ある時は励まし、ある時は慢心をいさめる。それが自分にとって良い本
金田一秀穂さんは、祖父は言語学者の金田一京助、父は国語学者金田一春彦という日本語研究者として著名な学者の家系に生まれ、現在、ご自身も大学で日本語学の講義をする傍ら、国語学者として研究を重ねておられます。日本語に深い理解があり、関連の著書も多数著されている金田一さんの、本に対する考え方やとらえ方、本とのつきあい方などについて、また電子書籍についてのお考えなどを伺いました。
現在は大学での日本語教育と日本語研究が主な仕事
―― 一般の方がイメージされる金田一先生のお仕事と、実際のお仕事にはずいぶん開きがあると思うのですけれども。現在、どんなお仕事をされているのかお話しいただけますか?
金田一秀穂氏: 本来の仕事は、大学で教えるということですね。それから日本語教育という外国の人に日本語を教えること。そして、日本語を教える先生を養成する、いわゆる日本語教師養成というのが基本的な仕事です。それが大体、週3日〜4日ですね。で、それ以外の仕事では「心地よい日本語とはどういう日本語か」というようなテーマで話をする地方公演などの仕事があって。3つ目に、ものを書く。それは雑誌の連載や、連載していたものを本にまとめるという仕事がいま、うんざりするぐらいあります。それ以外の時間にテレビに出たり、このような取材を受けたりということです。
――では普段のお仕事は、やっぱり大学の研究室でなさるのですか?
金田一秀穂氏: そうですね。研究室か、自分の家の書斎でします。
――書斎は、どのような感じなのでしょうか?
金田一秀穂氏: パソコンはありますけれども、本もありますね。ただ、本は必要なものだけが側にあって、あとはもう、どこかへしまい込んで(笑)。
――お持ちの本は、どのぐらいの量ですか?
金田一秀穂氏: 膨大だから困りますね。後で見つからないから大騒ぎするんです(笑)。でも、ともかく、しまい込まないとあふれちゃいますからね。最近、引っ越したんですよね。新しい家に引っ越したのはいいんですが、本は全然出していない。段ボール箱が幾つあるって言ったかな、忘れちゃった、何十とか。何百かもしれない。それはいまだに開けていません(笑)。どこに何があるかも、忘れていますよね。で、自分の本というのはもうキリがないですから。困っています。でも、自分の本・・・蔵書を電子化できればすごいですね。
仕事上の研究には電子化データを駆使
――電子書籍自体は、先生ご自身は利用されたりしますか?
金田一秀穂氏: もちろん使うこともあるんですけれども、あんまり利用しないですね。「コーパス」という言語学の電子化データがあって、言葉について調べないといけないことがある時は、インターネットの電子図書館である『青空文庫』などに行って、この言葉を調べたいと入力して、ということはしますね。そういう意味では使う。だから調べるために使うのであって、いわゆる楽しむための電子図書の利用はないですね。何か知りたいと思った時に、仕事上の研究のために使う。
――その場合に使用する機器というのは、パソコンですか?
金田一秀穂氏: はい、パソコンです。PCです。ええっと、学校ではいま、古いのを使っていますね(笑)。昔のですね。Microsoft WindowsNTでしたっけ、Windowsの、かなり古いのです。家ではWindows7です。あとはiPadを時々持ち歩いています。
――iPadには、書籍やPDFデータなどの資料も入っているのですか?
金田一秀穂氏: いや、そういうのは入っていないですね。インターネット辞書・事典検索サイトのジャパンナレッジというところへつなぐと便利なので(笑)。あとはメールとかで使いますけれども。
――iPadを使うことによって何お仕事のスタイルは変化しましたか?
金田一秀穂氏: いや、スタイルは変わらないですね。せいぜいプラスアルファちょっと便利になったかなぐらいで、あんまり関係ない(笑)。目的の場所をちょっと調べたい時とか、肝心な時に接続がよくない。ネットとか使うというのは、大事なものに対しては、いまだに自分の中でどうしても不安が残るんです。もし、いざという時にうまく接続できなかったらどうしようとか。だからネットとかバーチャルな世界って嫌いなんです。
話すこと、議論することが、考えることにつながる
――そういう意味では、地図もそうですが紙には絶大な安心感がありますね?
