経験を最大限に 想いを漫画で届ける
医師、漫画家として活躍する茨木保さん。臨床医学に携わりながら、日常のささやかな笑いをまとめたギャグ漫画から、社会のひずみを鋭く描いた作品、医学の歴史の大作まで、幅広い作品を世に送り出しています。「“はずみ”で進んできた」という茨木先生の歩みを辿りながら、医者と漫画家をめざしたきっかけ、描くことへの想いを伺ってきました。
手塚漫画の“パワー”に魅せられて
――医師、漫画家として活動されています。
茨木保氏: こちら「いばらきレディースクリニック」では、外来での産婦人科診療をおこなっています。クリニックは水曜と土曜の午後以外開院していますが、漫画はその合間をぬって描いています。
漫画は幼稚園のころから描いていました。ぼくは、兄が二人と姉が三人の6人兄弟の末っ子として東大阪で生まれました。家にはたくさんの漫画があり、兄弟姉妹で回し読みしていました。『マガジン』、『サンデー』、『キング』は毎週読んでいて、さらに中学生になるとこれに、『ジャンプ』、『チャンピオン』が加わりました。
赤塚不二夫先生の『もーれつア太郎』や『天才バカボン』などが好きだったので、その影響からギャグ漫画を中心に描いていました。そこからだんだんと歴史ものやSF、ホラーものなど、色々と描いていました。
小学校4年の時に、姉が友だちから借りてきた手塚治虫先生の『火の鳥未来編』を読んでスケールの大きさに衝撃を受けました。それがきっかけとなり、漫画家志望のお兄さんがいる友達の家に入り浸って『火の鳥』を全巻読ませてもらいました。
それまでは「漫画はおやつ」という感覚でしたが、「漫画は一生を描くことのできるとても素晴らしいものだ」と、見方が大きく変わりました。『火の鳥』を読んでいなかったら、今のぼくはなかったと思います。それだけのパワーがありました。
――茨木先生の“手塚後”はどのような変化をもたらしたのでしょう。
茨木保氏: 漫画だけでなく生き方までも真似したいと思うようになりました。手塚先生と同じように将来の夢を「漫画家」と宣言し、中学校2年の時には医学部に進むことを決めていました。思春期前の人格形成の途中で受けた影響というものは、計り知れないものがあります。
その中で、理解してくれた周りの後押しもありました。中学校2年生の時の担任が美術の先生で、懇談の時にぼくが描いた絵を父に見せながら「保君は将来、医学部に行くと言っていますが、漫画の道に行ってもいいと思います」と言ってくれました。「この美術の先生、見る目あるわ〜」と嬉しくなったのを覚えています (笑)。
職人だった父の周りには医者のモデルも漫画家のモデルもいませんでしたので、ぼくがどういうことを考えて進もうとしていたのか、父はよくわからなかったかもしれません。けれども「やめろ」とは言われませんでした。戦地には行かなかったものの、招集をかけられていた戦中時代を生きた父には「ちょっとしたことで、人生が終わってしまう」という感覚を持っていて、我々のように平常状態で生きている人間よりも「何があっても受け入れる」というところがあったのかもしれません。漫画を描きながら医者になりたいというぼくの夢も反対することなく応援してくれました。
また、父の田舎は浄土真宗のお寺でしたが、次男坊だったため寺こそ継がなかったものの、やはり家ではお経をあげていて、随所に仏教的な感覚、従容の姿勢を垣間見ることができました。年々、ぼく自身もそれを感じてきています。漫画に「ぼくは仏教徒です」と描いているわけではありませんが、漫画を読んだ人から「私も仏教徒です」と言われて驚きましたね。