学者と電子書籍のマッチングをこれから議論していきたい
仲正昌樹さんは金沢大学法学類教授として、ご専門は政治思想史、社会思想史、社会哲学です。著者としても専門書から一般書まで、多数執筆されています。ドイツ留学の経験もあり、学者として研究にまい進される仲正さんに、電子書籍の未来、本とのかかわり、学者と論文執筆についてご意見を伺いました。
家ではネットにつながない、資料を読みながら執筆の日々
――早速ですが、大学でのお仕事を含めて近況を伺えますでしょうか?
仲正昌樹氏: 大学では政治思想史という科目で教えています。法学類の方では政治思想史に関連した演習とか基礎演習、それから1年生向けの初学者ゼミを担当しています。あとは、法学類とは別に教養課程のドイツ語の授業。大学の中ではそういう感じですね。本は、具体的に書き進めているのは、現在2冊ですね。その他、出版社に原稿を既に渡して、編集待ちの向け原稿がいくつかあります。雑誌あるいは論集の依頼原稿です。あと、政治思想史の教科書を編集し終わって、作業が始まるのを待っています。
――普段の執筆はどちらの場所で行われているんですか?
仲正昌樹氏: 研究室と自宅です。私はもう1台ノート型パソコンを持ってるんですけれど、家ではネットにつないでいないんです。スマートフォンにまだ切り替えてないから、その時にでもまとめてやろうかなと思ってるんですけど。あとは、ずっとネットを見ていると不健全な気もしますしね。
――家と研究室での執筆の割合はどのくらいですか?
仲正昌樹氏: ちゃんと計ったことはないけど、7対3か6対4くらいじゃないですかね。あと、本をどっちに置いて仕事をするかで、メインの仕事場所が決まってくるわけなんですね。大抵の人は、少々汚れてもいい本と、あまり汚したくない本ってあって、汚したくない本はどっちかに決めて置いとく。大抵、研究室になると思います。私はそうしています。そのため、研究室で書く割合が多くなります。また、先ほどお話したように、私は家のパソコンをネットに繋いでないので、研究室でネットで調べものをしながら書き進める方が便利です。日本だとあんまり発達してないけれど、海外だと哲学など学術論文が掲載されているジャーナルを無料で公開しているサイトとかあるんです。それから、大学が契約を結んでいて、学内からだと無料で見られるジャーナルもあります。あと、図書館で本を借りたり、相互貸借で余所の図書館から取り寄せたりするにも、学内にいた方が便利です。
――普段の執筆の場合も、資料を見ながら進められるんですか?
仲正昌樹氏: 書いてるものの種類にもよるんですけれど、資料を見てる割合は結構高いですね。例えばある思想家のテキストについて解説する本の場合は、資料を見て重要な部分を引用し、引用しながら自分で解釈を考えるというやり方が多くなります。特定の思想家についての解説じゃなくて、ある思想傾向とか論調につついて自分の視点からまとめたうえで論評するような文章の場合、いちいち細かく見ないで、記憶に頼りながら大筋を書いて、後で細かいところを確認していく感じになると思います。エッセイのようなものったらあんまり見てないと思います。
ネットは使用せず、書籍は専門書店に注文する
――書籍はここにあるだけでどれくらいの冊数になるんですか?
仲正昌樹氏: そうですね。確実に1000冊はあると思いますけどね。わざわざ数えたことはないですけど。
――これは研究生活に入ってからのものでしょうか?
仲正昌樹氏: 基本的に捨てはしないですね。あとは、本の買い方って時期によって違う。院生のころはそんなに買わないようにしてました。収入がないから。教員になってから買う冊数は圧倒的に増えました。ただ、大学の予算で買う本も少なくないですね。先生になったばかりの時は、元々の蔵書が少ないということもあったし、関心が文芸批評的なものから政治思想や法思想へと拡がっていく時期でもあったので、いろいろ買っていました。最近は、大学の予算が少なくなったので、必然的に自分で買う本の割合が増えていますが。本とか消耗品を買うのに使える大学の予算を校費というんですが、校費で買うのは、いい本だけど、すぐには読まない資料、あと、政治思想史を教えている人だったら持っておいた方がいいような基本的な本とかです。あと、献本が多くなりましたね。直接執筆と関係無しに読んでいるのは、献本が多いですね。講談社から作品社とか春秋社とから、私の関心に関連していそうな本を、担当編集者が送ってくれる。少なくとも月1冊は何かもらってる気がしますね。
――本を購入する時は、本屋さんに行かれるんですか?
