カール・シュミットの書籍を研究してわかること
――いまの出版不況だとか、本が読まれなくなったとか言われる状況の中で、今と以前とを比べて、本は何が変わったと思われますか?
原田武夫氏: もともと色々な本を好きで研究していますけれど、実は私、カール・シュミットという政治哲学者、憲法学者の研究家でもあるんですね。だから初期の本は『劇場政治を越えて』とかは、実は全部カール・シュミットのことが書いてあるんです。カール・シュミットの本の中に、『合法性と正当性』(未来社)という本がありますが、合法であるっていうことが正当であるっていうことではないということが書かれています。1920年代当時、ワイマール共和制で政治が行き詰まったんです。例えば経済的にも賠償金の支払いでガタガタになって、国内の政治は左翼と右翼がぶつかりあってぐちゃぐちゃになった。ここでは結局、ある種の独裁が必要だろうという状況でした。でも独裁が良いなんてどこにも書いてない。だけれども誰かが仕切らなきゃいけないし、左翼と右翼が分かれていたら国として進まない。じゃあその独裁をどうやるかといったときに、「独裁はワイマール憲法の中で書かれているある1つの価値を体現している」ということであれば、仮に明文の法律には乗っ取っていなかったとしても、それは、独裁としては正しいんだということを書いた本なんです。これは当時のワイマール共和国の大統領がですね、救世主として大統領に実質的な権限を与えようという憲法理論を作ろうとしたものなんです。でも結果的には、ナチス・ドイツ、アドルフ・ヒトラーに乗っ取られてしまったわけですね。だからいまのカール・シュミットの議論っていうのは、要するにナチスの、ヒトラーの独裁を正当化する議論だということで、しばらく読まれてなかったんですけれど、今、決断主義というのが必要になってきている中で読み返す価値のある本ではないかと。では決断する時のその根本は何か。「法律に書いてあるから」というのは違うだろうと。法律に書いてあることはですね、ただの価値観なんですよね。この本は、1930年代前半、独特の政治状況の中で訴えるものを出された本なんです。今、日本で出されている本の中には、そういう迫真のものっていうのがないんじゃないですかね。
今の書籍は「エッセイ」が多い
――私は原田さんの『狙われた日華の金塊 ~ドル崩壊という罠~』(小学館)にすごくドキドキ感を覚えたり、胸詰まるものを感じました。
原田武夫氏: 私は今の世の中に訴えかけるつもりで書いているんですけど、今いわゆる書籍としてあるのはエッセイなんですね。自分の非常に狭い半径1.5mの世界を延々と書いてる様な本ばっかりなんです。しかも論理がないんです。そうではなくて、もうどうにも立ち行かなくなっている状況の中で、じゃあどうすれば良いのかっていうところを説いた本を、ゴースト・ライターじゃなくて自分自身で書くという人は、今はいないのではないでしょうか。政治家が選挙の度にゴースト・ライターを立てて、ばーっと3時間くらいしゃべった内容を本にしている。だから政治が、言論の空間と思考の空間と切れてしまっているんですよ。政治が、単に再分配のマシンを誰が音頭を取ってやるか、ってことだけになってしまっている。国民に、自分の意思をちゃんと伝えてそれに皆が共感して投票するということが無くなってしまっているんです。だから今、民主主義の危機なんです。自民党が総裁選を行った。みんな、それから何か調べているんですよ。それは違う。もう1回同じ人たちが出て来たらどうなるのか、というところを考えていない。橋下さんだって草の根から出ているっていってるように見えるけど、結局同じルールに乗ろうとしている。みんな「真実は何か全然違うところにあるんじゃないか」と思っている。では何だろうって考えたときに、第2、第3のエマニュエル・カントが出てこないといけない。
――原田さんはカントに影響を受けられたんでしょうか?
