執筆とは「知の創発」のプロセスであり、決して最初のレジュメ通りにはならない
――普段、ご自身の原稿は、どのようなスタイルで執筆されていますか?
田坂広志氏: いま執筆中の本は、原子力関係の本なので、情報の確認のために周辺に資料を置いて書いていますが、通常、私はほとんど何も見ずに書きます。私の人生論やプロフェッショナル論、マネジメント論などは、自分の頭の中にある思想と物語とエピソードだけで十分書けるからです。従って、私の本には、参考文献はほとんど挙げられていません。そして、一冊の本を書くときは、集中して書き下ろします。執筆のスピードは速い方かもしれませんね。本当に集中して書けば、10日で一冊を書くことができます。ただ最近は、執筆以外の仕事も増えてしまっているので、もう少し時間を取って書いていますが。
――それでも、とても速い執筆ペースだと思いますが。
田坂広志氏: 実は、本を書くということは、自分を癒す作業なのですね。それは、文学においてはもとより、ビジネス書においてもそうです。例えば、私の著書に『なぜ、我々はマネジメントの道を歩むのか』(PHP研究所)という本がありますが、こうした本を書くことは、自分自身のマネジャーや経営者としての悪戦苦闘の歩みに、ある意味づけをしていく作業なのですね。その「意味づけ」が、「癒し」になる。もともと、真の「物書き」は、自らを癒すために物を書いているはずなのです。それは、芥川賞作家でもビジネス書の著者でも、それが、真の「物書き」であるならば、同じだと思います。なぜなら、「執筆をする」ということは、自らの内面の非常に深い部分で「何か」を癒していく営みだからです。だから私の場合には、単に最先端の情報や知識を伝える本は、あまり書かないのです。「人生の意味は何か」、「なぜ働くのか」「マネジメントの目的は何か」、「戦略思考とは何か」、「いかなる未来が来るのか」、そういった本質思考を一冊の本にしているのが、私の執筆のスタイルです。そして、最初に著書の概要と構成を書いたレジュメは準備しますが、書き上げたときには、ほとんどそのレジュメ通りにはなっていない。執筆の過程で、次々と新たな視点やアイデアが浮かんでくるので、レジュメから大きく離れていくのです。すなわち、執筆という行為は、「癒しのプロセス」であると同時に、「創発のプロセス」でもあるのですね。かつて芥川賞作家の遠藤周作氏が、興味深いことを述べていました。ある小説を執筆しているとき、最初の構想では、心中をさせる予定だった主人公の男女が、話を進めていくに従って、「死にたくない」と叫び始めたそうなのです。それで殺せなかったと。本来、執筆とは、そういった深いレベルでの創発が起こる営みなのです。
――今後、田坂さんが電子書籍を出版される場合、どのような変化が起こりそうですか?
田坂広志氏: いや、私のような著者から見た電子書籍の怖さとは、「電子書籍に完成はない」ということですね。つまり、「書き上げた文章を、いつでも修正できる」ということです。そのため、一度書き上げた作品に、さらに手を入れたくなってしまうわけです。作品に対して、「ここまで」と割り切れる著者はいいのですが、私のように作品に対して完璧を求めてこだわってしまう著者は、編集者泣かせになってしまうのでしょうね(笑)。
――そうなると、本のあり方も変わってくるかもしれないですね。
田坂広志氏: 変わるでしょうね。例えば、電子書籍になると、私の著書『なぜ、働くのか』(PHP研究所)が、「第20版」という、単に何刷りになったかではなく、「第20回改訂版」といった形で、内容が毎回変わっていく可能性がある。著者の成長と共に内容が進化する本のようになっていく。紙の書籍の良さとは、「はい、ここで一度、完成です」という、この潔さです。そもそも、締め切りというものがないと、執筆という仕事は終わらない。締め切りが無かったら、まるで建築のアントニオ・ガウディの世界です。あと10年かけてコツコツ完成させていくという世界になってしまう。やはり、締め切りがあるから腹を決めることができる。「先生、明日の2時には入稿ですから」「分かりました。それまでには最後の推敲を行い、完成させます」と言いながら、それでも、つい文章を見直してしまい、青焼き確認のときに、もう一度、修正をお願いしてしまう。その意味で、私は編集者泣かせの著者ですね。まだ文章は修行中の身ですが、それでも文章に完璧を求めてしまうのですね。
自分の書いた言葉が、誰かの魂に触れる、それを求めて私は本を書き続ける
――編集者の話が出ましたが、田坂さんにとって編集者・出版社というのは、どのような存在ですか?
田坂広志氏: 著者と編集者とは何か。そのことを一言で述べるなら、「素晴らしい作品を通じて世の中に光を届けるために、巡り会った同志」ですね、志を同じくする人間同士の出会いです。そして、著者と編集者とは、一つの作品を共に創る「共同制作者」です。たしかに、一冊の本が世に出るとき、その本の表紙に名前が出るのは、著者である私ですが、しかし、その一冊の本は、紛れもなく編集者の方との「共同作品」です。それは、一人の著者と一人の編集者が巡り会ったことによって生まれてくる「共同作品」です。私は、そう思っています。そして、本当に良い作品を世に出すためには、著者と編集者、互いにその思いを持つことが、とても大切だと思っています。
――執筆された作品は、共同作品なのですね。
田坂広志氏: もちろん直接的に文章を書くのは著者である私であり、その文章の巧拙に責任を持つのも著者である私だと思っていますが、「作品の共同制作者」としての編集者には、作品に対して「最も厳しい最初の読者」になってもらいたいのですね。そして、忌憚のない意見を遠慮なく言って頂きたい。ただし、その厳しい意見を踏まえて文章を修正するのは、やはりあくまでも著者であるべきです。著者が責任を放棄し、編集者に「文章を適当に修正しておいてください」という姿勢を取るのは、私は著者として失格だと思っています。そして、この「共同制作者」という言葉は、実は、表紙のデザイナーや広告担当の方、印刷所の方や書店に本を運ぶ方まで含め、「共同制作者」であり、世の中に光を届ける「同志」だと思っています。
――では、読み手にとって、読書とは何でしょうか?
田坂広志氏: それは、明確です。私が若い時代に読んだ読書論で、「この一冊を読めば、読書論はもう十分だ」と感じた本がありました。亀井勝一郎の『読書論』(旺文社)です。その中のたった一行が、私の心に残っているのです。そして、その一行が心に残り、生涯、「読書とはこういうものだ」と思い定めています。では、それはどのような言葉であったか。
「読書とは、著者の魂との邂逅である」。
その言葉でした。「邂逅」というのは巡り会いのこと。もう、この言葉だけで十分ではないでしょうか。いま、この地球上に70億の人々が生きている。そして、人類の歴史始まって以来、何千億を超える無数の人々が、この地上に生まれ、去っていった。しかし、我々は、決して巡り会うことがない。巡り会うことができない。しかし、一冊の本を通じ、古今東西の一人の人間と出会うことができる。この地上に生まれ、人生を駆け抜け、去っていった一人の人間と出会い、その魂と巡り会うことができる。それこそが、「読書」と呼ばれる行為の、最も素晴らしい何かだと思います。
そして、だからこそ、著者となった私には、もう一つの言葉が心に刻まれています。
「執筆とは、読者の魂との邂逅である」。
その言葉です。
その邂逅を求め、私は本を書き続けているのでしょう。
(聞き手:沖中幸太郎)
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