仲正昌樹氏: 新書と文庫は基本的に金沢でも買えます。4000円台を越えるとそもそも部数が少ないから、金沢にない本っていうのがあります。そういう本は京都か東京に行った時に買います。
――ネットを利用されますか?
仲正昌樹氏: いや、ネットは使わないです。宅配がそもそも面倒です。Honya Clubの様な仕組みとかが割と楽ですね。生協に送ってくれて生協で買うんです。ただこのHonya Clubの難点は、洋書が注文出来ないことです。これが洋書も店頭で受け渡し出来る様になれば相当楽だなと思います。
――東京へ行かれた時の、お気に入りの書店はどちらですか?
仲正昌樹氏: ドイツ語の本で買いたいものが決まっていたら、郁文堂に行くことがあります。電話で注文することもありますが、実物を見て買いたい時もあります。頻繁に行くのは、八重洲のブックセンターとか、丸善ですね。東京駅に降りてすぐだから。あと時間があれば、紀伊國屋、リブロ、ジュンク、三省堂などにも行きます。英語圏、フランス語圏、ドイツ語圏の哲学や倫理学の新しい本については、丸善の四階か、紀伊国屋の代々木店でチェックしています。
大学院生の時から、論文を「書く」ということを意識し始めた
――先生の幼少期のころからの読書歴をお伺いしたいと思います。ご出身は。
仲正昌樹氏: 広島の呉出身です。
――子どものころから本はたくさん読まれていましたか?
仲正昌樹氏: 学者に一般的になってる人が読んでるのに比べれば多くはないと思うんですけど、普通よりは読んでいたと思います。ただ、子どものころから難しいものを読んでいた記憶はないです。せいぜい偉人伝とか、漫画の日本史とか、それぐらいしか読んでいない。よく天才だって言われる人で、中学くらいから本当に難しい哲学書みたいなものを読む人がいるけれど、それはなかったです。せいぜい新潮文庫の小説くらいですね。
――その中で書く行為もされていましたか?
仲正昌樹氏: いや、本当に書くことを意識し始めたのは、院生になった29歳の時です。私の場合特殊で、新興宗教にいた時期に、新聞記者の仕事もやっていましたから、その時、「書く」経験は結構しましたが、論文を書く感覚とは違います。新聞の記事は、短く、印象に残るように書くことに重点を置きますが、論文は、厳密さ、論理的一貫性、先行研究に基づく裏づけなどを必要とします。
論文を書いて掲載する=「業績」をつくること
仲正昌樹氏: 論文とは、早熟な人を除いて、大学院生になる前に本当の論文を書いた経験がある人は少ないと思います。例えば試験で小論文がありますが、あれは本当の論文じゃない。卒論は、多くの人が書きますが、学術論文とは言えない。独自の学問的な知見を示すことまで求められるわけではなく、まとめ的なことを書けば、事足りるからです。精々、卒論しか書いたことない人間が、文学とか哲学とか社会学の院生になった瞬間から、「業績」になるような論文を書くことを意識することになります。
――業績ですか。
仲正昌樹氏: そう、「業績ですね。自分が研究者として認められるには「業績」っていうものがないといけないと認識させられる。それまでとは全く「書き方」が要求されていることが分かる。要するに専門家から認められるようなものを書かねばならないっていう感覚ですね。
――思ったことを思うままに書くというんではなく。
仲正昌樹氏: 専門家が認めてくれるような書き方をすることが必要なんです。しかも、私的に書くだけではダメです。「活字」にすることが肝心です。私の場合は新聞記者らしきこともしていましたが、新聞や雑誌の「活字」とは少々意味が違います。学問的権威ある学術雑誌に掲載されるという意味で、「活字」にしないといけない。その意味で活字にすることを「公刊」すると言います。「公刊」されたものが「業績」です。いわゆる同人誌だったら、公刊された業績とはみなされない。
――そうですね。
