常緑樹のごとく 一隅を照らして
ジャーナリストの福沢恵子さん。「女性と仕事」を中心テーマに、就職、起業、人材開発などについての執筆や講演を行われています。キャリアの出発点となった「新聞記者」という職業との出会い、働く姿勢について伺ってきました。
充実した“社会人メンター制度”
――昭和女子大学では特命教授として新規プロジェクトを担当されたと伺いました。
福沢恵子氏: はい、私の場合は教員として通常の授業を担当する他に、大学独自の新規事業を担当してきました。特に印象に残っていることは、他大学に先駆けて2011年にスタートした「社会人メンター制度」の構築です。これは、学生が将来希望する職業やライフスタイルを実現している社会人女性に出会い、直接アドバイスが受けられるという制度です。
“社会人メンター”は、学生に対して自身の体験を話して頂ける300人以上の女性の社会人が登録してくれています。学生は“編集者”“マスコミ”といった自分の気になるキーワードで検索することができ、該当する“社会人メンター”のプロフィールを見ることができます。この段階ではメンターは匿名ですが、面談希望ボタンをクリックすると、事務局が面談を手配してくれるという仕組みになっています。1対1の面談ではプレッシャーを感じる学生には、テーマを決めてお茶を飲みながら15〜30人くらいで話をする「メンターカフェ」という機会も用意しています。面談の場所はキャンパス内ですのでお互い安全な環境で話ができます。このような仕組みは、すごく重要なものですよね。職業も年齢も多様な女性たちが登録している、ここまで充実したものは他にはまだないように思います。
――この画期的な制度を作ろうと思われたのは。
福沢恵子氏: 今年81歳になられる精神科医の中井久夫さんが書かれた『樹をみつめて』という本を読んだことが、ひとつのきっかけになりました。文中に「治療における強い関係と弱い関係」という表現があるのですが、精神科医と患者さんの関係から始まり、少し範囲を広めて人間関係全体について書かれています。“確かに親密関係は最後の砦としては重要である。しかし強い関係だけでは孤立から抜け出せない。社会にひげ根を張るには弱い関係の豊かさが欠かせないのだ”(『樹をみつめて』より引用)と。要するに、誰とでも密に親しくするというより、ちょっとだけ親しい人たちがたくさんいた方が、社会の中で自分の居場所を作るためにはすごく重要だということなんですね。出版されてからかなり時間が経っている本なんですけれど、時を経ても変わらない素晴らしい内容に感銘を受け、学生のために「弱い関係の豊かさ」を持てるような制度を作ろうと思ったのです。
母の存在と新聞記者 私が出会った“メンター”
福沢恵子氏: 私は幼いころからかなり“ひねた”子どもで、専業主婦だった母に対して「誰が食わしてやっているんだ」というような発言をする父の態度に反発して、「そんなに外で働くことが偉いのなら、うちでは働く人を家庭内選挙で決めよう」などと提案したりしていました。(笑)。私のこんな発言に対しては「理屈ではそれも考えられるが、現実的には経済効率が悪い」と、当の母親から返り討ちにあいました。ただ、そんな私の性格を知っていた母は、早い段階から将来のキャリアカウンセリングを行ってくれていました。時は東京オリンピックが終わったばかりの1960年代。母は「これから日本はもっと国際化する。だから外国語を身につけておくことは絶対に必要だ」と高校か中学の英語教師になることを勧めてくれました。私は高校生の時にアメリカのノースカロライナ州に交換留学するのですが、当時はまだ高校留学が一般的ではなかった時代にも関わらず「留学中に何か問題が起こっても、対処は自分自身がすべきで、親が考えることではない」と言って、快く送り出してくれました。
――アメリカではどんな留学生活を。
福沢恵子氏: 私が留学した公立高校のある村は非常に小さくて、「日本からの留学生」が村の一大ニュースになりました。取材に駆けつけてくれた地元の新聞記者は20代半ばの女性で、生まれて初めて女性記者に遭遇して、それまで「記者は男性の職業」と思っていた先入観念が根底からひっくり返り、驚きと同時に憧れの念を抱きました。取材後、私の方から記者に、その職業につくまでの経緯、方法など、気づけば身を乗り出すほど聞き込んでいました。そして、逆取材が終わる頃には、私の目標は、しっかりと「新聞記者」になっていました。まさに目の前の「ロールモデル」の存在は、何よりも説得力があるという実例ですね。
焦りと孤独感が産んだ『私たちの就職手帖』
