ソニーから社外への“技術供与”でビジネス化して社長賞をとる
山際康之氏: ソニーは自分に凄くマッチした会社でした。入社したての頃は、本当に生意気で世間知らずの新入社員でしたよ(笑)。社内のありとあらゆる事に対して、「こんなやり方じゃダメだ」などとケチをつけていました。当時の部長が、私の知らないところで部門内の人たちに、「山際が生意気なことを言えるような職場環境を作る事がウチの会社にとってとても重要だ」と言ってくれたそうで、後に聞いたときには、これこそ、自由闊達で愉快なる会社、ザ・ソニーだと思いました。
はじめはウォークマンやビデオの製品設計などを行なっていましたが、「モノづくり」の現場を経験したいと思っていたので、自ら「地方の工場に行かせてくれ」とお願いし、当時、発売したてのCD(=コンパクトディスク)や8ミリビデオの工場で、実際の作業を観察し続けました。
この時、私にはひとつのアイデアが浮かんでいました。モノづくりの知識、ノウハウを全て描きだして、製品設計の方法論としてひとつにまとめたら売れるのではないか、それがビジネスになるのではないかと思ったのです。その話をまわりにしても、誰にも相手してもらえませんでした。それで、残業時間や、土日、正月返上でアイデアをカタチにすべく、体系化づくりに没頭しました。技術の世界は、一番しか認められません。誰かに先を越されたらと考えると、夜も眠れませんでした。
当時ソニーが工業用のロボットを外部に売り出す時期で、「モノの作り方のノウハウをパッケージ化したのですが、ロボットと一緒に売ってみたらどうですか」とその部門に提案し、営業の名刺を作ってもらって、自ら売り込みをすることに。そのノウハウ、いわゆる製品設計の方法論を最初に持って行ったところがカメラメーカでした。
――カメラメーカの反応は……(笑)。
山際康之氏: たいへん高価な金額で、まさかの「契約します」というお返事でした。あわてて、ソニーに戻り、体系化したノウハウを見直したのを思い出します。
所属していた部門の周囲からは、「なぜソニーのノウハウを外へ出したんだ」と、大目玉を食らいました。ところが、その年、そのカメラはたいへんな話題となり、そのメーカの社長が、わざわざ成功したという挨拶のためにソニーに来訪したことから社内は大騒ぎになりました。こうしたモノづくりのノウハウ、いわゆるソフトがビジネスになるということで、社内の見方は一転して、社長賞をいただきました。なんせ、ノウハウというソフトは原価もなく、売り上げれば、そのまま利益になりましたから。いまでこそ、ゲーム、音楽、映画などのソフトと、情報機器などハードとの両輪がビジネスで重要だといいますが、ソニーがソフトをビジネスにした先駆けで、ロボットというハードビジネスを後押ししたのは、当時としては画期的だったと思います。その後、国内、海外80社以上の電気、カメラ、情報機器、自動車などの企業と契約をして、ノウハウの供与、コンサルタントなどを通じて多くの製品を生み出しました。
「ソニーという看板を下ろした時に、どのぐらい実力があるか、試してきなさい」というのが、ソニー創業者である井深大さんと盛田昭夫さんの教えでした。兼職OK。外でどんどんバトルをしなさいと。だから私たちの同僚には歌手としてCDを出した人やオリンピック選手もいます。外に出るという事に対しては、むしろ推奨していたというか、そこでつけた実力を、今度はソニーの仕事にいかしてほしいという事でした。