認めあい支えあう世の中を目指して
真生会富山病院の心療内科部長を務める明橋大二さん。精神病理学、児童思春期精神医療を専門に、児童相談所嘱託医、スクールカウンセラーとしても活動されています。子育て中の親支援の必要性を訴え、講演や多くの書籍を通じて自己肯定感の大切を伝えています。明橋先生が目指す、「認めあい支えあう世の中」とは。
人を幸せにする仕事
――こちらの富山病院は、温泉や図書館もあって、とてもユニークですね。
明橋大二氏: さまざまな取り組みをしている総合病院です。笑顔あふれる病院を目指していることもあって、私はここで、子どもの笑顔の源を守る役割を担っています。もともとは、うつ病や神経症など精神の領域から、子どもだけでなく全ての年代に関わってきました。
私が名古屋大学で研修医としてスタートをきった当時、精神科医の関心の的になっていたのが、境界性人格障害、ボーダーラインと言われる人たちでした。心の辛さは、リストカットや大量服薬、暴力行為などの行動に出てきてしまいます。そういう辛さを抱えた患者さんと毎日向き合っていると、「実は子ども時代に虐待を受けていた」とか「10年間、いじめられ続けていた」というような事実が判明していきました。
「もしそういうことが子ども時代になければ、大人になってから、こんなに辛い病気にならなくてもすんだのではないか」と考え、精神科における予防という側面から子ども、あるいは乳幼児からのメンタルヘルスに携わるようになりました。もう21年になりますね。
――児童相談所嘱託医もされています。
明橋大二氏: おもに、子どもを虐待してしまう親のカウンセリングをしています。小学校で暴れる子どもたちや、自暴自棄になった心の原因は、やはり親に辿ることが出来るからです。
こういった子どもたちの症状は、私が名古屋時代に出会った20歳前後の人たちとまったく同じです。ひとつだけ違うのは、治療にかかる期間です。20歳を過ぎると、一生懸命、治療に関わっても治るのは5年~10年がかりですが、小学生の時に、きちんと親も巻き込んで関わっていくと、比較的傷を受けた期間が少ないので、短期間で見違えるような変化が見受けられます。早いうちに心の問題のサインに気づいて、できるだけ早く手当を開始することが大事なのです。
――医学で人を助けようと思われたのは。
明橋大二氏: 大阪市の公務員であった父は、医学部卒ではなかったものの、食中毒の研究などをしていて、医学の博士号をとった人間でした。私たち子どもには、誰か一人でも医者になってほしいという期待を、時々漏らしていました。
私が小学生のころは、四日市ぜんそくや水俣病など公害が社会問題になっていまして、子ども心に「科学の進歩が人間を不幸にしている」と感じ、自分が一生懸命何かを研究・発明をしたとしても、それが人間を不幸にするようなことになったら……と考え始めました。「人間を不幸にしない仕事」を自分なりに考えた結果、人の命を救う仕事であれば、不幸にすることはないと思い立ち、中学生になる頃は医学部に進むことが目標になっていました。
また一方で、音楽に親しんでもいました。もともと音楽好きだった母親は、コーラスを熱心にやっていて、家でもいつも歌を歌っていました。その母の意向もあって、子どもはみんな、ピアノを習っていました。家には、アップライトの小さなピアノがあり、中学生までやっていました。高校時代はパンクロック全盛期で、ご多分に漏れず私もハマりました。音楽雑誌、ロック雑誌も盛んな時代で、『MUSIC LIFE』や『NEW MUSIC MAGAZINE』などが有名でした。地元大阪では『ロックマガジン』が、当時最先端の音楽を取り上げており、そういった雑誌を熱心に読んでいました。
音楽雑誌の仕事に没頭し、勘当を言い渡される
明橋大二氏: 京大の医学部に進んだ頃はまだ、臨床医というよりは研究に携わろうと思っていました。DNAが解明され始めた頃で、研究を進めれば命のからくりや、その意味がわかるのではないかと思っていたのです。ところが、大学の講義には面白さを見いだせず、教室から足が遠のいていました。そんな時に、高校生の頃愛読していた『ロックマガジン』のスタッフ募集をたまたま目にし、編集部に飛び込みました。
最初はイベントの手伝いのつもりで入ったのですが「お前は英語ができるから、この詩を訳してくれ」と言われ、そこからいつの間にかインタビューや編集業務全般など、どんどん仕事が増えていき、編集部のある大阪ミナミにほとんど泊まり込みで、京都に帰れない日がだんだん増えてきてしまいました。
「勉強していないどころか、京都にもいない。ミナミでなにやらけしからんことをしとる。」
学校に行っていないことが父親の知る所となり、激怒されます。しかも私がやっていたのはロック雑誌。親の世代からするとロック=不良という図式が簡単に成り立ってしまいます。「下宿を引き払って、いますぐ家に戻ってこい!それができなければ仕送りも止めるし、勘当だ!」と大目玉を食らいます。父としては、そこまで言ったら諦めて戻ってくるだろうと思っていたのかもしれませんが、編集室に泊まり込み、収入も家庭教師でなんとかなっていた私も勢いで「じゃあもう家を出ます」と言ってしまいました。最終的には、双方妥協点を見いだし、父からはやりたいことを認めてもらい、私は少なくとも週1回は家に帰るという約束をすることになりました。
――明橋先生にも親との対立の時期があったのですね。
明橋大二氏: この時は「ついに頑固な親父に勝ったぞ!」と心のなかでガッツポーズをしていましたが、30年が経ち、自分も子どもを持つようになった今は、それを認めてくれた父の偉さがわかるようになりました(笑)。
医者になると期待していた息子が、ロックにハマって、ロクに学校にも行かず、ミナミに入り浸る日々を過ごすことになろうとは……、けれども息子のやりたいことを敢えて認めてくれたことで、私もその世界にある誘惑に惑わされず、道を踏み外さずに来られたのかなと思います。
京都に戻れない、という生活はその後2、3年続きましたが、5回生からは実習も始まったので、それからは雑誌の仕事から離れて、大学に戻ることにしました。