多読よりも『ハイパーリンクな読書』をするべきである。
――今の若者は読書体験が少ないと言われていますが、実際に接されてみていかがでしょうか?
田坂広志氏: おそらくアンケート調査をすれば、明らかに読書時間は減っているのでしょう。我々の時代は、テレビゲームなどの娯楽もなかったので、知的興味を満たすためには、映画を観に行くか、本を読むくらいしかなかったのです。だから「本を読む」という意味では、当然のことながら、昔の世代の方が本をよく読んだと思うのですね。ただ、読書の時間が減っていることそのものが若い方々のハンディキャップになっているとは思っていません。例えば、映画ひとつでも、いまは一本100円ぐらいで、レンタルDVDで古今東西の名作映画が観られるのです。従って、本を読まなくなったことが、必ずしも、いまの若い方々の知的能力を低下させているとは思わないですね。むしろ、逆に言えば、「知的な力量」というものは本を読めば身につくかといえば、必ずしもそうではない。本というものは、深く考えながら読むということをしないと、「知的な力量」は高まらないのですね。だから、意外なことに、多読家や速読家の人でも、実は、あまり深く本を読んでいない人も少なくない。私はむしろ、数よりも深く読むことだと思っています。あえて言えば、深く読んで「ハイパーリンクな読書」をやるべきですね。
――「ハイパーリンクな読書」というのは、どのようなものでしょうか?
田坂広志氏: 一つのキーワードを中心に、色々な分野の様々な本を読む。これが「ハイパーリンクな読み方」だと私は思っているのです。この読み方をすると、物事を深く考えられ、発想がクリエイティブになるのです。例えば、「死」というテーマについて考える。そのとき、医学書で生物的な死のことについて学び、その後、「死」について語った詩人の本を読む。さらに、映画で「死」をテーマにしたものを観たあと、臨死体験をした人の体験記を読む。そういう読み方です。逆に、「死」ということについて学ぶために、医学書の死に関する本を10冊買ってきて読んでも、専門的には詳しくなるが、死についての思索は何も深まらない。こういった「一つのテーマを色々な角度で色々なジャンルから照射してみる」という読み方をされるべきだと思います。むしろ私は、読む本の冊数は決して多くなくてよいと思っています。その代わり、こういった読み方をすると、自分の頭で深く考えるようになるのです。逆に、本というものは、読み方を間違えると大学入試問題のような読み方になってしまう。すなわち、ある本を読んだとき、「著者の主張は何か?」といった読み方になってしまう。それでは、大学入試問題の読み方ですね。そうではなく、「あなたにとってこの著者のメッセージがどのような意味を持つか」が重要なのです。それが、「本を深く読む」ということの本当の意味です。言葉を換えれば、「自分と著者が対話をする」という読み方です。それができれば、冊数が決して多くなくても、思索が深まります。そして、思索が深まると、物を考える能力が高まっていきます。さらに加えて、先ほどの「ハイパーリンクな読み方」をしていくと視野が大きく広がる、そして、発想がクリエイティブになります。しばしば、「田坂さんは、すごい読書家ですね」と言われるのですが、私より数多く本を読んでいる人はたくさんいる。ただ私は、普通の人より深く読むのでしょうね。そして、「ハイパーリンクな読み方」をするので、一冊の本を読んだときに残るものが、普通の人より多いのでしょう。
読書会は「知の力量」が近いもの同士でやるといい
――いま、世の中に「読書会」というものが流行していると思いますが、そういうものは思索を深める上で有効だと思われますか?