仲正昌樹氏: だから、実体は同人誌に近いものでも、ちゃんとした先生に審査員になってもらう。その前提として、院生だけでなく、先生も参加する研究会組織を作っておく必要がある。とにかく、「業績」を発表する場がないと、どうにもならない。それを強く意識するようになるんです。それがすごく大変なんですね。そこで色々みんな考え始めるんです。東大など大きな大学の一部の学科には、院生でも書ける公刊媒体を持っているところもある。伝統ある学科の雑誌だったら、かなりポイントは高いです。大きな本屋さんで市販されているものもあります。そこの学科・研究室を母体とする研究会が編集して、学術出版専門の出版社が発行元になるという形を取ります。市販されるくらいだから、形もある程度整っています。
新しく出来た大学院だと、そういう媒体がないので、院生は、修論を書いた後、どこに発表しようかと、いろいろ算段しないといけない。研究者として認められて就職出来るには、公刊論文が3本必要だって言われています。たくさん業績がある人もいるので、3本だけでは不安です。それをどこで書くか。まず自分の専門分野の学会に入って、そこの機関誌に投稿するっていうのがあります。しかし、機関誌は大抵年一回、多くて年二回しか発行されないので、競争率が高いし、一度書くとなかなか次の番が回ってこない。あと、自分の所属する大学の専攻課程に、先生がレフェリーになっている、雑誌があれば、それに載せてもらう。それで2本。
あと1本をどうするかって皆が考えます。自分のところの雑誌でも、2本連続は難しいことが多いし、そういう内輪で編集している雑誌は、あまりポイントが高くないと言われている。そこである程度人脈がある人だったら、総合雑誌とか、半学術雑誌扱いされることもある『思想』とか『現代思想』とかに書かせてもらおうとする。院生になったら、そういうことを考え始めるんです。逆に言うと、「公刊媒体」が確保されていないのに、そういうことを考えていないような人はやっていけません。
――そういったところから、書き手としての意識はスタートされているんですね。
仲正昌樹氏: そうですね。そこは、普通のライターさんと研究者と似ている部分だと思うんです。学術雑誌じゃなくて本屋で売る方がどちらかと言うとメインの思想系総合雑誌、に書くことを意識すると、フリーのライターやジャーナリストに近い感覚になるかもしれません。ただ、そういう媒体に書けるのは実際にはごく少数です。学術雑誌より狭き門です。
学者として世の中に発信することは、実は難しい
――仲正さんの場合も、どちらかと言うと世の中にこういった意見を問う、もしくは発信するお立場だと思われるんですけれども。
仲正昌樹氏: そんなつもりはあまりありません。偶に頼まれて、時事評論的なことを書くこともありますが、一応研究者だと思っているので、「世相を斬る!」的な発言は無闇にしないようにしています。といっても、むちゃくちゃ学術的に堅いものは、なかなか依頼されないです。だから、専門的なことを書いてくれと頼まれると、喜んで書きます。同業者的な人たちからは、仲正はいい加減なことばかり書いていると思われているかもしれませんが。一般論として、研究者がジャーナリストと同じような文章を書くことは、難しいと思います。大学院生が大変ですよね。ごく一部の人の話ですが、本格的な学術論文をまだあまり書いていないのに、メディアでの活動が多いと、学者とは認められにくくなると思います。分野や大学によっては、学術系でない媒体に書くと、先生から、「もうお前弟子じゃない」っていう的な扱いされることもあります。法学は割とその傾向が強いと聞きますね。
――そうなんですね。
仲正昌樹氏: いろんなことがあるので、学者でジャーナリスト的に書こうっていう人は、色々気をつかわないといけない。活動の場を、専門分野の外、アカデミズムの外に拡げるのが得なのか、損なのか。自分のところの先生とか先輩とかどう思うんだろうとかいろいろ考える人が多いと思います。
――学者としての目と世間一般の人気の目っていうのはまた別のものなんですね。
仲正昌樹氏: たまに週刊誌とか、大学教員をパロディー化した小説で書かれているほど、極端な迫害はないと思うんですけれど、助教、任期付きの講師とか、まだ立場の安定していない人が色物みたいな感じで目立ってしまうと、あとあと立ち位置が難しくなるかもしれませんね。
思っていないことは書かない、ありもしないことは書かないがポリシー
――仲正さんが書く時にこだわっているところはどういったところでしょうか?