金田一秀穂氏: そうなんですよね。頭ひとつというか、口ひとつですよね。だからPowerPointとかね、「使いますか?」と聞かれるんだけど絶対使わないです。授業でも使う人が多いんですけれども、ダメなんですよ。使えないんです。使うことの意味が分からない。
――金田一先生はどういったスタイルの授業をされるんですか?
金田一秀穂氏: PowerPointにビデオを入れて講義をする先生方は多いですが、実物を見た方が分かりやすいというのがあるんですよね。だから使いはするんですけど、私はしゃべるだけです。
――書いたりはされないのですか?
金田一秀穂氏: 黒板を書きながらしゃべる。授業の時はね。それだけです。プリントも配らない。
――プリントを配らないというのは、何か理由があるのですか?
金田一秀穂氏: 昔ソクラテスという人がいましたね。ソクラテスはプラトンにいろいろなことを話す。でも、ソクラテス自身は絶対に本を書かない。文字を書かないんです。どうしてかというと、ソクラテスは文字が大嫌いなんですよ。本が嫌いなんです。どうして本が嫌いかというと、本というのは記憶力をおとしめると。要するに、書いちゃえば覚えなくて済むじゃないですか。だから記憶力が悪くなるんだっていう。それから文字で書かれた本は、間違いを訂正しないというわけ。
――間違いを訂正しないとはどういう意味でしょうか?
金田一秀穂氏: 本には文字が書いてあるでしょう。書かれちゃった文字は同じことしかいわないじゃないですか。だからけしからんというわけ。間違いを訂正できない。それから、文字で書かれたものに対して、「私はここを聞きたい」と思っても答えてくれない。つまり文字にしちゃった途端に内容は非常に固定されてしまう。それから誰がいったかもよく分からない。で、アノニマスである、要するに無名性がある。ソクラテスは、本当にインターネット批判と全く同じことをいうんですよね。
——では結局、ソクラテスはどうやって勉強したのですか?
金田一秀穂氏: 賢い人がどこかにいるという話を聞き、そこへわざわざ行くわけですよ。その先生といろいろ話をして、分からないことを聞き、批判もする。すると向こうが反論し、という形で、しゃべりながらお勉強するわけですね。この先生がこういったということも覚えておかなくちゃいけないし、そうやって人というのは学ぶのだと。大学で教えていて、そういうことはすごく思うんですけれども。例えば本で習うこと、覚えればいいことであれば教室へ来る必要がないんですよね。
――先生もソクラテスと同じご意見ですか?
金田一秀穂氏: だから、今や教室でやることの意味が問われているわけですよ。放送大学とかって、それは先生との距離が離れてどうしようもなければ、それはしょうがないですけれども、もしそれでいいのだったら学校なんて解体していいわけですよ。そんなの必要ない、コンピューターでやっていればいいわけでしょう。家でやっていればいい。私も、大学に行かずに家でカメラの前でしゃべっていればいい、みたいになるじゃないですか。でもそれは教育というか、人が本来、考えている、考えるということへの自殺行為でもあるわけですよ。だからネット学習だとかネット大学だとか、そういうのももちろんいいんですよ、しょうがなくてすることはあります、学校に行けないからって。でもそうじゃない限りは、やっぱり人と会って、知恵ある人に学ぶ。で、知恵ある人に対して自分の知恵を出して、お互いに切磋琢磨し合って、人というのは賢くなるのだと。それがソクラテスのいうことだし、それはいまでも基本的には変わらないだろうと思うんですね。だから、そういう意味であまり文字とかインターネットとか便利な道具には頼らないことにしているんです。(笑) 偉そうだっていわれるかな、まずいな(笑)。
記録すると、集中して話を聞かない
――こういう取材の場合にメモは取りますが、確か立花隆さんはレコーダーを持たないと聞いたことがあります。
金田一秀穂氏: ああ、なるほどね。それはそうですよ。昔そういうのを私もやりましたけど、勉強する時に録画しちゃダメというのは習いました。例えば日本語を教えるという時にどうやって教えたらいいかというと、上手な先生の教室を録画しておけば良いんだというのがあるでしょう。そのビデオを見れば分かるというのは確かにそうなんですけれども、そうするとすぐに忘れちゃうわけですよね。やっぱり現場で注意力を働かせて、ただ見ている方がいいことはありますね。人にもよるでしょうけれど。
――しっかり耳というか、記憶に染み付きますか?