福沢恵子氏: 帰国後、多くの新聞記者を排出していた早稲田の政治経済学部を目指すことにしました。当時の早稲田は女子学生が少なく、政経学部は女子が5%くらい。建物自体も女性用のお手洗いが十分にない状況で、入学後も「ここは男性だけがいることを前提として作られた場所なんだ」と、何となく居心地の悪さを感じていました。とにかく、キャンパスのどこにも「自分の居場所」をどこにも見つけられないんです。
――『私たちの就職手帖』の創刊を通して、自分の居場所を作っていきます。
福沢恵子氏: おそらくそれは先が見えない焦りや孤独感の裏返しだったんでしょうね。学生時代の私は、怖いもの知らずな分、とにかく行動力の塊でした。『私たちの就職手帖』は、1年生の時に4年生に紛れ込んで就職ガイダンスにもぐり込んだのがきっかけです。そこで知った女子学生の就職内定率の低さに不安を覚えて、女子学生同士で連絡ができるよう、名簿を作ったのです。その名簿を元にネットワークを作り、早稲田祭で模擬店を出します。さらに、その利益を元手に事業を起こそうと立ち上げたのが、その後18年間続く『私たちの就職手帖』でした。
早稲田祭の打ち上げ費用を引いた利益の残りが約30万円。それを事業資金にしました。就職した先輩たちを取材して、その記録を1冊にまとめたら情報をみんなで共有できると思ったのです。今だったらインターネットでの情報発信を考えるかもしれませんが、当時は存在しなかったので、紙ベースのミニコミです。制作に参加してくれた人は将来の就職問題を「自分のこと」と考えていた人たちばかりだったので、メンバーにも恵まれていたのだと思います。
「本と著書」 人気長寿企画を生み出す
――大学卒業後は晴れて新聞記者としてキャリアをスタートされます。
福沢恵子氏: 私の場合、結果的には希望通りの新聞記者にはなれましたが、就職活動では「私たちの就職手帖」のおかげで散々だったんです(笑)。一般企業からは「そんな危険な活動家は採らない」といった感じであちこち落とされて、内定をもらえたのは就職することになる新聞社だけでした。
新聞記者になったあともびっくり体験は続きます。今と違って全国紙の女性記者は珍しくて、街を歩いていてもすぐに目立ってしまうのです。最初の赴任先は石川県の金沢市。サツ回り(警察担当記者)から始めました。とは言っても地方ではそれほど大事件も起きないので、テレビドラマにあるような「事件記者」的な仕事よりも街ネタの取材も多かったです。学校での芋ほり遠足とか、地域の催しものの取材ですね。そんな取材の場にでかけた時も、「あ、女性記者だ!」と私の方がパンダのような扱いをされたことが何度もありました(笑)
ところで、新聞の地方版の場合、毎日ニュースがあるわけではないので、紙面を確実に埋めることができる連載企画が必要です。そこで「本と著書」という連載を考えました。金沢には句集、歌集、そして自分史などを書く人が多かったので、そういった人に出版の経緯や、ご本人のプロフィールなどを取材しました。これはまず著者ご自身にとても喜んでもらえるし、掲載された記事の評判も良かったです。掲載された新聞が何十部、場合によっては百部単位で売れるのです。この企画は、私が異動した後も長く続いたようです。「本と著書」というタイトルはとても“ベタ”な感じですが、長続きするものは非常に素朴なものだということをこのときに体感した気がします。
金沢に2年半いた後は、大阪に異動になりましたが、そこでは企画報道部といって、調査報道的な仕事をしました。その後、朝日新聞の出版局大阪本部(現;株式会社朝日新聞出版)に異動し、『アサヒグラフ』『朝日ジャーナル』と『週刊朝日』の三つをカバーする、記者と編集者の仕事をするようになっていきました。その頃『朝日ジャーナル』の取材で、身体障がい者のサポートをしているエンジニアへの取材を通じて、当時はまだ珍しかったパソコン通信、今でいうインターネットのメールを使って社会参画の可能性が広げられることを知りました。それがきっかけで、東京に転勤してからは『ASAhIパソコン』という雑誌の仕事を2年くらいやっていました。
“フリーランス5ヵ年計画”で独立
福沢恵子氏: 大阪在勤時代には作家やカメラマンなどと一緒に仕事をする機会があり、「組織に属さずフリーランスとして働く」ことの可能性を知りました。私はそれまで「会社に雇われて働く」以外のワークスタイルを知らなかったのですが、「自分で仕事を選ぶことができる」という働き方を知ることは私にとって「コペルニクス的転回」となりました。それが29歳の時です。そこでまず「フリーになっても生きていける私を作る」というプロジェクト “フリーランス5ヵ年計画”を立てました(笑)。