仲正昌樹氏: 書く中身については妥協しないことにしていますね。タイトルや小見出しとかは売れないといけないでしょうからまあいい。段落の切り方とか、漢字のチョイス、カナとかも編集者に任せます。でも、議論の本筋では妥協しないようにしています。分かりやすく書いて欲しいという要望にはなるべく応えますが、分かりやすくすると、どうしても、本当は複雑に表現しないといけないことを、省略しないといけなくなる。これ以上は崩さないっていう最低ラインは保つようにしています。私も全く空気が読めないわけではないので、編集者や読者がこんな感じのことを書いてほしいんだろうなと感じる時はありますが、自分の元の考えと違うことは書きませんし、最低ライン以下の基準にまで単純化するつもりもありません。
――例えば編集者とのやり取りの中で、「こういう風にしてください」とか、そういったやり取りはあったりするんですか?
仲正昌樹氏: 「思ってないことは書かない」って普段から言っているから、そんなにひどいことを言って来る編集者はそれほどいないんだけど、たまに、「私はそれでいいと思うんでけど、編集部の中で意見が通らないので、どうにかなりませんか」とか言ってくる若手の編集者もいます。はっきり言って、そういうのは、その編集者が、ちゃんと仕事を任せてもらってない証拠です。そういう人を相手にしても、結局、何だかんだと文句を付けられて、ムダな仕事をさせられることになります。つい最近そういうイヤな目に遭いました。あと、誰それを批判するとまずいので穏便にして頂けませんか、と言われることも偶にあるので、最初の打ち合わせの段階で、そういうタブーの有無については確認することにしておきます。
人気よりも本質を大事にする
――昔からそういうかたちでお仕事されてこられたのですか?
仲正昌樹氏: そんなに意識しているわけでありません。もっと、有名人になっていたら、結構、カメレオンみたいな人間になっていたかもしれません。私自身は、それほど有名ではなりませんが、人気が出て、マスコミに引っ張りだこになるようなタイプの人っていうのは、いわゆる「自分がない」っていうか、他人の意見がそのまま自分の意見になるようなタイプの人ですね。政治家なんかに多い。学者は、基本的には他人の気持ちをくみ取るのが下手な人の方が多いんですが、たまにうまい人間がいるんですよ。そういう人が有名になる。他人の気持ちを自然に読んで、カメレオンみたいに変化する人だと思います。カメレオンは、意識して色を変えるんじゃなくて、外界の情報を感じて自然と変わるわけでしょう。カメレオンみたいに自然と変身しながらも、表現力が安高いので、最初からそういう意見を持っていたように見える人がオピニオンリーダーとかになりやすいんだでしょうね。
――いまお話をお伺いすると、必ずしもテレビやマスコミで騒がれている人が、その学問の道の第一人者というわけではないのですよね。
仲正昌樹氏: ないですね。ノーベル賞をとった山中先生みたいな人ってほんとに少ない。あの先生は、理系の学者なので、自分でアピールしなくても、研究成果が認められて、マスコミで認められることもあるけど、文系で、基礎的な研究だけやっていて、認められるなんてことはまずない。理系は、考え方の筋道はちんぷんかんぷんだけど、その結果がすごいことは、実験や実用化で、素人にも分かるということがありますが、文系の場合、プロセスが分からないけど結果だけすごいって分かるというようなことまずない。強いて言えば、心理学と考古学くらいでしょう。哲学とか文学は、結論だけみても一体何がすごいか分からないでしょう。
歴史学も基本的にはそうです。テレビの二時間ドラマでやっているような、大発見なんてほとんどない。ほとんどの歴史学者は、素人にはどこが重要なのか分からない、無名の人が書いた古文書を読んで、こじんまりした仮説を立てて、厳密に証明しようと躍起になっています、なぜすごいのかって、アピールしないと通じないですよね。だから、研究能力がすぎている人ではなくて、アピール力がある人が目立つ。物理学者や医学者のような訳にはいかない
――素人にはなかなか分かりにくい研究成果ですか。
仲正昌樹氏: 文系全部がそうですね。特に哲学や文学、言葉で表現されたものを言葉で解釈するから、言葉を越えて、何か目に見えるかたちで示せるものがほぼない。
――ある意味学者の方は、一般向けの顔、メディアとか出されたりっていう様なもう1つ違った側面の顔も必要だったりするんでしょうか?
