平野敦士カール

Profile

東京大学経済学部卒業後、日本興業銀行、NTTドコモiモード企画部アライアンス推進担当部長を経て、ハーバード・ビジネススクール准教授とともに戦略コンサルティング会社、株式会社ネットストラテジーを創業、社長に就任。元楽天オークション取締役、元ドコモ・ドットコム取締役、元タワーレコード取締役。社団法人プラットフォーム戦略®協会理事長、ハーバード・ビジネススクール招待講師など、国内外での講演多数。著書に『カール教授と学ぶビジネスモデル超入門』(ディスカヴァー21)『プラットフォーム戦略』(東洋経済新報社)など多数あり、韓国台湾など海外でも翻訳されている。

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すべての活動は「バリューチェーン」の輪でつながっている


――普段、執筆はどのようにされているのでしょうか?


平野敦士カール氏: そうですね。私が大学で講義をしているのも、コンサルティングも、本も、実は1つのバリューチェーンになっています。例えば大学で講義するたびにいろんな文献を読んだりとか、専門書を知識として読んだりするんです。それを基に、自分での講義録をパワーポイントで作っていく。それで、その講義録ができたところを基に生徒の反応などを見て、それをまた本にしていく。コンサルティングも、その知識を元に実際の企業でアドバイスをして実践していく。それをまた講義に戻して、また本にしてということをぐるぐると回している感じなのですよね。

――そういった仕事法というか思考法は、社会人になって少しずつ積み重ねていったものなのですか?


平野敦士カール氏: そうですね。父親が東京慈恵会医科大学の教授でしたので、もともとアメリカに行ったのもアメリカの大学教授の関係だったのと、母親も大学で教えておりましたし、いま姉も大学で教えていますし、義理の兄も弁護士ですけれど司法研修で教えております。どちらかというと先生一家に生まれたんです。そういう意味で、自分だけ「日本興業銀行」というところにおりましたので、その当時何となく肩身が狭かったんですね。そういう意味では、「教える」ということは、昔からやってみたいなという風には思っていたのだと思います。講演もサラリーマン時代も頼まれてやっていましたしね。ドコモに勤めていた時も年間50回ぐらい講演していました。

当時は「おサイフケータイ」というテーマから講演すると、反応が来ることに対して面白いなと思って、そのへんからだと思いますね。海外での講演ももともとはほかにお願いしていた人がいたけれど、その人が忙しくてできないので「平野さんお願いします」みたいなピンチヒッターで講演したのがきっかけだったんです。シンガポールでの大きなテレコム系のカンファレンスだったんですけれども、そこですごく緊張したんですけれども、1発目英語で講演をしてみると、その後はすごく慣れたので、失敗だったか成功したかどうかはわかりませんけれど(笑)。とりあえず何かチャンスが来た時につかんでいくというか、物おじせずにチャレンジするということがすごく重要なのかなとは思いますね。

――平野さんでも緊張されることがありましたか?


平野敦士カール氏: いまでも講演の前の日とか、すごく緊張したりしますけれど、「緊張するけれども本番はうまくいくだろう」というのがどこかにあって、本番は緊張せずにできますね。

NTTドコモで取り組んだ「おサイフケータイ」のマーケティング


――そしてまた平野さんといえば、「おサイフケータイ」のエピソードがありますが。


平野敦士カール氏: 私が考えたのが携帯を使ったクレジット事業で、「iD」という名前になりましたけれども、最初のクレジットの立ち上げのころとおサイフケータイそのものの普及というのをやらせていただきました。小売りとかカード会社とか、全くいままでドコモと接点がなかった人たちをいかに巻き込んでいくかというところが非常にチャレンジングだったんですけれども、私は元銀行員だったので、金融については一応わかっていて、ちょうどそことの橋渡しができたので良かったなと思います。クレジット事業をドコモがやるということは、金融機関から転職してきた人間はドコモにも何人かいたんですけれども、その人たちと話をするとわかってもらえて「やるべきだよね」みたいな話だったんですけれども、そうじゃない通信とかインターネットの人は「何でいまさらクレジット事業をやるの?」みたいな感じで。結局4年間ぐらい社内の説得にかかりましたね。別にそれは悪気があるわけではなくて、単純に知らない業界だったからでしょう。



金融にいた人間はプラスチックのクレジットカードというのと携帯電話というのは、バリューチェーンというものを考えた時に「ユーザーがいて」というところで非常に同じに見えるわけです。だからすごく親和性があると思うのですけれども、そうではない業界の人にとっては全く違う業界に見えてしまうんだと思うんですね。でもそれをドコモは許してくれた。やらせてくれたことに対しては本当に感謝していますし、いまでもドコモグループのアドバイザーをやっていて、しょっちゅう行っておりますので、いい会社だと思います。私は銀行から年収が300万ぐらい下がってもドコモに行ったわけですけれども、もうちょっというと、金融というものに関してはある程度プロフェッショナルになったと思ったわけです、だからもう1つメジャーを自分で作りたかった。金融以外の何かと掛け合わせると、非常に自分自身のポジショニングが珍しいものになるだろうと。これはたぶん小さい時から差別化を常に考えていて、「どうしたらほかの人と違うものになるか」というようなことだったんです。ITというものが次世代のコメだと当時いわれていましたので、こういう技術の通信事業、特にモバイルというものがすごく魅力的に映ったんですね。