金田一秀穂氏: そんな感じがしますよね。自己満足だっていえばそうですけどね(笑)。そんなのカメラで撮っておいた方がいい、ということはありますよね。その場の雰囲気に流されちゃうし。だから冷静に見るのがいいんだという説も全くそうだと思うから。思い込みで会っていると、思い込みで覚えちゃうからいけないということはあるんですけれども。それは良しあしですよね。どっちがいいかは分からない。
――でも、訓練にはなりますか?
金田一秀穂氏: ある部分ね。だから、例えば患者さんと話すカウンセリングというのもやりましたけれども、それもそうなんですよね。その場の雰囲気というか、その場のにおいや温度が大切な要素だろうと思うんですね。だからなるべく、そういう形で語れる方がいいとは思うんです。ただ、それができないわけだから、本や放送という形になるんですけれども。本当はライブというかパフォーマンス的にやっている方がいいんじゃないかなと。観光地に行って写真だけ撮って満足するというのもありますもんね。
――証拠写真みたいで、もったいないですね。
金田一秀穂氏: そう。それで写真を撮ったら「ハイ、次」ってね。あれは、まぁいいけど。私自身はあまりカメラが好きじゃないですから、旅行でも自分であまりカメラを持たないです。それから周到なプランなんかも立てない。プランが決まっているのはつまらないですしね。
記憶力が良い=頭が良いことではない。
――プリントを配られないと学生たちも戦々恐々ではないですか?
金田一秀穂氏: 困っていますよね。ただ、その場の雰囲気を大切にしたい。で、「もし本当に勉強したかったら本を読んだら?」って(笑)。そのための参考の本とかは教えるわけですよ。これを読んだらいいよって。でも基本的にはね、講義をきちんと聴いてほしいんですよね。学生は苦労しますけどね(笑)。
――先生の講義を受けるのは、抽選みたいな感じになるんですか?
金田一秀穂氏: いや、そんなことはないですよ。そんなに授業は受けに来ないですよ。いや、たくさん来ますけれども、すぐに減ります。出席を取らないし。
――いろいろな勉強スタイルがあると思うんですけれども、勉強するのであれば本を読みなさいということですか?
金田一秀穂氏: 「本当に知識を得たいのであれば本を読みなさい」ですね。で、知識と知識を結び付けることこそが大切なんだということですね。知識を覚えるだけだったらコンピューターですよ。コンピューターにはかないっこないもの。コンピューターはばかだから覚えている。ばかだから記憶するわけですよ。記憶なんてばかのすることです。(笑)20代まで記憶力って高いわけでしょう。それを過ぎると記憶力が落ちるわけですよ、どうしたってね。じゃあ20代が一番賢いのか、という話ですが、そうじゃない。記憶というか正解・不正解が分かる問題について答えられることが、頭が良いと思われているんですね。○か×かを、あらかじめ正解が用意された問題に答えることを頭がいいと思われているわけですよ。だけどね、センター試験1番だった、全国模試1番だというのは、もう答えがある問題なんですよ。でも、世の中の大きな問題のほとんどは答えがない。みんな、どうしたらいいかが分からない。みんな手探りでしょう。手探りだからマニュアルというものを求めるわけですよ。でもマニュアル通りできた試しがないじゃない。そんなものできっこないです。
スーッと読めすぎて、いまの小説は面白くない。
――ところで最近、読まれた本で、これは面白いというものはありますか?
金田一秀穂氏: 最近、『臨済録』(岩波書店)というのを読んでいるんです。臨済宗の臨済です。『臨済録』というのと『論語』(岩波書店)と。あとは、この間読んでいたのは国会の原発事故の調査報告書。それから俳句の坪内稔典という人が書いた本です。タイトルを忘れましたが、面白かったと思ったから読んでいます。
――論語などは、どういうところがいいですか?