仲正昌樹氏: そうだと思います。しかし、そういう両面性を持つことは難しいですね。メディアに出て、発言したいと思っている人は、そんなにいないと思います。ちょっとした好奇心で、メディアに出て注目される自分を想像するような人はいるでしょうが、真剣に考えている人はそんなにいないんじゃないかと思います。大変そうですから。私自身、特にPR活動のようなことをしないでも、何かものすごく難しいのを書いたら、どこかの出版社が必ず出してくれるっていう状態になっていたら、面倒くさいことはやらなくなるかもしれないですね。少なくとも、本は専門的な堅いものしか書かなくなると思います。
当然、一般読者は想定せず、強い関心がある人が読んで下さいというスタンスになる。人文学系の学者にとって最大のジレンマは本を出すことなんですよ。理系と全然違います。理系は本を出すことに全然価値を置いていません。海外の、ネイチャーだとか権威ある学術誌に査読付き論文を載せられるかどうかが問題です。理系の学術雑誌のほとんどは電子ジャーナル化しているので、掲載されることが重要です。あとになって、まとめて本にするかどうかはどうでもいい。理系も、教科書は本として出しますど、理系の人たちは教科書を書いている人が偉いとは必ずしも思っていない。文系では、教科書を書くのが偉いっていう感覚がまだそれなりに残っていますよ。
どんな本をどこから出すのがステータスなのか
――そうなると本を出すことは色々なジレンマがあるんですね。
仲正昌樹氏: そうですね。法学の場合は司法試験があるんで、憲法のスタンダードな教科書っていうのを書いたら、それが法科大学院の標準的な教科書として使われるし、それに基づいて司法試験の問題も出たりするから、それで権威になるわけです。法学の特に六法関係は、文系の中でも、かなり特殊な世界なんですが、その人の就いているポストと出せる本が連動してる感じが多少ありますね。
――連動ですか。
仲正昌樹氏: 例えば、旧帝大とか、それに準ずる神戸とか一橋の六法の先生だったら、その分野の標準の教科書を書いてもらおうかとかって感じになるらしいですが、格下の大学の先生だと、個人的には有名として教科書を出して売れるかどうか微妙です。本を出すっていうのが、学者としてのステータスになっている。最近だと、公募に応募する時に、業績として単著の本を送る人も少なくないです。無論、審査する人は、中身をちゃんと見るので、形だけ本でも、中身は素人レベルで、自費出版専門の非学術系出版社ということになると、相手にされないと思いますですが、それでもやはり本を書いていると、インパクトがありますよね。
――ステータスの1つ。
仲正昌樹氏: どこがステータスが高い出版社かって相場もありますね。哲学系だったら、岩波書店とか勁草書房とかがステータスが高いことになっています。法学だったら、有斐閣とか。一応学術系でもちっちゃい出版社からの自費出版だったら、ぐっと価値が下がります。
いまは本を出すのも専門書は大変な時代である
仲正昌樹氏: 本を出したいっていう欲求は、多くの学者が持っている。学者として認められたいっていう欲求と、本は出すことが結び付いている。でも、いまの出版社は露骨に金のことを気にするから、知名度がないと、版元探しからやらないといけない。法経の権威があるポストの人はいいとして、ほとんどの人は苦労します。東大でも、駒場とかのあまり有名でない先生だったら、苦労すると思います。「先生、前に本を出されたことありますか。何冊売れますか?」って、聞かれるんじゃないかと思います。金沢大レベルの先生が、コネのない状態から、いろんな出版社を回ったら、ひどく失礼な扱いを受けて、出版社に対する不信感を募らせることになると思います。
――そうなんですね。いまは著書を出すっていうことの価値観の変化があるんでしょうか?
