本で伝える「答えのない世界」に進むための道しるべ
男性の育児・教育、子育て夫婦のパートナーシップ、無駄に叱らないしつけ方、中学受験をいい経験にする方法、学校・塾の役割を中心に執筆・講演活動を行なう、育児・教育ジャーナリスト、心理カウンセラーの、おおたとしまささん。「教育は“生命の最先端の進化方法”である」というおおたさん。その教育における強力なツールである「本」に込める想いとは。
教育で世の中の悩みに応える
――育児、教育に関する様々な悩みに、著作や講演活動で応えられています。
おおたとしまさ氏: 男性の育児、子育て夫婦のパートナーシップ、無駄に叱らないしつけ、受験などを主なテーマに執筆、講演をおこなっています。今年も、中学受験、高校受験に関する著作を書き上げましたが、それぞれしっかりと取材に時間をかけるのがぼくのポリシーです。
まとめる前の心境は試合前のアスリートのような感覚で、執筆中はベストコンディションを保ち集中力を途切らせないように時間を確保します。ですから隙間の時間を見つけて少しずつ書いたりすることは苦手です。
自宅の仕事部屋は「このガンダムじゃないと戦えない」“コックピット”のような大切な空間です。朝5時に起きて、コーヒー1杯を入れて書き始め、午後3時ぐらいまでには原稿を書き終えるのが理想です。夕方、打ち合わせに出たり、雑務を片付けたりしますが、遅くとも夜7時には仕事を終えて、そこからは家族との時間を過ごします。子どもたちと一緒にお風呂に入って寝るというサイクルが幸せで、仕事においてもそれが一番効率良いですね。
――教育を軸に、今のような形で仕事をするようになったのは。
おおたとしまさ氏: 現在のぼくの教育観が確立されたのは、麻布中学・高校時代でした。ぼくをかわいがってくれた祖父の母校でもあり、「こうあるべき」というものを押し付けない自由な校風の中で、他人の考え方を尊重する姿勢を学びました。
祖父は元通産省の官僚で、引退してからは居間のソファーで洋書を読んでいる、かっこいいおじいさんでした。博物館や動物園、水族館、それからゴッホの「ひまわり」が日本にきた時には、ぼくを連れ出してくれ色々なものを見せてくれました。祖父が亡くなった時には、本棚から『風と共に去りぬ』の原書をもらいました。英語に興味を持ち、のちに上智へ進んだのも、そんな祖父の影響だったと思います。
高校生になると漠然と「未来の人類が平和に過ごせるような世の中に、少しでも近づけるために貢献したい」という想いを持っていました。映画「Dead Poets Society」(邦題「いまを生きる」)やドラマ「金八先生」を見て、「自分が大切だと思うことを、次世代の子どもたちに伝えていけば、世の中は少しずつ良くなるのではないか」と思い、先生を志すようになりました。
教育への想いを引き出してくれた息子の笑顔
おおたとしまさ氏: 大学で無事教員免許を取得し、いざ就職先を探す段になって新たな問いが浮かび上がってきました。「ぼくは人に教えられるようなものを何も持っていないし、まだ自信を持って教壇には立てない」と感じ、まずは社会を知ろうとリクルートに入社しました。
当時、就職マニュアル本は読まず我流で活動していましたが、最終選考の面接でキャリアプランを聞かれた時には「10年後は、強くて優しいお父さんでいたいと思います」とおよそ模範解答にならないことを答えていましたね。入社後『AB-ROAD』(エイビーロード)に配属されたのですが、全く知識も経験もない編集の仕事の、一冊が出来上がるまでの地道な作業に面食らい「先生になる」という目標を完全に忘れてしまうほどの、忙しい日々を過ごしていました。
――埋もれていた想いを引き出してくれたのは……。
おおたとしまさ氏: きっかけは息子が生まれたことでした。生まれた当時は変わらず仕事も忙しく、1歳ぐらいまでは妻に任せっきりでした。しかし、ある日の土曜日「たまにしか家にいないのに、何でそんなにムスッとしているの」と妻に言われ、ハッとしました。仕事では笑顔を取り繕っているのに、大事な家族の前にして笑顔でいられないのでは、本末転倒だと気付いたのです。良いお父さん、夫でいるにはライフスタイルを変えるしかないと思いました。
そんな毎日の中、息子のおかげでいよいよ決心が固まりました。一緒にお風呂に入った時、100円ショップで買った「ぞうさんのじょうろ」で息子が大喜びしてくれたのです。当時、仕事のストレス発散のために飲みに行き、夜中にタクシーで帰るといったお金の使い方をしていたぼくは「たった100円でも、この子はこんなに幸せそうな姿を見せてくれるんだ」と気づかされました。その瞬間、就職の時に、「強くて優しいお父さんでいたい」と言っていたのを思い出し、これまでの時間やお金の使い方がバカバカしくなり、会社を辞めることを決意しました。
会社を辞めて何をするか具体的には決まっていませんでしたが、まだ30歳を過ぎたぐらいだったので「肉体労働をしてでも養っていけるだろう」くらいに考えていました。「子どもが生まれたばかりで、よく会社を辞められたね」と言われることもありますが、ぼくの場合は、子どもがいなければ辞めなかったのかもしれません。子どもがいたからこそ、自分の人生観を自身に問わざるを得なかったのです。
――その後、ライターとして歩み出されます。
おおたとしまさ氏: ようやく初心を思い出したものの、もう30歳を過ぎており、いくつかの学校に履歴書を送りましたが、残念ながらどこも梨のつぶてで、面接すら受けることができませんでした。それで自分でやっていこうと編集ライターになりました。幸い、編集者時代の知り合いのプロダクションや編集部からたくさん仕事の依頼を頂くことができました。
育児関係の仕事の始まりとなったのは、古巣リクルートの『赤すぐ』のデスク職で、編集長は先輩でした。そういう媒体には男性の編集部員やライターはひとりもいませんでした。と同時に、男性の育児がこれから盛り上がりを見せようとしている頃で、だんだんと今にいたる道筋が見えてきました。高校生の時は「教育こそ世の中を変える力だ」という思いを形にする方法として「先生」しか思いつきませんでしたが、社会で経験を積んでからは「教育について語ること」もひとつの方法だということがわかったのです。