人生のロールモデルになったのは、ファーブルとドリトル先生
――次に人生の転機となった本というのもお伺いしたいと思います。今までで一番印象に残っている本はなんですか。
福岡伸一氏: それはやっぱり、子供のころに読んだ本だと思いますね。1つはジャン・アンリ・ファーブルの『ファーブル昆虫記』。もう1つは童話でヒュー・ロフティングの『ドリトル先生』シリーズです。ドリトル先生は博物学者で、生物のことを研究している先生なんですが、彼は一応動物の言葉がわかるという設定があって、いろんなことを学んでるんですよね。でも、どちらかというと脱力系の人で、世捨て人みたいな感じで世界中を旅しながら、珍しい生物を研究していくんです。それを読んで、子供心に「私もこんな風になりたいな」と思いました。いま思うと、ドリトル先生が私のロールモデルみたいなものだったのかもしれません。
――福岡さんが本を書こうと思うきっかけはなんでしたか。
福岡伸一氏: 自分で文章を書くようになったのは、比較的最近です。以前は、生物学の研究者だったので、「自分が書くもの」というのは基本的に学術論文ばかりでした。
学術論文というのは、普通の本とは違って、ある程度フォーマットが決まっているものなんです。まず、実験をしてデータを出して、そのデータを基に「だからこれはこういうことなんじゃないか?」と書き連ねていく。それに文体も、非常にシンプルなんです。
でも、あるとき、アメリカの本の翻訳をするチャンスがあったんですね。それは、僕がアメリカで見つけた非常に面白い本があって、「これを日本で翻訳したらどうだろう」と出版社の人に提案してみたんです。そのときは、まさか自分で翻訳するなんて考えてもいなかったのですが、出版社の人から「そんなにこの本が面白いのなら、福岡さんが訳しませんか?」と言われて。正直、私は英語を日常的に使うことは多かったけれども、翻訳の正規教育を受けた訳でもないから、その話がきたときはできるかどうかちょっと不安でした。でも科学関係の本だったので、時間をかけてでもやってみようかな、と思ったんです。いまになると、学術論文だけでは自分は飽き足らなかったんじゃないかな、とは思っていますけどね。
翻訳でなにより求められるのは読解力。そして、言葉に対するクリエイティビティ
――翻訳はスムーズに進みましたか?
福岡伸一氏: いえ、全然(笑)。その話を引き受けたら途端に後悔することになりました。翻訳の作業というのは単に英語を訳す労力は20%ぐらい。残りの80%ぐらいは、原文をどれだけわかりやすくて的確な日本語に置き換えられるかが重要なんです。その作業が、とてつもなく労力がかかるわけです。翻訳はある意味で究極の精読。究極の読書ですよ(笑)。ですから、それで読書力がすごく鍛えられたと思いますね。しかし、これまた内実を言うと翻訳は、本当に労多くして益が少ないもので……。翻訳者の印税は4%なんです。
――ご自身で書かれた場合は10%ですよね。それと比べると、やはり差がありますね。
福岡伸一氏: アメリカの原著者には10%。しかも、多くの場合はアドバンスと言って、前取りされるんです。つまり、著作権料や翻訳権料をもらう時に、事前にもう支払ってしまわなければならない。「この本は、日本で翻訳すれば多分5万部は売れるでしょう」と予測したら、原著者のエージェントに5万部の印税を前払いするんですよ。それが、この作品の著作権を買ったということになる訳なんです。でも、それは売れなくても取られちゃうんです。
また、売れたら売れたで、その分に応じてまた印税が支払われます。でも翻訳者は一般的には英語のものを日本語に訳しただけすよね?今は自動翻訳ソフトもありますし。程度にしか思われていないんです。売れっ子の翻訳者でもたぶん6%ぐらいでしょうね。
ただ、すごく勉強にはなって、何冊か翻訳をした後には、だいぶ鍛えられえて、文章修業にもなったと思いますよ。そして、その後、私が翻訳したものを読んでくれた編集者がいて、『翻訳した本も面白いけれども、あなたも面白そうだから何か書いてみませんか?』とオファーをいただいたんです。それから自分の文章を少しずつ書くようになったのですが、それがこういった著書に繋がっていったということですね。
――翻訳書にも翻訳者の個性が表れますよね。
福岡伸一氏: そうですね。翻訳には、いろいろな解釈がありますから。『This is a pen』を『これはペンです』と翻訳することもできるけど、別の訳し方をすることもできる。また英語と日本語とが一対一に対応していないときが山ほどあるんです。たとえば、英語は関係代名詞などでつながって、一文が長いことが多いんです。でもそれを日本語で一文にして書くと、くねくねと係り結びが多くなってしまって、非常に読みづらくなるんです。
読みやすい日本語にするなら切ったほうがいい。でも、原文が一文なのに日本語で4つの文に切ってしまうと、それは間違いだと指摘される可能性もありますが、「あえてそういう風に訳しました」という思い切りも必要なんですよ。要は、すべて翻訳者の力量にかかってくるわけですよね。本当に私なんかはプロの翻訳者ではないのであまり偉そうなことは言えませんけれども、翻訳は非常にクリエイティブな仕事だと思うんですよね。
その作品に使われた日本語のスタイルが、登場人物のイメージも決めてしまいます。だから文学作品の名作でも、新訳が出たり、村上春樹さんが訳したりするとガラッと雰囲気が変わったりしますからね。