論文を書いて掲載する=「業績」をつくること
仲正昌樹氏: 論文とは、早熟な人を除いて、大学院生になる前に本当の論文を書いた経験がある人は少ないと思います。例えば試験で小論文がありますが、あれは本当の論文じゃない。卒論は、多くの人が書きますが、学術論文とは言えない。独自の学問的な知見を示すことまで求められるわけではなく、まとめ的なことを書けば、事足りるからです。精々、卒論しか書いたことない人間が、文学とか哲学とか社会学の院生になった瞬間から、「業績」になるような論文を書くことを意識することになります。
――業績ですか。
仲正昌樹氏: そう、「業績ですね。自分が研究者として認められるには「業績」っていうものがないといけないと認識させられる。それまでとは全く「書き方」が要求されていることが分かる。要するに専門家から認められるようなものを書かねばならないっていう感覚ですね。
――思ったことを思うままに書くというんではなく。
仲正昌樹氏: 専門家が認めてくれるような書き方をすることが必要なんです。しかも、私的に書くだけではダメです。「活字」にすることが肝心です。私の場合は新聞記者らしきこともしていましたが、新聞や雑誌の「活字」とは少々意味が違います。学問的権威ある学術雑誌に掲載されるという意味で、「活字」にしないといけない。その意味で活字にすることを「公刊」すると言います。「公刊」されたものが「業績」です。いわゆる同人誌だったら、公刊された業績とはみなされない。
――そうですね。
仲正昌樹氏: だから、実体は同人誌に近いものでも、ちゃんとした先生に審査員になってもらう。その前提として、院生だけでなく、先生も参加する研究会組織を作っておく必要がある。とにかく、「業績」を発表する場がないと、どうにもならない。それを強く意識するようになるんです。それがすごく大変なんですね。そこで色々みんな考え始めるんです。東大など大きな大学の一部の学科には、院生でも書ける公刊媒体を持っているところもある。伝統ある学科の雑誌だったら、かなりポイントは高いです。大きな本屋さんで市販されているものもあります。そこの学科・研究室を母体とする研究会が編集して、学術出版専門の出版社が発行元になるという形を取ります。市販されるくらいだから、形もある程度整っています。
新しく出来た大学院だと、そういう媒体がないので、院生は、修論を書いた後、どこに発表しようかと、いろいろ算段しないといけない。研究者として認められて就職出来るには、公刊論文が3本必要だって言われています。たくさん業績がある人もいるので、3本だけでは不安です。それをどこで書くか。まず自分の専門分野の学会に入って、そこの機関誌に投稿するっていうのがあります。しかし、機関誌は大抵年一回、多くて年二回しか発行されないので、競争率が高いし、一度書くとなかなか次の番が回ってこない。あと、自分の所属する大学の専攻課程に、先生がレフェリーになっている、雑誌があれば、それに載せてもらう。それで2本。
あと1本をどうするかって皆が考えます。自分のところの雑誌でも、2本連続は難しいことが多いし、そういう内輪で編集している雑誌は、あまりポイントが高くないと言われている。そこである程度人脈がある人だったら、総合雑誌とか、半学術雑誌扱いされることもある『思想』とか『現代思想』とかに書かせてもらおうとする。院生になったら、そういうことを考え始めるんです。逆に言うと、「公刊媒体」が確保されていないのに、そういうことを考えていないような人はやっていけません。
――そういったところから、書き手としての意識はスタートされているんですね。
仲正昌樹氏: そうですね。そこは、普通のライターさんと研究者と似ている部分だと思うんです。学術雑誌じゃなくて本屋で売る方がどちらかと言うとメインの思想系総合雑誌、に書くことを意識すると、フリーのライターやジャーナリストに近い感覚になるかもしれません。ただ、そういう媒体に書けるのは実際にはごく少数です。学術雑誌より狭き門です。
学者として世の中に発信することは、実は難しい
――仲正さんの場合も、どちらかと言うと世の中にこういった意見を問う、もしくは発信するお立場だと思われるんですけれども。
仲正昌樹氏: そんなつもりはあまりありません。偶に頼まれて、時事評論的なことを書くこともありますが、一応研究者だと思っているので、「世相を斬る!」的な発言は無闇にしないようにしています。といっても、むちゃくちゃ学術的に堅いものは、なかなか依頼されないです。だから、専門的なことを書いてくれと頼まれると、喜んで書きます。同業者的な人たちからは、仲正はいい加減なことばかり書いていると思われているかもしれませんが。一般論として、研究者がジャーナリストと同じような文章を書くことは、難しいと思います。大学院生が大変ですよね。ごく一部の人の話ですが、本格的な学術論文をまだあまり書いていないのに、メディアでの活動が多いと、学者とは認められにくくなると思います。分野や大学によっては、学術系でない媒体に書くと、先生から、「もうお前弟子じゃない」っていう的な扱いされることもあります。法学は割とその傾向が強いと聞きますね。
――そうなんですね。
仲正昌樹氏: いろんなことがあるので、学者でジャーナリスト的に書こうっていう人は、色々気をつかわないといけない。活動の場を、専門分野の外、アカデミズムの外に拡げるのが得なのか、損なのか。自分のところの先生とか先輩とかどう思うんだろうとかいろいろ考える人が多いと思います。
――学者としての目と世間一般の人気の目っていうのはまた別のものなんですね。
仲正昌樹氏: たまに週刊誌とか、大学教員をパロディー化した小説で書かれているほど、極端な迫害はないと思うんですけれど、助教、任期付きの講師とか、まだ立場の安定していない人が色物みたいな感じで目立ってしまうと、あとあと立ち位置が難しくなるかもしれませんね。
思っていないことは書かない、ありもしないことは書かないがポリシー
――仲正さんが書く時にこだわっているところはどういったところでしょうか?
仲正昌樹氏: 書く中身については妥協しないことにしていますね。タイトルや小見出しとかは売れないといけないでしょうからまあいい。段落の切り方とか、漢字のチョイス、カナとかも編集者に任せます。でも、議論の本筋では妥協しないようにしています。分かりやすく書いて欲しいという要望にはなるべく応えますが、分かりやすくすると、どうしても、本当は複雑に表現しないといけないことを、省略しないといけなくなる。これ以上は崩さないっていう最低ラインは保つようにしています。私も全く空気が読めないわけではないので、編集者や読者がこんな感じのことを書いてほしいんだろうなと感じる時はありますが、自分の元の考えと違うことは書きませんし、最低ライン以下の基準にまで単純化するつもりもありません。
――例えば編集者とのやり取りの中で、「こういう風にしてください」とか、そういったやり取りはあったりするんですか?
仲正昌樹氏: 「思ってないことは書かない」って普段から言っているから、そんなにひどいことを言って来る編集者はそれほどいないんだけど、たまに、「私はそれでいいと思うんでけど、編集部の中で意見が通らないので、どうにかなりませんか」とか言ってくる若手の編集者もいます。はっきり言って、そういうのは、その編集者が、ちゃんと仕事を任せてもらってない証拠です。そういう人を相手にしても、結局、何だかんだと文句を付けられて、ムダな仕事をさせられることになります。つい最近そういうイヤな目に遭いました。あと、誰それを批判するとまずいので穏便にして頂けませんか、と言われることも偶にあるので、最初の打ち合わせの段階で、そういうタブーの有無については確認することにしておきます。
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