仲正昌樹氏: そうだと思います。若い内から、本を書かないと行けないという雰囲気になっている。出版業界の変化と、人文系の学者の世界の変化が連動して起こってる現象です。人文系の学者のポストが減っているのに院生の数が増えてあふれてきたから、論文3本じゃもう足りないって、感じになっている。同じ様な業績の人が多いから、特別なアピールポイントが欲しい。やたらにたくさん書くか、分野を広げるか、本にするか。本にできればいいんだけど、そのための努力がむちゃくちゃ大変なんです。場合によっては、自分である程度お金を出してとか、買い取り条件付きで引き受けてもらいとかいうことになる。
――名目上は自費出版ではなく、商業出版で出すけれども買い取ってくれということになるんですね。
仲正昌樹氏: そういうの、多いですよ。私も時々、出版社に若手の人を紹介しているんですけれど、その人の将来性とか、売れるかどうかを出版社が見極めて、条件をつけるんです。ちゃんと見極めているかどうか分かりませんが。私のような中途半端に名前だけ知られている人間ではなく、無条件にすごく偉い先生が、「これは私が育てた中で1番優秀な弟子だ」と言って、それで出版社が納得してくれて本を出すというのがベストです。ただそんな幸運なケースはほとんどないから、どうやって、コネを作ろうかと考える。出版社と仲良くしないといけない、ということになる。
若手と出版社をつなぐことも大事なことの1つ
――本分の「研究」じゃないところでも気を遣わないといけないんですね。
仲正昌樹氏: そう。若手は間違いなく気を遣ってますよね。学会のあとの懇親会に出席して、挨拶回りするとか。懇親会って大抵6000円くらいは会費を取られます。出席して、現役で力のありそうな人たちに挨拶をして回ったり、論文集を出す仕事があったら仕事を回してくださいとかお願いするんです。
――そういうことをしないといけないんですね。
仲正昌樹氏: ほんと大変ですよ。書かせてもらう機会がとにかく欲しいっていう若手はたくさんいます。私も、面倒なんだけど、親しい人には多少の協力はしています。大したことできません。書く場所を提供してあげるくらいはできますから。無論、誰でもいいから世話しているんではなくて、既にちゃんとした論文を書いたことはあるのかくらいは確認しますが。出版社との関係を取り持つとかも時々やっています。なるべく買い取りとか条件付けさせないようにしますが、実際は条件が付くことが多いです。本当は、東大、京大や、早慶教授とかがやるべきことだと思いまです。ただ、いまはかなり大きな大学の先生でも、出版社にツテがある人が少なくなっています。不況で人文系の出版社が委縮しているということもあるんでしょう。昔だったら向こうから、「先生是非ともうちから…」とか懇願されていたような、有名大学の権威あるポストに就いている先生でも、出版社に積極的に働きかけることが難しくなっています。
編集者が学者を見つけてくれることが理想
――そんな中で、仲正さんの理想と言いますか、出版社、編集者っていうのはこういう風にあってほしいなという希望はございますか?
仲正昌樹氏: お金のことを一切考えないで書かしてくれるのが、理想です。70年代、80年代の、朝日新聞、岩波書店がまだ権威を持っていた時代に戻ればいいのかな――本当にそれくらいの時代に戻ったら、私は岩波にコネがないので、損をするかもしれませんが。要は研究者の方が、お金のこととかコネとか心配しなくても、向こうが勝手に見つけてくれるっていうのが理想です。いまは向こうに勝手に見つけてもらえるっていう話はほぼないと思います。
――要はこっちから売り出していかないといけない。
仲正昌樹氏: 昔は、出版社の編集者が大学の紀要を見て、「この人面白いな」と思って、依頼してきたとか利きます。いまどき、紀要を見る編集者なんて、ほとんどいない。確かに紀要って手に入りづらい。大学に行かないと見ることができないことが多い。手間はかかるけど、丹念に紀要や学会誌、研究会報とかを見て「この人は将来面白くなるだろうな」って発見してくれる人がいたら、ありがたい。そういうことがすごく少なくなっているんです。そういうことをちゃんとやるには、編集者の判断力が重要になるでしょうね。本としてある程度売れないといけないから、そこは見極めないといけない。この人は学者としてすごいだけでなく、思想系のジャーナリズムの世界に入ってもやっていける、というような判断をしないといけない。そういうプロの編集者がいないとうまくいかない。だから、院生や定職に就いていない若手が色々気を遣わないといけないんです。自費出版や買い取り条件に備えて、お金をためておかないといけない。
――そういったことまで考えないといけないですね。
仲正昌樹氏: まず編集者とどうやって付き合うかを考えないといけない。編集者が若手の研究者と会うための会合みたいなのを主催しているわけじゃないから。大抵はシンポジウムとか、大物の講演会に編集者がくっついて来て、そこに若手が加わって話をするとか。そういうことをやろうと思ったら、どの先生が編集者としょっちゅう会っているのか考えて、自然なかたちでその中に入っていけるように計算して動かないといけないですね。そういうことを考え始めると、もうそういったことばっかり考えることになる。お金とコネに関して、余計な力を使っている気がします。
電子出版は学術界にどんな影響を与えるか
――コストという意味で、電子書籍の可能性っていうのはどうお考えですか?
