レジリエンスで社会を変える
東京都市大学環境学部教授で環境ジャーナリスト、翻訳家の枝廣淳子さん。環境問題に関する講演、執筆、翻訳等の活動を通じて行動変容と広げる仕組み作りを研究されています。レジリエンス=しなやかな強さで、数々の挑戦を重ね、今の活動へと繋げられてきました。「その時々の気づきや想いを、次代につなげていきたい」という枝廣先生の想いを伺ってきました。
現場へ飛び出そう
――枝廣先生のブログで、風力発電所の写真を拝見しました。
枝廣淳子氏: 9月に世界の持続可能性のシステム思考を研究しているグループの大きな集まりがあったのですが、事前にフランスでおこなわれる運営委員会に出席していました。プログラムの選定や、途上国の奨学生の選抜や、実務者レベルの打ち合わせも多かったですね。フランスには1週間くらい滞在していましたが、日本のように朝から晩まで仕事という文化でもないので、午前中は真面目にみんなで会議して、お昼休みは割と長めに時間をとります。そして夕方に終わって、それからはそれぞれ好きなように過ごしていました。その時に撮った写真ですね。
私たちは色々なことに対して、「こういうものだ」という先入観を持ってしまいがちで、フランスにおいても原発大国というイメージで伝えられがちです。確かにフランスは原子力発電の割合が75%を占めており、その点から見ると原発大国という表現は間違っていませんが、実際に行ってみると、風力発電所の写真のように風車も多く建っていて、「今は75%の原発比率を、50%まで低下する」目標を出しています。固定化されたイメージに捕らわれず現状を把握するには、やはり現場に足を運ぶのが有効な手段だと思います。
――第一期が始まった枝廣ゼミのスローガンにも「飛び出せ、エダヒロ研」とあります。
枝廣淳子氏: 私がこの大学に赴任させて頂いたのは「社会を変えられる人を、ひとりでも増やしたい」という想いからでした。枠の中に閉じこもったままでは、社会を変えることはできません。やはり外に出て、皆でプロジェクトを実行しながら、進め方や社会を変える方法を考え、手応えを感じながら進めていきたいという想いから、「飛び出せ!」と言っています(笑)。
ただ、社会を変えるためには“基礎的な力”も必要です。例えば「自然エネルギーが環境に良い」ということを示すためには、自分たちが理解するだけでなく、それを伝えたり合意形成を進める力も欠かせません。そうした基礎力を養うために、枝廣研では「読む・書く・話す・聞く力」を徹底的に鍛えます。第一回は『思考の整理学』という本の中から、「エッセイを400字で要約する」という課題を出しました。次は、それに自分の考察を加えて、再び400字にまとめました。課題提出時に学生に読書量を問うと、けっして多いとは言えませんでした。「数ページのエッセイを読むのも、大変だ」と言っていましたが、この2年間でどのくらい成長してくれるか楽しみです。情報に触れる窓口は増えているので一概に読書量だけでは計れませんが、やはりそれでも私たちの頃に比べて、“読む”機会は少なくなってきているように思えます。
「野生児生活」で学んだ自然の“恵み”と“確かさ”
枝廣淳子氏: 私の家は、父の仕事の関係で転勤族でした。京都で生まれ、その後は宮城県の田舎の方、それから名古屋に住んでいました。京都に住んでいたころは「大きくなったら舞妓さんになる」と言っていたそうですが、宮城で外で遊んで真っ黒に日焼けしてからは、舞妓さんの夢は諦めました(笑)。
けれども、その宮城での野生児生活が、今の私のベースになっています。子どもたちは、山にそれぞれの秘密基地を持っていましたが、私の“基地”では、春になると必ずふきのとうが生えてきました。そこから毎年生えてくるという “自然の確かさ”を学びました。
ある日、両親が好きだったタラの芽を発見し、高い木によじ上って枝をポキっと折って、家に持ち帰ったことがありました。両親も喜んでくれ、皆で天ぷらにして食べました。けれども、次の年は、枝を折ってしまったがため、タラの芽にありつけることはありませんでした。「持続可能性」ということを意識するきっかけでしたね。
舞妓さんを諦めすっかり野生児と化した私でしたが、小学校の卒業文集に書いた将来の夢は「作家」でした。うちはあまり裕福ではなかったのですが、母は「本は大事だ」と、よく買ってくれました。今でも覚えているのが、赤い背表紙で全24巻の『少年少女世界文学全集』です。そらで言えるくらい繰り返し読みました。晴れの日は外で遊び、雨の日は本を読む。本を読むと書く力もつきます。本の虫になってからは、作文も好きになりました。このことは、のちの方向性に大きく関わっていると思います。
―― その頃の“晴遊雨読”が、基になっているんですね。
枝廣淳子氏: 母に感謝しています。母は兄弟を大学にやるために自分は高卒で働きに出ました。自分が思うように勉強することができなかった分、「子どもには勉強をさせてあげたい」という気持ちが強かったようです。けれどもそれを「教育ママ」という形で発揮することはせず、独特の教育観で育ててくれました。小学校の時などは、私は家で勉強をすることができなかったんですよ。宿題が出ても「勉強は学校でするものだ。家に帰ってきたら外で遊びなさい」と怒られましたから(笑)。それで宿題は、授業が終わった後に学校でやるか、帰り道にどこかでやるようにしていました。
久しぶりに遊びに来た叔母に「何が欲しい?」と聞かれ、「学習ドリルが欲しい」とねだったのも、母から禁止されていた「学習ドリル」を持つ友だちが羨ましくて仕方がなかったからです。一事が万事、私の性格に合わせて見てくれていたように思います。成績が芳しくない時には「あなたの持っている力はそんなものじゃないでしょ?持てる力を発揮するのは、力を持っている人の義務だよ」と。そんな諭し方をする母でしたね。
その後、名古屋から川崎へ引っ越し、こちらに住むことになりますが、中学から引き続き、体育会系の軟式テニスをやっていて、高校時代もテニス一色でしたので、受験勉強を本格的に始めたのは、高3の夏ぐらいでした。「もう後がない」と短期集中型でやることに。今は「バックキャスティング」などと言われますが、目標と自分の今いる位置を把握することが大切ですね。そうやって苦手なものを克服して、なんとか東大へと進みました。