金田一秀穂氏: 要は、頭から読まなくていいんです。開いたところを読んで、フーンと言って終わる。いつでも開けるし、どこでも開けるし、最初から最後まで読まなくてもいいし、というところが気に入っています。
――いま、日本語の使い方もなんですけれども、現代の本は昔に比べて、こういうところが変わったなというのはありますか?
金田一秀穂氏: そうね、最近の本はあまり読まないんですよね。小説とかいうのもずいぶん変わったなというのがありますけれどね。若い人たちの小説なんかを読んでいても、屈折していないというか。素直にツーっといくんですよね。私が読んでいた小説というのは大江健三郎とか阿部公房とか、そういう人たちの作品なんですね。それには、いろいろコンプレックスだったり屈折していたり、悲しいことだったり困ったことだったり、というのがあって。それで作られるのが小説だと私は思っていたんですけれども、最近の小説ではそういうものを感じないですね。
――読み手にとっても、脳みそがねじられるような感じのものですか?
金田一秀穂氏: そうそう、そういうのがないの。やたらツルツルと読めちゃうんだけれども、退屈するんですよね。だから、すごく読むのに苦痛だったりする。どうしてそういうのがウケるのかな、分からない。
――考えなくていいからということでしょうか?
金田一秀穂氏: 要はみんな困っていないんでしょうね。以前は生きていくのがつらいとか、自分の存在自体が嫌だとか、そういう風なものがあったような気がするんですよ。でも、そういうことはもうあまり考えないんですね。肯定しちゃう。まず肯定、そこから入っていく。だから薄っぺらな感じがしちゃうんですよ。あること、言うこと、生きることに対する疑いというのか、そういうのがないのかなと思って。小説だけに限ったことですけれど、そんな感じがあるような気はします。
――問題提起して深く考えちゃうと、面倒臭いという感じでしょうか?
金田一秀穂氏: だからね、そういうのがごはんになって、おかずがあっていいんだろうけど、おかずばっかりみたいな気がしちゃうんですよ。おかずばっかり食べさせられているような気がして。言葉の使い方はね、上手なんですよ。でも、おかずばっかり食べていると飽きる。嫌になるんです。やっぱりごはんがほしいよね。ごはんを書く作家は、たまにいますけれども。でも、きっとあまりウケないんでしょうね。
――そういうような流れになってきているんでしょうか?
金田一秀穂氏: この時代が難しいんでしょうね。みんな、ごはんを見つけることが難しいという気がします。それは小説だけです。本自体はそんなに変わっていないんじゃないかな。それから、知識を大切にする。だからカタログ的な小説とか、マニュアル的な小説とかが多い。要するに情報を取りたいんだな。で、映画とかも情報ですよね、結局。例えば『フラガール』という映画を見る、要するにフラガールはどうやってなるのか、みたいな情報を知りたいと思って、みんな見ているわけでしょう。『Shall weダンス?』だって、ダンス教室ってどういうものかというのを知りたくて見ているわけですよ。あれはたぶん情報なんですよ。みんな情報を知りたがっている。でも情報なんかいらないって私は思うんです。
――では例えば映画の場合も、最新のものではない方が情報ではないものが多いですか?
金田一秀穂氏: ちょっと昔の方が、情報じゃあないんだよね。もう、ただ物語でしょう。そうすると、その方が逆に迫ってくるものがあることはありますよね。考えないといけないですからね。こちらも憂うつになってくるでしょう。みんな、考えるのは面倒臭いんでしょうね。答えを知りたがりますよね。「答えは何ですか」って学生たちが聞きますよ。私は「答えなんか出さないよ」って言っています。というか私自身も答えが分からないから学生に聞いていると私は思うんですけれども、学生は教師が出す質問は、みんな教師が答えを知っていると思っている(笑)。
考える方法、道筋を教えたい
――それぞれの意見、それぞれの答えがあるんですね。
金田一秀穂氏: それで「もうちょっと深く、でも、もうちょっとこういう風に考えた方がいいね」とかアドバイスをするわけですね。それが考えるということだし、学問するということ。だって少なくとも私の大学には専門家になる人はいないわけですから。研究者になりたいという人がいるわけじゃなくて、全然違う形で生きていくわけでしょう。でもそこで役に立つとすれば、そういう「考える経験」ですよね。どういう筋道で考えたらいいかとか、どういうことを要素に入れなくちゃいけないかとか、そういうことを教えてあげたいわけですよ。考える仕方、みたいなものをね。
――いかにして知識と知識を結び付けるかということでしょうか?
