料理を舞台に“台所の力”を伝える
郷土料理を軸に日本の文化や知恵を伝える活動をされている、料理研究家の濱田美里さん。最新の調理家電から伝統的な調理器具まで、あらゆる器具を使いこなし、家庭で再現しやすいレシピを作ることに定評があります。「台所の力を伝えたい」という濱田さんの想いを、歩みとともに伺ってきました。
体育会系(!?)料理教室
――こちらが「お料理の会」をされているキッチンですね。
濱田美里氏: 2008年にスタートした料理教室ですが、毎月様々なテーマを取り上げて開催しています。実は、結構スパルタで「そこもっと細かく!」とか指示しながら、参加者の皆さんにはみっちり料理をしていただきます。ちょっと体育会系かもしれません(笑)。必ずみなさんにイチから作っていただいて、2時間半の間にだいたい5、6品を作ります。相当なハイペースなので、みなさんかなり集中していますが、その分喜びも大きく好評を頂いております。
今年は主に、郷土料理をテーマに取り上げています。今月は広島、その次は岩手という風にやっています。通われている生徒さんは、主婦の方から働いている方まで様々な方がいらっしゃいます。年齢も20代から80代くらいと幅広いですね。男性も結構いて、定年退職されて来られた方もいらっしゃいますね。それから、4名の少人数教室ではベーシックコースとしておいいしいごはんの炊き方、だしのひき方や魚の3枚おろしといった基礎の部分をつめてやっています。
ブロードウェイから台所に
濱田美里氏: 子どもの時から作るのが好きでした。まあ、どちらかというと食べるほうが好きで、料理を作ることを職業にする気は全くなかったのですが(笑)。絵本でホットケーキを見て美味しそうだなと思ったとか、そんなことがきっかけで、お菓子作りを始めた気がします。よくとんでもない失敗をしていました。ボールを火にかけたり、焼けないものをオーブンに入れて壊したり……けれども、ほめて育てる方針の母からは、叱られることなくのびのびとさせてもらいました。料理を作って新しい発見があると、他の人に教えようと写真を撮ってアルバムにまとめていました。
――子どもの頃好きでやっていたことが、そのまま……。
濱田美里氏: ……ではないのです。実は、ちょっと話すのが恥ずかしいんですけど……高校生の頃はブロードウェイで活躍する歌手になりたくて、ニューヨークに行こうと思っていました。けれども、親から難色を示されたため、まずは教えてもらいたいボイストレーナーのいる東京へ行こうと。ところが、そういった動機でも許してもらえそうになかったので、「大学進学」をカムフラージュに上京しました。当時は、何かにとりつかれたように歌手になりたかったですね。私は一つのことしか気が回らないというか、好きなことに突き進むタイプなんです。
――上智大学に進まれますが、学生生活はいかがでしたか。
濱田美里氏: 誤算だったのは、すっごく勉強させられる大学だったということ(笑)。意に反して、とにかく勉強していました。文学部英文学科だったので、同級生と文学について討論したり、英語を使ってレポートを書いたり、そんなことを4年間一生懸命にやりましたが、素晴らしい経験になったと思います。
一方、歌手になるためのボイストレーニングは2年くらいやったところで、「飛びぬけて一流になる才能はない」と自分で悟りました。20歳になった時「ダメだこりゃ」と思って、潔く諦めました(笑)。
夏休みなどには、バックパッカーとして、アジア、ヨーロッパ、アフリカそして南米を旅してまわっていました。訪れた土地の料理を食べ歩きながら、台所をのぞいていました。ただ、意図して台所に行ったわけではなく、なぜかいつの間にか台所にいたという感じでした(笑)。「見せて、見せて」という感じで、一緒に作ったり、「これ美味しい!」とか言って現地の人とはしゃいでいましたね。
ひとりで歩みはじめた“料理研究家”の道
濱田美里氏: 音楽の道は諦めていたので、なにか別の自己表現手段を模索していたところ、料理であれば味覚や嗅覚など五感全部を使って味わえてもらえる、「料理でライブができる!」と思うに至りました。「思ったら即行動」なので、会場となるレストランを探して掛け合い、定休日のレストランを借りてライブ仕立ての料理イベントをやりました。
