人生を賭けたギャンブル
山内志朗氏: 読書と思索が大好きだったので「ここなら神保町に毎日行けるだろう」と、東大を選びました。けれど、いざ入学してみると周りは全国の名だたる進学校出身者ばかりで、経済的にも裕福な子弟が多く、育った背景も異なっているように感じ、全然話も合わないのでドロップアウトしたい毎日でした。高校まで一生懸命勉強していたのがウソのように、足も書店ではなくパチンコ屋に向かっていました。家庭教師やアルバイトで稼いだお金も、ボロ負けしてすってしまい、仕送り前の一週間などは、食うや食わずの生活を送っていました。ところがもっと大きなギャンブルに挑戦しようと決意したことで、パチンコの方はぱったりとやみました。
――どんなギャンブルを……。
山内志朗氏: 哲学です。当時、就職もせず哲学を研究することに対して、諸先輩方から「(大学院に行けば)就職なんて無理だよ」「哲学の先生なんてもっと無理だよ」と脅されましたが、これ以上のギャンブルはない、人生を賭けたものだと感じ、大学院に入ることを決意しました。
大学院では、注目度の低い17世紀中世のスコラ哲学をやっていました。カントやヘーゲルが流行っていた時代に、日本ではガラクタと言われ、古本屋の軒先に置かれていたタダ同然の本を買い集めて研究していました。やはり大事だと評価されたのは、だいぶ先の20~30年経ってからのことでした。
――自ら注目度が低いとおっしゃる研究を始めたのは。
山内志朗氏: 私は中心ではなくて、周辺に行きたがる傾向があります。マイナーなものに、光を当てたいと思うのです。スコラ哲学も、彼らが一生懸命やったものであれば、そこには必ず“何か”があるはずなのです。二流で間違いだらけで、飛躍のある思考でも、それを再構成することで面白い部分に気づいたり、本質が見えたりして、そこから、さらにさまざまな思考に思いを巡らすことが楽しいのです。
大学院で研究していた頃に、『現代思想』(青土社)の編集者に興味を持って頂き、最初の論文「スピノザとマテシスの問題」を書きました。それを読んだ新潟大学の教授が「好きなように研究してよい」と声をかけてくださり、大学院を修了後、新潟大学の助手になります。
東京にいた頃、17~18世紀ドイツの言語哲学の中で、ラテン語とドイツ語がどう対応しているのか調べて、当時60万以上したパソコンを買って、MS-DOSとか色々ガチャガチャとやって調べ、自分用にデーターベースを作っていたこともあって、新潟では人間学や情報科学を教えていました。
フィールドを与えてくれた“弥生式”編集者
――多くの研究成果が本にまとめられています。
山内志朗氏: 哲学書房の編集者、中野幹隆さんがきっかけで、彼に出会ったことで本を執筆し、発信するようになりました。日本では非常にマイナーなライプニッツに興味があるという話をしたことで興味を持っていただき、中世哲学の入門となるものを書いてほしいというご依頼を受け書いたのが、『普遍論争、近代の源流としての』でした。
すでに“普遍論争”について書かれた書籍は存在していましたが、疑問に思うところがあり、19世紀のものを辿ってみると、そのおかしさに気がつきました。こういう伝統のある分野ですら、ほとんど掘られないまま忘れ去られていることがわかり、「じゃあ私が掘って、日本にそれを紹介しましょう」という感じで出来上がりました。
私は、編集者を大まかに縄文式か弥生式かの、ふたつのタイプにわけることができると思っています。縄文式編集者は、実になったものを拾ってくるタイプ。つまり、有名人に声をかけて原稿をお願いするという形態です。弥生式編集者は、形がまだあやふやな時に目をかけて育ててくれます。私にとって中野幹隆さんはまさに弥生式編集者で、まだ何者でもなかった私を育て、書くきっかけを与えてくださり、研究への道筋を示してくれました。