語で読んでいました。訳の分からないことをやりたいという思いがすごく強かったのだと思います。高校生くらいになると、図書館でカントをはじめ、色々な哲学書を読み漁りました。全く身についていませんが(笑)。おかげでいまだにこのわからないことを読み漁る習性は今も残って楽しんでいます。また、語学に興味があり、高校生のころ、英語のラジオ講座のほか、中国語やフランス語を聞いていました。種田輝豊さんの『20ヵ国語ペラペラ』という本を読んだ影響だったのかもしれませんね。

天職をもとめて



キャメル・ヤマモト氏: ずっと続けていたハンドボールを大学に入ってもやっていたのですが、ある日、試合中にひどく捻挫して、遠征から引き上げざるを得ませんでした。急に時間が出来たので、大学1年の夏に、アメリカへ旅行することにしました。ツアーでしたが、他大学からも参加者がいて、40日間で滞在中は一人旅でした。グレイハウンドのパスを格安で買い、アメリカ大陸を横断、周遊しました。

サンフランシスコから始まって、東海岸まで行き、それからカナダのトロントへ、そしてナイアガラフォールを見ました。次は下ってワシントンDC、ニューオリンズ、ヒューストン、最後にテキサスを通ってロスに戻ってきました。途中で様々な外国人の友人ができたりと、初めての海外一人旅でしたが、とても記憶に残っています。

三島の「沖ヨガ」に通い始めたのは、ちょうどその頃ですね。アメリカのツアーから帰ってきて、ハンドボールで痛めた左足をきちんと治したいと思っていた時に、大学の同級生に勧められました。

大学2~3年のころ、その「沖ヨガ」道場の沖先生が講話で「人間はほかの動物と違って、色々なことに適応するところに意味があるんだ」とおっしゃっていたのを聞いて、色々と適応してきた自分のバックグランドを思い返し、外交官が自分の進む道だなと思いました。現職の外務次官の話が、切れ味も良くて、すごく面白かったのです。そういうことがあって、進路を決めました。

――研修語にアラビア語を選んだのは。


キャメル・ヤマモト氏: 外務省試験時、ここでも例の「みんなと一緒では面白くない」という想いが頭をもたげ、英語でもフランス語でもなく、中国語と書いたのですが、さらに、軽い気持ちで第1希望の欄にアラビア語を併記したのです。これが間違いの始まりでした(笑)。

採用後、中国語のつもりだったので、アラビア語は違和感があると人事に相談しました。すると外務省にいた、アルピニストの野口健さんのお父さんが話をしてくれて、すぐに感化されて、それまでやったこともないアラビア語に、すんなりと決めてしまいました(笑)。軽い気持ちで手を出してそこにはまりこむのも自分の特徴です。外務省入省後始めの3ヶ月は研修所ですごすのですが、研修所で食事をする時も、自分だけナッツとリンゴ酢で特製のダイエット食でした。1年後、語学研修のため、エジプトに向かったのですが、ヨガの修行もダイエット食も続けていました。。

――エジプトでも、ヨガですか(笑)。


キャメル・ヤマモト氏: 当時は変わっていることが絶対にいいと思っていたのです。自分は絶対ユニークでありたいというか、何かに没頭して、求道者のように生きたいと思っていたのです。外交のプロになりたいというのもその線でとらえていました。一緒に行った、宮家邦彦さん(最近は外交評論家としてテレビにしょっちゅう出演されています)は兄貴分みたいな先輩で、彼と一緒にいてぼくもだんだん普通にしてもらって……(笑)、食事も戻って、パーティーなどにも顔を出すようになりました。元来シャイですが、パーティー等では相手を換えて会話をたのしむ方です。

エジプトの次は、オックスフォード大学セント・アントニー・カレッジの中東センターというところで学びました。テヘラン大学でアリストテレスやプラトンをペルシャ語に訳したり、政治学も教えていたイラン人のエナヤット先生に師事しました。その一年は、指定されたアラビア語の文献を読んで、英語のエッセイを書いて、それを先生の前で読み上げてはディスカッションをする、というのをやっていましたね。エナヤット先生はおそらく福沢諭吉みたいな人で、すごい知的な刺激を受けて幸せでした。

著書一覧『 キャメル・ヤマモト

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