書物に刻まれる息づかい
――山内先生の文章、例えば「哲学塾シリーズ」などは、とてもリズミカルで落語を聞いているような感覚を覚えます。
山内志朗氏: この原稿ではわかりませんが(笑)、私は東北の出身なので、いまだに訛りが抜けていません。ずっと落語のような、軽やかな調子に対する憧れがあって、――もちろん、なまりも個性として認識していますが――せめて文章くらいは軽やかに書きたいと思っているんです。哲学書を読んでいても、言葉のリズムと思想のリズムが合わないと、文章が頭に入ってきませんよね。誰にでも読みやすく、頭に入ってくるものに仕上げたいと考えながら、書いています。
ある時、西田幾多郎の『善の研究』を1年生向けに音読する講義をやりました。初めはみんな、難しくてわからないというような顔をするのですが、ちょっと内容を説明してから、もう一度読んでみると、皆口々に「絵が浮かぶ」と言うのです。それは響きとしての五七調を感じるからで、哲学書においても、音読は内容理解にたいへん役に立つんです。私が習った坂部恵先生も「原稿ができあがると、犬の前で読み上げる」とおっしゃっていました。自信なさげに読み上げると、犬が「クゥ~ン」と鳴くから、その部分は書き直さなければいけないそうです(笑)。自分自身が思想として練れていないところは、読んでみると、ゴロや響きが悪かったりします。
――この原稿も、音読して作成します。
山内志朗氏: ははは(笑)。「本」は、過去の知識事実が蓄えられている倉庫という役割だけではなく、著者の志も伝えてくれる装置なんです。私も本を読む時には、著者が書ききれなかった息づかいを、行間から感じながらページをめくっています。
本は、全体像がわからないと読むのがすごく苦痛になりますが、逆にいくつかわからない単語が出てきても、リズミカルに流れをつかめていれば理解することができます。学会論文においても、1分以内で要点が言えるのは良い論文です。全体像が見えていれば、道に迷っても、それほど苦しくは感じません。先が見えるかどうかということが、ものを書く場合でも、勉強する場合でも、人生でも同じく、重要なのです。現代は非常に細かいところがリファインされ、精密になっていますが、地図を作るような大きな流れ、夢を見られる場面が少ないような気もします。大きい流れを読み取っていくことの大切さを、本は伝えられると思っています。
リテラシーを養うことで世界は広がり豊かになる
――山内先生は、どのような思いを本に込めたいと思っていますか。
山内志朗氏: 書物を読み解くためのリテラシーの大切さと、その方法論を伝えたいと思っています。世の中には膨大な量の書物、情報が溢れています。リテラシーがあれば宝物ですが、読み解く能力がなければただの紙の山になってしまいます。もちろん全てを網羅するには追いつかないほどの情報が、すでに溢れているので、分野を限定したリテラシーでも構いません。セネカやキケロも読み、デカルトやスピノザも読んで、トマスを読むのは大変ですが、トマスだけ読むのであれば、もっと容易になります。現代社会はリテラシーの養成ではなくて、短期的な目標を成果とする “モノ”の方でやろうとしている風潮を感じています。
――モノではなく、能力を身につけようと。
山内志朗氏: リテラシーが単純化すると、お金がいくら儲かったとか、非常に単純なものでしか世界が見えなくなって、貧困化してしまいます。リテラシーというのは、大衆社会を豊かにすると同時に、物流のようにそこに付加価値を与えます。哲学がやるべきことは、価値を発見するというより、可能性を広げること。付加価値リテラシーを発掘することなのです。それが、実は社会的な基本財を増やすことにつながるのです。
17世紀のスコラ哲学をやっていると「またゴミばっかり集めて」などと言われたこともありましたが、自分では面白いと思っていたので、言われてもあまり気にしませんでした。「人は評価しないかもしれないけれど、自分にとっては大事なのだ」と思って続けることは、必要なことだと思います。そして、10年、20年、30年とやっていくと、読んでくださる方も10人、100人、1000人とだんだんと増えてくるのです。長くやっていると、その中から色んな発見が生まれます。そうやって、これまで私が見つけたツールやタネを、「本」で全部バラしていきたいと思います(笑)。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 山内志朗 』