これはうちの母親がちょうどガンで入院して、亡くなったんですけれども、余命3カ月といわれて、病室から出られなかったので携帯電話しかなかったんです。当時はまだドコモがなかった時代だったんですけれども、その時にNTTに行って携帯電話を借りて、預託金7万円で非常にまだ高かったんです。その時に使ってみたら、非常にこれは便利だなと。これはたぶん必ず普及するだろうとその時思ったんです。それでたまたまドコモの採用公募があるということで、実は大手のアメリカ系投資銀行からは内々定はいただいていたのですが、そこへ行っても結局同じことをやるので、それよりは何か違うことをやりたいということでドコモに入ったんです。

年収300万ダウンでも、あえて「ドコモ」を選んだわけ


――いまのいわゆる転職と呼ばれるものは、年収アップというのが最初に掲げられていますね。そこをあえて年収が下がってもドコモへ行かれた。


平野敦士カール氏: 逆の道を行ったんですよね。正直いって、アメリカ系の投資銀行は、当時は良かったけれどそれこそ年収5000万円とか、そのぐらいのレベルだったわけですから。それでドコモに行って、年収も300万ぐらい下がって「なんてバカなんだろう」という風にはいわれました。でも当時、通信とかITというものを掛け合わせたスキルを持つ人というのがあまりいないというのがあったので、「何とか成果を出したい」というのがありました。「世界初」みたいなことができたらすごく面白いだろうなと思いましたね。お金も重要だと思いますけれども、ただそれが結局短期的に稼いで終わるのかということですよね。私は『アライアンス「自分成長」戦略』(日本実業出版社)という本も出していてそこでも書いています。長期的に自分自身を考えた時には、その時に米系の投資銀行に行った方がもしかしたらお金持ちになっていたかもしれませんけれども、いわゆるオンリーワンというイメージでいうと、選択としては結果的には良かったのかなとは思います。

「自分が自分が」が嫌いで、周りに引き上げてもらうタイプ



平野敦士カール氏: 銀行マンは世の中にあふれるほどいますしね。金融の仕事も「プロジェクト・ファイナンス」といって海外で発電所を作ったりとか非常に面白い仕事をやらせていただいたので、海外出張も多かったですし、希望して行ったので満足はしていたのですが、あえて違うものにチャレンジしたかったんですね。でも結構失敗の連続でもあったし、例えば行員の時も初めから国際部に行けたわけではなくて、初めは国内の営業みたいなところだった。そういう意味ではすべて思い通りにはなっていないんですけれども、ただ、与えられた仕事でしっかりと成果を出し希望していればいつかそっちに向かっていくだろうと、何となく自分では思っていましたね。全体的に言えるのは差別化ということと、あともう1つは人との「ご縁」だと思います。

私の場合、あまり「自分が自分が」という風にやっていけないタイプなんです。だから比較的周りが引き上げてくれたというケースがすごく多いんですね。それはアメリカにいたからかもしれませんけれど、すごく自己主張が強い人たちが多い世界でしたから、小学校からもうそういう感じで、それがすごく嫌だったんです。そこで勝ち残っていくというよりは、その世界がすごく嫌いで、二重国籍でしたからアメリカ国籍になることもできたわけですけれども、そういうところで戦っていくのが自分の性に合わないなと思って日本を選択したんです。それで逆に思うのは、いろんな人に育ててもらったというか、本当にきれい事ではなくて引き上げてもらったんです。

――差別化と、人とのご縁ですか。


平野敦士カール氏: 大前研一氏との出会いも、『たった一人で組織を動かす新・プラットフォーム思考』(朝日新聞出版)という本が出た時に、大前氏の会社の役員の方からいきなり会社のinfoメールに連絡があって、「大前研一がぜひお会いしたいといっている」みたいな話で、初めはスパムメールではないかと思って「うそだろ」と思ったんですね。それで実際お会いして、大学院で教えて、その後に「大学ができるので教授にならないか」みたいな感じで。大前氏に本も送ったわけではないですから、そうやって引き上げていただいたという感じです。早稲田のMBAも恩藏直人先生という『コトラーのマーケティング3.0』(朝日新聞出版)という本の翻訳をやってらっしゃって日本でコトラーを有名にした権威ですけれども、いきなり電話がかかってきて、「早稲田のMBAで教えてくれないか」みたいなお話を頂戴したので、本当に人の情けで生きているようなものですよ(笑)。

――「自分が自分が」という形だったらこうはいかなかったんでしょうか?


平野敦士カール氏: ダメなんですよね。そういう風な人を周りで見てしまっているので、逆にすごくそれが嫌なんです。本も最初はちょうど取引先の社長さんとランチをしていて、「平野さん、本でも書けばいいじゃない」みたいな話をされて、独立したあとだったので「じゃあぜひ」みたいな話で、すぐに出版社さんの社長さんを紹介していただいて出版できたんです。その時の編集者の方とお話をしたら、「平野さんのやっている仕事を一般化して多くの人に提供したらどうか」みたいな話をされて、それで初めての本を出したんです。これは『1の力を10倍にするアライアンス仕事術』(ゴマブックス)という本だったんですけれども、それが約2万部売れたので、そしたらどんどん次の話があって。ですから、本当になんて主体性のない人生なんだろうと(笑)。「皆さまのおかげです」という感じです、本当にそう思います。

著書一覧『 平野敦士カール

この著者のタグ: 『海外』 『考え方』 『マーケティング』 『日本』 『金融』 『転職』 『文字』 『ご縁』 『携帯電話』 『プラットフォーム』 『ビジュアル』

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