“思い込み”の蓋を外そう
各種療法、心理学をベースに構築した独自のプログラムを用い「思いこみクリアリングカウンセラー」として活動される、株式会社ビィハイブ代表の谷口祥子さん。もともと人づきあいが苦手で対人恐怖症に陥った谷口さんが、いかにして悩みに寄り添う仕事を選んだのか。悩み、苦しむ中で見いだしていったライフワーク、その軌跡を伺ってきました。
“思い込みクリアリング”という仕事
――“思いこみクリアリングカウンセラー”として、多くの方の悩みを解決されています。
谷口祥子氏: 日頃、自分でも気がつかない“思い込み”が、様々な行動に影響を与えています。
例えば、「会社で年上の上司や先輩の前で緊張してしまう」という人がいるとします。その原因をたどると、幼少期の厳格な教育方針、家庭環境など、自分でも忘れてしまっていたことに起因していたりします。小さい頃怒鳴られたり、かまってもらえなかったことによるネガティブな感情は、感情記憶として、脳の扁桃体に蓄積されていきます。すると、上司から叱責されていても、幼少期の両親から怒られた時の感情記憶が立ち上がって怖くなってしまいます。「人に対して身構えてしまう」とか「自信がなくて前に進めない」という悩みは、そのように幼い頃の体験に起因していることが多いのです。
――知らず知らずのうちに記憶の蓋が、開いているんですね。
谷口祥子氏: そうなんです。だから日ごろからネガティブな感情を解放することが大事です。私のセラピーでは、幼少期のストレス体験を再体験して、当時の思いや感情を受け止められるようにしていきます。また、「こんなことで怒るなんて、器が小さい奴」と自分を制御することも、感情をコントロール出来ているように見えて、結果的には感情に蓋をすることになるので、よくありません。セラピーでは、腹がたったら、ウレタン製の棒や新聞紙を丸めて、椅子に乗せたクッションを叩いてもらったりします。自分の中にある怒りという感情を外にすっきり吐き出すのです。
社名である「ビィハイブ」は、もともと「蜂の巣」を意味する言葉で、人や情報がにぎやかに出入りする場所にしたいという想いが由来となっています。響きもよく躍動感もあって「これだ!」と思いました。ビィハイブを立ち上げてプロコーチ、カウンセラーになるまでの私は、まさに記憶に蓋をして苦しんでいた人間でした。その苦しみをクリアにした自分の経験を生かして、同じ悩みを持った方々を苦しみから解放したいと思い、試行錯誤を経て、この仕事に辿り着きました。
対人恐怖症だったわたし
谷口祥子氏: 私はもともと人付き合いが非常に下手で、空気の読めない人間だったんです。ずっと「人に関心がない」「人の話を聞かない」「人を褒めない」という三重苦を抱えていました。
小さい頃から、よく勉強はしていました。高卒であることがコンプレックスだった母親からの「大学に行ってほしい」という期待もありましたし、小学4年生からは進学塾にも通い、中学受験をして、同志社女子中学に入りました。そのころの私の夢は、大学教授か厚生省の役人になることでした。当時、社会科の授業で、イタイイタイ病や水俣病、足尾銅山とか四日市ぜんそくなどの公害問題を扱ったことがあって、当時は「私が厚生省に入って、何とか助けてあげたい」と思ったのです。
――他者への思いやりは、十分に感じられますが……。
谷口祥子氏: ところが、実際の対人関係では、「人を受け入れる」、「認める」、「褒める」ということが、なかなかできない人間だったんです。表面上は明るく振る舞うことが出来たので、第一印象はさほど悪くない。けれども、本当の友だちができない、周りからはどんどん取り残されてしまうという焦りを感じていました。なぜそんなに苦しむのか、当時の自分には、その理由がわからなかったんですね。
唯一心の救いになったのは、高校生の時からやっていたギターでした。親の勧めたピアノなんかやってられるかと、ある種の反動でロックに転じたところもあったでしょう。『ザ・モッズ』や『ザ・ストリートスライダーズ』、『ザ・ローリング・ストーンズ』への憧れから始まって、大学に入っても社会人になってもバンド活動をしていました。ギターを弾いている時だけはハイテンションになり、つらいことを忘れることができました。
そんな中、私が20歳の時に母親がうつ病で自ら命を絶ってしまいました。「母親の血を引いている自分も、いつかは同じ選択をしてしまうのでは……」と不安に襲われ、そのうち他人からの評価や視線を気にしすぎるようになり、27歳の時に対人恐怖症になってしまいました。