原田武夫氏: いえ、私が好きなのはゲーテなんです。ゲーテってあれだけたくさんの本を書きましたけど同時に彼は政治家なんです。彼は政治家で大臣でもありました。彼が書いた本というのは文芸作品でもあるんですけど同時にポリティカルなんですよ。本っていうのはそういうポリティカルな存在なんです。文字にされるべきものっていうのは全部そうなんです。例えば仏典にしても、要するに偉い人に弟子たちが聞きに行くっていうストーリーじゃないですか。あれは、ある1つの理想像を、社会についてこうあるべきだ、こういう価値観が必要だっていうのを対話という形で示しているってことなんです。ある価値観を伝達するっていうことを、今の著者たちは、難しいからやらなくなっているんですよ。そして本もこれまではそのような内容だと売れなかった。でも私は、今人々はそんな本を求め始めていると思いますけどね。もう少し日本が政治・経済的に落ち込んだとすれば必ずそれを求める人がもっと出てくるんだと思います。
――今はまだ、政治・経済的にもまだそれを求める人が少ない状況でしょうか?
原田武夫氏: 要するに、まだ高度経済成長時代に稼いだお金があるからですよ。日本という国は、2013年から団塊の世代が年金受給者になる。そうなると、2015年までその期間が続くのですから、日本の財政赤字というのは、大体、対GDP比で270%になると言われているわけです。大変ですよ、これは。それで追い詰められたときに初めて、これからまさに本の復権と言うか、言葉の復権だと思ってるんです。今の政治は違う、と皆が思っています。でもそうではない新しい価値観というのを誰が提示するのか。それはやはり本から始まるはずです。従来の民主主義じゃないかもしれない。われわれがどう生きてくべきなのか。ミクロから始まってマクロ、あるいはマクロから始まってミクロなんですけど、その辺の価値観やライフ・スタイル、あるいは社会の構造の在り方というのが、カール・シュミットのような「決断をするための書」というのが必ず必要になってくる。
ドイツ人の条件は「ドイツ語を一定以上しゃべれる人」
――自分の中での使命感のようなものに気付かれたのはいつごろですか?
原田武夫氏: やっぱりそれはドイツへの留学が大きいですよね。実はドイツに在外研修で留学したいので、外務省を選んで東大へ入ったんです。だから私はもう、東大に入る前からドイツに留学したいってずっと思っていたんです。ドイツという国はすごく面白いんですよね。「ドイツ人」とはどうやって定義されるかというと、いまドイツ語を一定レベル以上しゃべれる人が「ドイツ人」なんです。つまりドイツ語で意味を伝達できる人。市民権取得の条件はそれなんです。
――言語が話せるかで決まるんですね。
原田武夫氏: どうしてかと言うと、ナチス・ドイツが、ユダヤ人とゲルマン人を分けて反ユダヤ政策をやったじゃないですか。だからその反動で、血で判断しないんです。ドイツ語の言語文化にちゃんと入って、ドイツ語でしゃべれる人かで判断する。これは私にとって革命的でしたね。私は日本でずっと暮らしてきましたから、日本人っていうのは当たり前で、当然のように日本語をしゃべる。でもドイツでは違うんですよね。彼らは大陸の真ん中に暮らしてるので、下手するとどんどん混ざってきちゃうんですよ。それを排除したのが要するにヒトラーの独裁政権で、それにより国が滅びる寸前まで行ってしまった。それで全く新しい原理、人々を統合する論理として何を考えたかと言うと、それが「言葉」だったわけですよ。ドイツ語を理解できる人は、仮に肌の色が違っても、どのような髪の色をしていてもドイツ人、というように、今、現実的にそれで社会が成り立ってるんです。これはすごい国だなと思いましたね。同時にそれは強い。ドイツの強さはそこにあると思います。だから私は、移民の問題とか色々ありますが、やはり日本人が今決断すべきところは、少子高齢化の問題の中、日本語を話して、日本の文化を理解して、私は日本人であると主張する人は、やはり日本人として認めていいんだと思うんです。それはドイツの例から言って決してぶれない。現実問題として、どんなに竹島の問題、尖閣諸島の問題があっても、日本が少子高齢化でこのまま行ったら、わが国は滅びます。だって人間が少なくなるんですから。それを防ぐためには、ある程度外国の人々が入ってくるのも当然でしょう。ただそのときに、根本的なルールは、外国に合わせるんじゃなくて、われわれが担ってきたもの、われわれが作ってきたもの、日本語の意味、日本語が伝えてきた意味であり価値をしっかりと受け入れることを最大の条件にすべきだということです。
著書一覧『 原田武夫 』