田坂広志氏: 読書会そのものは色々な意味があると思うのです。つまり、単に読書にとってプラスになるかどうかだけではなく、読書を通じて人と知り合えるというメリットもある。ただ、「思索を深める」という意味で読書会が役に立つかどうかは、やはり、メンバーによるでしょう。読書会のメンバーが自分とのマッチングがいい方だと、有意義な読書会になります。例えば、「○○さんと話していると、いつも新しい発見がある」と感じる人がいたり、「○○君はこの著者をどう見ているのか知りたくなる」と感じる人がいますね。こういう人との読書会は面白いと思います。
――なるほど。マッチングがいい人ですね。
田坂広志氏: 逆に、同じ本を読んでも、優等生のような感想しか出てこない人もいますね。つまり、読書会というのは、ある意味で、一冊の本という縁を通じて人間同士が出会っているわけです。正確に言えば、人間同士の視点や人間同士の思想が出会っている。ただし、その出会いが意味を持つためには、やはりある程度、「知の力量」が近いことが条件となる。「知の力量」があまりに離れていると、相手の言っていることが分からないか、ごく当たり前のことを言っているように聞こえてしまいます。だから、こういう読書会はしない方がいいですね。そして、「○○君、発表してください」と言うと、実にわかりやすく要点を説明してくれて、「ああ、良かった、一冊読まなくても要点が分かった」という読書会も、思索を深めるという意味では、あまり意味がない。従って、やはり読書会は、メンバーを選ぶべきですね。むしろ、二人でもよいので、マッチングの良い人と読書会をやればいいのではないでしょうか。例えば、「君と話していると、いつも勉強になるな」「いや、僕こそ、勉強になるよ」というマッチングの良い友人がいたら、「よし、月一回、二人で読書会をやろう」という方法がいいでしょう。そういう読書会なら、視点、発想、解釈など、様々な意味で読書の鍛錬の場になるでしょう。
電子と紙、どちらにも価値がある。
――電子書籍が読書に何か変化をもたらすとお考えですか?
田坂広志氏: もちろん変化をもたらすでしょう。ただし、電子書籍が紙の書籍を不要にしてしまうことはないと思います。電子と紙、どちらも価値があるのです。単に情報や知識を整理して伝えることが目的の本は、すべて電子書籍でいい。コストもかからないし、検索も早い。しかし、読書には、「本をひもとく」という感覚を味わいたい場合もあるのです。どなたも経験があると思いますが、面白い本を読んでいて、残りのページ数を感じながら、間もなく終わってしまうことが寂しく感じるときがありますね。こういうときに、「本をひもとく」ことの感覚がある。その点で、棋士の羽生善治氏が、とても印象深いことを述べています。彼の時代は、過去の棋譜がパソコンで自由に読める時代であり、名人戦を始め、すべてのタイトル戦は、すぐに棋譜が出ますから、それをダウンロードして自分のパソコンで盤面の展開を次々と見ることができるわけです。もちろん、そうした方法でも色々な学びはあると思いますが、羽生棋士は、本当に大切な棋譜は、将棋盤を出して駒を並べ、駒を動かしながら考えるというのです。そうしないと、次々クリックしていって展開を読んでしまい、結果として、深く考えることをしなくなると言うのです。つまり、電子書籍は、手軽に持ち運べる、コストが安い、すぐに本を入手できる、次々とページをめくれるというメリットはありますが、メリットというのは必ずデメリットと表裏一体なのです。紙の書籍の場合には、ある一行に目を奪われ、次のページをめくる手を止め、思わず線を引いてしまうということがある。しかし、電子書籍の場合には、簡単に次々ページがめくれるため、読むスピードは速くなるが、一方で、思考が浅くなるという落とし穴がある。そうした電子書籍の長所と短所をよく理解しておく必要があるでしょう。そして、「知の創発」を促し、創造力を高めるという意味で電子書籍に良い部分があるとしたら、先ほど述べた「ハイパーリンクな読み方」が容易にできるという点です。紙の書籍の良い部分は、やはり、ゆっくりと味わいながら読み、心に残った言葉に線を引く、余白にコメントを書き込む、そうして一冊の本を「自分の本にしていく」という喜びがあるのですね。
著書一覧『 田坂広志 』