焦りと孤独感が産んだ『私たちの就職手帖』
福沢恵子氏: 帰国後、多くの新聞記者を排出していた早稲田の政治経済学部を目指すことにしました。当時の早稲田は女子学生が少なく、政経学部は女子が5%くらい。建物自体も女性用のお手洗いが十分にない状況で、入学後も「ここは男性だけがいることを前提として作られた場所なんだ」と、何となく居心地の悪さを感じていました。とにかく、キャンパスのどこにも「自分の居場所」をどこにも見つけられないんです。
――『私たちの就職手帖』の創刊を通して、自分の居場所を作っていきます。
福沢恵子氏: おそらくそれは先が見えない焦りや孤独感の裏返しだったんでしょうね。学生時代の私は、怖いもの知らずな分、とにかく行動力の塊でした。『私たちの就職手帖』は、1年生の時に4年生に紛れ込んで就職ガイダンスにもぐり込んだのがきっかけです。そこで知った女子学生の就職内定率の低さに不安を覚えて、女子学生同士で連絡ができるよう、名簿を作ったのです。その名簿を元にネットワークを作り、早稲田祭で模擬店を出します。さらに、その利益を元手に事業を起こそうと立ち上げたのが、その後18年間続く『私たちの就職手帖』でした。
早稲田祭の打ち上げ費用を引いた利益の残りが約30万円。それを事業資金にしました。就職した先輩たちを取材して、その記録を1冊にまとめたら情報をみんなで共有できると思ったのです。今だったらインターネットでの情報発信を考えるかもしれませんが、当時は存在しなかったので、紙ベースのミニコミです。制作に参加してくれた人は将来の就職問題を「自分のこと」と考えていた人たちばかりだったので、メンバーにも恵まれていたのだと思います。
「本と著書」 人気長寿企画を生み出す
――大学卒業後は晴れて新聞記者としてキャリアをスタートされます。
福沢恵子氏: 私の場合、結果的には希望通りの新聞記者にはなれましたが、就職活動では「私たちの就職手帖」のおかげで散々だったんです(笑)。一般企業からは「そんな危険な活動家は採らない」といった感じであちこち落とされて、内定をもらえたのは就職することになる新聞社だけでした。
新聞記者になったあともびっくり体験は続きます。今と違って全国紙の女性記者は珍しくて、街を歩いていてもすぐに目立ってしまうのです。最初の赴任先は石川県の金沢市。サツ回り(警察担当記者)から始めました。とは言っても地方ではそれほど大事件も起きないので、テレビドラマにあるような「事件記者」的な仕事よりも街ネタの取材も多かったです。学校での芋ほり遠足とか、地域の催しものの取材ですね。そんな取材の場にでかけた時も、「あ、女性記者だ!」と私の方がパンダのような扱いをされたことが何度もありました(笑)
ところで、新聞の地方版の場合、毎日ニュースがあるわけではないので、紙面を確実に埋めることができる連載企画が必要です。そこで「本と著書」という連載を考えました。金沢には句集、歌集、そして自分史などを書く人が多かったので、そういった人に出版の経緯や、ご本人のプロフィールなどを取材しました。これはまず著者ご自身にとても喜んでもらえるし、掲載された記事の評判も良かったです。掲載された新聞が何十部、場合によっては百部単位で売れるのです。この企画は、私が異動した後も長く続いたようです。「本と著書」というタイトルはとても“ベタ”な感じですが、長続きするものは非常に素朴なものだということをこのときに体感した気がします。
金沢に2年半いた後は、大阪に異動になりましたが、そこでは企画報道部といって、調査報道的な仕事をしました。その後、朝日新聞の出版局大阪本部(現;株式会社朝日新聞出版)に異動し、『アサヒグラフ』『朝日ジャーナル』と『週刊朝日』の三つをカバーする、記者と編集者の仕事をするようになっていきました。その頃『朝日ジャーナル』の取材で、身体障がい者のサポートをしているエンジニアへの取材を通じて、当時はまだ珍しかったパソコン通信、今でいうインターネットのメールを使って社会参画の可能性が広げられることを知りました。それがきっかけで、東京に転勤してからは『ASAhIパソコン』という雑誌の仕事を2年くらいやっていました。