大学4年になっていたので、自分の進路を決めなければいけない年でした。ところがその年(99年)はちょうど超氷河期と呼ばれる時代で、料理と生活手段を両立させるためにと受けた料理系の出版社は全敗という結果に。仕方がないので、ひとりで始めることにしました。
――ひとりで……。
濱田美里氏: いきなり“料理研究家”を名乗りました(笑)。名刺を作って、売り込みを始めましたが、22歳のなんのキャリアもない人間がすぐに自活できるほど世の中は甘くありませんでした。洋服を買うお金もなくて、祖母にもらった着物を着ていましたね。料理研究家として何を芯にするか、そしてどうやってプロとしてお金を稼ぐか、本当にわかっていなくて、それを突き詰めて考えていった先に、「郷土料理」が出てきました。
その頃、原因不明の体調不良になって、お医者さんには「環境ホルモンが原因ではないか」と言わたんです。「空気を吸っているだけで具合が悪くなる」と言われ「どうすりゃいいんだ」と。けれど、私もこの便利さの中で生活していくうちに、環境に影響を与えている……色々と悩んだ末に、日本の昔ながらの生活様式の中に、何かヒントがあるんじゃないかと思い、おばあちゃんたちの話を聞いてまわることにしました。学生時代の外国旅行で、現地の料理に触れた時、反対に私は日本のことを何も知らないと思わされたのも、ふるさとの料理へと進む大きなきっかけだったと思います。
料理を“舞台”に「台所」の力を伝える
――今、料理研究家として数々の本を出版されています。
濱田美里氏: 『ひとり暮らしをとことん楽しむ!』という雑誌で連載を持たせていただくことになったところから、広がっていきました。おばあちゃんの料理を、どうやって一人暮らしの雑誌で伝えようかと試行錯誤していた時に、私が炊飯器を活用している姿を見た編集者が興味を持ってくださったのですが、すごく反響がありました。一人暮らしでは、満足のいく調理環境は整いにくいものですが、炊飯器がもう一つの鍋として使える。昔ながらのものを伝えるためには、その人に届く入り口が必要で、その時は炊飯器でした。それが2003年に『簡単!びっくり!炊飯器クッキング』として出版されることになりました。おかげさまで好評を頂きました。このときの印税は、中医師の資格をとるため全部学費につぎ込みました。
こうして少しずつ、何者でもない私を、編集者さんが見出してくださり、指揮者のように、個性を引き出してくれたことで、私も料理研究家としての道を歩むことが出来ました。また、料理本は、カメラマンさんをはじめ、チームで協力して作っています。ひとりではじめた料理研究家の道でしたが、こうして関わってくださるすべての方から学びを得て、「次はこうしよう、このやり方で新たにやってみよう」と続け、今に至ります。
――料理を舞台に挑戦は続きます。
濱田美里氏: 郷土料理、おばあちゃんの料理は、この10年、20年すごい早さで失われてきています。上の世代から教わったことを、私が学んだ知恵を次の世代にわかりやすく伝えたいと考えています。炊飯器クッキングのように、専門的なことをかみ砕き、現代の事情にあわせて “翻訳”する活動が、自分の料理研究家としての役割だと思っています。
昨年、『季節をたべる春の保存食・行事食』という、春を初めとして夏、秋、冬の絵本を作らせていただきましたが、やはり子どもに伝えることが、次世代に伝える上で最も大切だと思いました。子どもの時に食べていなければ、大人になって懐かしさを覚えることはできません。私たちが持っている原体験を、今の子どもたちが持つチャンスがないかもしれない。別に大きなカメで梅干しを漬けなくてもいいんです。今ある身近なもので郷土料理をつなげていく。あの香りを知っているとか、食べた時の懐かしさは、その土地に対する誇りや文化につながると思います。台所はその国の力だと私は信じています。その力を衰えさせないための取り組みを、これからもずっと続けていきたいですね。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 濱田美里 』