最初にやったのは、知り合いのカメラマンに“フリーでやっていくために必要な条件”を聞くことでした。その答えは「フリーランスで仕事をするためには、最低でも12ヵ月分くらいの運転資金が必要。だからまず家計簿を最低3ヶ月つけて、1ヶ月の必要生活費を把握しなさい」というものでした。「蓄えがない状態でフリーランスになったら、それは単なる失業者だ。仕事を選べる自由があって、自分の時間を思い通りに使えるから『フリー』なんだ」とも言われました。それで、1年分の必要生活費を算出して、その額を貯金することが最初の目標になりました。
――他にはどのような計画があったのですか。
福沢恵子氏: 二つ目は、“1ヶ月に1人、将来の取引先となる人間、見込み客を開拓する”ということでした。出版社に就職した同級生に連絡をして、親切に対応してくれた人は、食事にお誘いして名刺交換をしていました。三つ目は、“1冊でいいから自分の名前の入った本を出す”こと。フリーランスになった時に、1冊の著書もなければ「私はジャーナリストです」とは言えないと思ったのです。
それで出版したのが『楽しくやろう夫婦別姓』という本です。当時は夫婦別姓が話題になり始めていたころで、後に社民党の党首となる福島瑞穂さんと、現在では「離婚弁護士」として有名な榊原富士子さんと三人の共著という形で出しました。表紙は漫画家の石坂啓さんが、すごくかわいいイラストを描いてくれました。おかげで夫婦別姓というお堅い法律がらみのテーマが、カジュアルに捉えられる、異色な本だったように思います。「あなたが結婚で名前を変えることを強制されているということに対して違和感を抱いているならば、その違和感も大切にしていいんだよ」というメッセージを込めていたのです。
――順調に計画の三つ目もクリアーできたわけですね。
福沢恵子氏: 見込み客の開拓は、3年目で、5年間の目標である60人を達成できました。でも「もっと見込み客を増やそう」と思った1990年に、私の母が病気になり看病しなければならなくなりました。シフトで勤務時間が決まる部署への異動を上司に相談しましたが、なかなか人員の空きが出ず、断念せざるを得ませんでした。当時は育児介護休業法もまだ存在していない時代です。親の看病での休職は認められません。そこで、予定を2年繰り上げて32歳で独立することに決め、現在に至ります。
常緑樹のごとく 一隅を照らして
――どのような思いでお仕事をされていますか。
福沢恵子氏: 私がフリーランスになったばかりのころ、ライターの大先輩に言われた「常葉樹のような仕事をしてね」という言葉が今でも心に残っています。「華々しいベストセラーを出すことも素晴らしいけれど、そのような著作の中には後に何も残らない仕事も多くある、それよりは、細々とでもいいから、誰かがあなたの仕事を何年経っても活用してくれるような、そんなロングセラーとなるような仕事をしてね」と言われました。当時の私は32歳で、その言葉を聞いてもあまりピンときませんでしたが、20年経ってみると「なるほどね」と思うようになりました。
私が水野谷悦子さんと翻訳した『ビジネス・ゲーム』という本は、アメリカでは100万部のベストセラーで、日本でもかなり売れたのですが、一度絶版になりました。しかしながら、文庫本で復活し、アナウンサーの小林麻耶さんが、「思い出す本忘れない本」という朝日新聞の記事の中で、自分が心に残った本として紹介してくれました。また、本屋さんで働いている人が、小さなコラムで書いてくれるなど、本を介して見ず知らずの人に自分の思いが届けられるという貴重な体験ができました。このような体験によって、たとえ小さな光でも、一隅をずっと照らし続けることの重要性が改めて分かったような気がします。ベストセラーはその時代の象徴であったり、出版業界も活気づくのでその存在を否定はしませんが、ロングセラーの価値も再確認すべきだと私は思っています。
――これから、どんなお取り組みを。
福沢恵子氏: 三月で大学の任期が終わるので、四月からは休学中だった大学院に戻り「女性のエンパワメント」に関連した博士論文に取り組む予定です。本学の教職員の身分を離れることで「社会人メンターの応募資格」が発生しますので、今後はもしかしたらメンターのひとりとしてお手伝いが出来るかもしれません(ただし「選考を通過すれば」ですが……笑)。今後は、自分が常緑樹のように仕事をしていくのはもちろん、新たな緑の種をまくお手伝いを、色々な形でできたらと思います。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 福沢恵子 』