冒険マインドで進んでいく
柏木吉基氏: 大学を卒業後は日立に進みました。就職活動時、「海外」とか「グローバル」というキーワードはありましたが、それが満たされれば、正直どの業界でも良いと思っていました。節操なく、色々な企業の説明会に参加していたのは覚えています(笑)。
日立を選んだのはすごくシンプルで、理工学部の研究室枠で、院生の先輩たちが埋まっていく中で、最後に残ったのが松下パナソニックと日立だったという理由からでした。
さらに私は、松下なら海外で働けるだろうと目論んでおり、事実直前までそのつもりでいたのですが、必要書類を提出するために学校に向かう途中で、ウトウトした時に、頭の中で「この木なんの木気になる木~」が、何故かグルグル回って、その勢いで日立と書き直して提出したんです。それで、日立に入らせてもらった……。
――シンプルにも程がある(笑)。
柏木吉基氏: ……不真面目ですよね、今の人から見たら(笑)。「入って君は何をやりたい」、「どの部署でどう活躍したいのか」が問われる今の就職活動の基準からすると、私は0点だと思います。
しかし、私にとって「どこで働くか」は、そんなに重要ではありませんでした。どちらも素晴らしい企業ですし、どちらに進んでも自分次第だと思っていました。自分でやりたい事は自分で実現すればいい。最初に決めたことが、その通り進む方が社会では希なことです。プレイヤーを好む自分が、組織に入り、その後二十年近くやってこれたのは、根底にそういう気持ちがあったからだと思います。
とはいえ、当時の私なりに戦略も考えていて、英語や海外に興味がなさそうな典型的な理系職場を敢えて選びましたよ。その甲斐あって、戦略通り海外の話に真っ先に手を挙げて、思い通りの部署に配属してもらって思い通りの仕事をやらせてもらいました。おそらく金融や商社に進んでいたら、私と同じ思考の人間はごまんといて、そこで手を上げても多分難しかったように思います。
そこまで戦略立てて入った会社でも、皆さんと同じように最初は大変な経験ばかりでしたよ(笑)。上司の怒号は飛び交うし、怒られるのは嫌ですし、将来に対する不安もありました。感謝するようになったのは、だいぶ先のことです。
――そこでも「自分なり」を考えながら。
柏木吉基氏: 常に考えて、でも答えはなかなか出なくて……。実務を5~6年すると、だいたい仕事は覚え、出来るようになりますが、今の自分が身につけた知識なり経験が、果たしてビジネス社会全体から見た時に、どの程度のものなのか気になってきました。
与えられた仕事をこなすことができても、もう少し違うやり方を知っていれば違った答えが出せるんじゃないかと思ったのです。それを体系的に学びたいと思った時に、ビジネススクールという選択肢が出てきました。
もともと「海外」というキーワードとも合致するということで、社内の留学制度を目指して二年ほど勉強することに。ただ、その留学制度を使ってスキルを伸ばしたあとに辞める社員がいて、事業部長が「もう俺の目が黒いうちはこのプログラムもうヤメだ」って、申請する前にシャッターを閉じられてしまいました。
留学のために費やした二年間のエネルギーはどこにぶつければいいのかわからなくなり、その時に初めて「会社を辞める」ということが頭をよぎりました。ちょうど結婚したばかりで、公私ともに悩んだ時期でしたね。
――大きな岐路に立ちます。
柏木吉基氏: 入学も入社もなんとなく決めていた自分の人生の中では、初めてのことでした。事業部長のもとへ何度か直談判に行きました。そのとき、事業部長から提案があり、私が単独で担当していた中国市場を切り拓くことが出来たら、留学の条件を飲んでくれるというものでした。正直、自信は半分程度でしたが、出来なければ潔く会社を辞めて自腹で留学しようと決めました。
結果的に周りの同僚と、時の運のおかげで中国市場への販路が開けました。それで約束通り、留学することができました。この出来事は、私の大きな自信と励みになりました。29歳ぐらいですね。
――自ら成功体験を作って留学。
柏木吉基氏: この出来事は、私の大きな自信と励みになりました。そうして勝ち取った留学先での勉強は、楽しくて仕方ありませんでした。人生の中でとても充実した期間のひとつだったと思います。二年間、集中して思う存分勉強させてもらいました。
自分なりの価値観を見いだし ブルーオーシャンへ漕ぎ出す
柏木吉基氏: 二年間の留学を終え、会社に還元する気満々で帰ってきたのですが、留学中に所属していた事業部が分社化されて、景気も悪くなり、リストラの嵐で、ここにいても自分が学んできたことを活用できない……このときも、また大きな岐路に立たされました。会社を辞めることに対しては、「裏切り者で非人間的な行為だ」と思っていましたので、それを自分がやるのは自分の人間性を否定するぐらい大きな決断でした。
その時、子供がもうすぐ産まれるという状況で。日産でオファーがあり、自動車には興味も知識もありませんでしたが、やはり「海外」というキーワードで行くならこの会社だと思って移ったのが2004年の3月ですね。そこから海外セールス・マーケティングの世界に入ります。
期せずして進んだ新しい道は苦しいものでした。半年ぐらいは右も左も分からない。やったこともない仕事でどうやって成果を出せばいいのか、中途入社だから早く成果を出さなければと焦りとプレッシャーを感じていました。焦りと恐怖感、ですね。
――その焦りと恐怖感を、どのような成果で返していったのでしょう。
柏木吉基氏: やはりこのときも、差別化戦略で人と同じことをやってもおそらく追いつかないし、「自分なりの価値」をプラスするには、周りがやっていないことで自分が出来ることを色々考えました。自分は理系で数字をいじることが好きで、周りは文系の人間が多くいる。半年ぐらいすると、自分に置き換えた場合の対処法が見えてきて、データに着目しました。
自動車会社は販売に関するデータはたくさん持っていますが、十二分には活用されていないと感じました。ここにある数字をどうビジネスに繋げるか、今までやってきたところ、自分が得意なこと、且つ、それが今この人たちが何故かやっていないことというのが半年もすると見えてくる。
――ブルーオーシャンを見つけて漕ぎ出していく。
柏木吉基氏: 漕ぎ出すために、意識を集中投下しましたね。もちろん、日々のルーチンはつつがなくやりますが、そこにどう違うものをアドオンさせるか、今の、例えばデータ分析や課題解決もそうです。それを上手く自分から提示していくと、喜ばれるわけです。なるほど、そういう見方や活用の仕方があるのかと気づき、そこから自分の居場所を作っていきました。それを形にして纏めたのが今の私の研修やサポートのプログラムになっています。
著書一覧『 柏木吉基 』