金田一秀穂氏: まず知識が正しい知識であるかどうかという、そこの吟味から始まって、それをうまく結び合わせる手段。それはもう言葉では言えない。「しょうがないけど、でもそういうものだよ」って。それで、後はそれを楽しむのがいいね。「楽しくなくちゃダメだよ」って言います。苦労するのはつまらない。「苦労してやったことなんて身につかないよ」って必ず言います(笑)。
――楽しまないとダメですか。
金田一秀穂氏: そう、努力は大体無駄だよって教えてあげます(笑)。努力なんか全部、裏切るんだよ。全部、運だよ、運ですよ、こんなもの。偶然性です。(笑)というと怒られますけど(笑)。
――いまでも先生の行動に影響を与えているような、ご自身がガツンときた一冊はありますか?
金田一秀穂氏: いや、いっぱいありすぎて分かりません(笑)。大岡信さんという人が「愛読書を聞かれて、いつも答えに困る」と言うんです。それでどうしようかと思うんだけれども、本というのはある本を読むと、どうしても次に読みたい本が出てくる。で、その本を読むとまた次に出てくる。つまり、すべての本は一冊の本なんだ、そうやってつながっていくんだ。だからいま読んでいる本は昔読んだ本の延長線上にあるし、これから読む本の出発点になっているんだ。だから、いま読んでいる本が愛読書だと言えばいいんだと答えるって聞いて、「なるほど、そうか」と思った(笑)。確かにそうなんです。本というのは、やっぱりそういうものだと思います。つながっている。だから、好きな人は次々と読んじゃうわけですよ。で何か読むと、あ、これも知りたいなと思うから、それを読むわけですよ。
――今読んでいらっしゃる本も過去とつながっていらっしゃるんですね。
金田一秀穂氏: 『臨済録』をなぜ読んでいるかといえば、『ブッダ最後の旅』(岩波書店)というのを前に読んだから、そのせいで読んでいるわけです。『ブッダ最後の旅』をなぜ読んだかといえば、その前に『人類の20万年の歴史(環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ)』(洋泉社)という本を読んだから読んでいる。どんどんさかのぼっていくでしょう。だから、その中から一冊を選べと言われても、それはもうどうしようもない。やっぱり全部です。
本は自分にとっていろいろな意味での「道具」。
――では最後に、先生にとっての本というのはどういう存在ですか?
金田一秀穂氏: 何ですかね。自分を生かす道具ですかね。そういう言い方をするとなんだけど、ごはんを食べる道具でもあるし、考える道具でもある。道具にすぎないという部分でもあるし、必須の道具だっていうことでもある。それは例えば手や目が道具だという意味での道具でもあるし。目がなかったら困るよね、それは必須の道具でもある。だから、生きている時にやっぱり必要なんですよね。楽しみでもあるし、厳しいものでもあるし。(笑)例えば、自分は賢いと思っている時に本を読むと、自分はやっぱりばかだったということが分かるわけでしょう。で、自分はばかかもしれないなと思って読むと、ああ、案外賢いと思ったりもするでしょう。例えば論語、臨済録を読むでしょう。そうするとああ、頭がいいなコイツらって思うわけですよ。やっぱりかないっこないと思ってガッカリする。でもいい本というのは、ガッカリした時に読むと励ましてくれる。あ、いけるかもしれないと思わせる、でも、やっぱり思わせてくれない。そういうのがいい本ですよね。だから変に鼻っ柱が強くなった時にはきちっと折ってくれないと嫌だし、でも折れそうになっているときには、いや、でも大丈夫と思わせてくれる、そういう本に出会えるといいですね。自分を励ましてくれる、背中を押してくれるような本。そういう本がいいですね。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 金田一秀穂 』