遊び三昧の学生生活で得たもの 自らへの問いかけ
――縁もゆかりもなかった東京での学生生活、いかがでしたか。
福間智人氏: ひとり暮らしがしたくて大学に入ったようなものだったので、最初は講義にもまるっきり出席せず、彼女をつくるためにテニスサークルに入ったり、それから麻雀にパチンコと遊びに明け暮れていました。一番ひどいときは半年間で0単位という有様で、留年して、1、2年生はそれぞれ2回やりました。そもそも講義に出席していなかったので、おのずと単位も取れなかったのです。
――そこからどのように変わっていったのでしょう。
福間智人氏: そんな生活ですから、お金が必要となり塾講師のアルバイトを始めました。そこは緩い学生生活とは違い、先輩や上司と一緒に子どもの受験に一生懸命取り組む場でした。大人の世界で生きている実感がして、遊びよりもそちらのほうが楽しくなっていったのです。小学生と中学生を教えていましたが、週5日、専任の講師に近い形で仕事をしていました。
2回目の留年で仕送りを止められてしまい、家賃を含めた生活費と学費をすべて自分で工面しなければならなくなりました。そのため、学生にもかかわらず、アルバイトから、本格的に専任の講師として仕事をすることになりました。当初は日々スーツを着てネクタイを締めてという生活に、背伸びしたような大人の世界を感じたものの、学費と生活費であとは何も残らない毎日に、学生生活が恋しくなりました。
――これは勉強した方が楽だな、と。
福間智人氏: 「もう背伸びした足が疲れてきたので、そろそろ座っていいですか」という心境でした。そこで、もう一度勉強をやってみることにしました。久々にやると、面白くて。それで大学の方もなんとか進級して、親には頭を下げ仕送りを復活してもらい、勉学一本に絞った本来の学生生活に戻ることができました。おかげさまで、卒業時には学部代表として安田講堂で卒業証書を貰うまでの真人間に戻っていました。
特技を生かし 人生を拓く
――卒業後は。
福間智人氏: 大学4年になっても勉強のエンジンがかかったままになってしまい、大学院に進んで教授になろうと考えていました。大学院へ進むためにはさらにお金が必要でしたが、いつまでも親に頼るのは恥ずかしいことだと思っていたので、大学院の1年生から、駿台予備校の講師として教壇に立ちました。
尾崎豊のファンというか信者だったので、自由への思い入れが強く、奨学金はもらいつつも働きながら自活することが一番で、学問はその次だと考えていました。
駿台の授業は1コマ単位の報酬なので、収入はさほどありませんでしたが、仕事として熱を入れてやっていたら、指導教授からどちらかひとつに腰を据えるように言われ、自活が第一だった私は、大学院を辞めることにしました。
生活するために稼がなくてはならないので、授業のコマ数を増やしていく必要がありました。とはいえ、人気が出ないとそれもかなわないので、授業の仕方を工夫して、試行錯誤しながら徐々に支持して頂けるようになり、そこから本格的に講師としての人生が始まりました。
そのうち講義のために毎週札幌を往復したり、講習会をもったりと、かなり忙しくなってきました。体力を消耗する仕事で、常にベストコンディションを維持しなければならず、このまま同じ状態で仕事をしていたら60歳まではとても持たないと思い、週3日くらいにペースを減らすことを考え、残りの日数で別の仕事ができないかと、生き方を模索するようになりました。
色々と考えましたが、自分の特技を思い返してみると「試験」でした。弁護士なら「試験」でなれるかもしれないし、講師の仕事をやめることなく続けられる。半分予備校で半分弁護士ができると当時は思い、そこから予備校講師を続けながら通信講座で法律の勉強を始めました。30歳手前の頃です。
――自分でレールを敷き、着々と進んでいかれます。
福間智人氏: しかし、確固たるものがあったわけではありませんでした。司法試験がどの程度のものか見当もついていませんでしたし、「試験」だから大丈夫ぐらいにしか考えていませんでした。最初の執筆の依頼を頂いたのは、ちょうどその頃でした。
著書一覧『 福間智人 』