仲正昌樹氏: それについては、いろんなところで話題になりますね。知り合いの研究者とよくその話をします。難しいのは、自費出版の電子書籍と、どうやって違いを出せるのかっていう問題ですね。
――差別化をどう図るのか。
仲正昌樹氏: 自費出版と同じだと見られたら、おしまいですよ。下手すると、ブログで発表してるのと同じレベルと見なされる。実際、ブログでひどく幼稚なことばかり書いて、相手にされなくなっている学者もいます。それが、人文系の学者にとっては最大の課題かもしれません。ブログで書いている文章って、偉い先生が書いているものでも、ひどいのが多い。ブログっていうのはあとで書き直せるし、金がかからないから、適当になるんですね。論敵に怒っている時なんか、勢いで書くから、雑になりやすい。電子書籍化する時に、普通の人が自費出版でやっているものや、ブログ論文とどう違うのかが問題になる。無論、よく考えみると、従来の学術書でも、編集者と校正者が表現をチェックしているだけで、他の学者が中身をチェックしているわけじゃないので、中身の品質は必ずしも保障されていませんでしたが、一応、有名な先生たちが専門書を出している権威ある学術出版から出しているという体裁を取ることができた。電子書籍化で、その体裁がなし崩し的に崩壊する恐れがある。そこをどうやってクリアするか。クリアするシステムができればいいと思います。そのためには新しい回路が必要になる。
変な話ですが、岩波書店とかが権威を独占していた時代であれば、岩波に持っていく前に紹介者の先生がいるはずだし、岩波の編集者はそれなりに目が肥えていて、岩波の読者は専門書を読む知的エリートであるという前提というか、共同幻想があった。その岩波から注文が来るっていうことは、アカデミックな世界で認められているという証明に何となくなっていた。現在では、岩波であれどこであれ、編集者の適当な勘でやっているだけだということが分かってきたので、あまり権威はありませんが。紙で出すことは、実際には金が掛かるだけで、そんなに意味はないのかもしれない。
ただこれから研究者になろういう人とっては、嘘でもいいから何か権威が必要なわけですね。「これ、私の業績です」っていう風に何をもって言うのかということです。「この人のためだったらリスクをかぶってもいい」と腹をくくって、思いきって、学術書を出してる出版社はありがたかったわけです。売れないかもしれないけれど、この人のやっていることは大事そうだからリスクをかぶってもいいという人がいるからこそ、この本がある。そういう感覚が大事なんです。全くリスクがない状態で安易に出すと、本当にブログや、一般の人の自費出版と同じになってしまう。
――差っていうのはそういったところにあるんですね。
電子出版を安易にせず、コンテンツ制作には手をかけるべきだ
仲正昌樹氏: そうですね。編集作業など、本を作る面倒くささ自体は残っていないといけないと思います。実際、注とかルビとか、図版、表がたくさん付いている本は、結構面倒くさいと思います。西洋の言葉を引用する時の分綴とか、アクセント記号なんかも、知っていないといけない。オペレーターは面倒なんだろうなって、思うことがあります。学術書には、エッセイ的な本よりも面倒だと思います。ゲラをやり取りしていると、その違いを感じます。
――電子書籍が、そういう意味で使われるようになれば、そこに権威が登場するんですね。
仲正昌樹氏: 電子媒体の雑誌にもレフェリーって言われている審査員がちゃんと付いています。学者側から見れば、レフェリーがいれば、紙か電子はあまり大きな違いではない。ただし、レフェリーが入ると、面倒くささはあまり減らないでしょう。出版社にとってもリスクゼロっていうのはまずいんじゃないでしょうか。電子になったおかげである程度コストは抑えられているんだけど、しかしそれなりにリスクを引き受けているっていうことが外から見えないと、安っぽい感じになりますね。そのギリギリのかたちを考える必要があります。簡便さを追求し過ぎていて、権威と手間暇を掛けてやっているって部分が無くなっちゃうと元も子もない。1番肝心なところはちゃんと手間とお金を掛けているというところを見せてほしいですね。
もう一度学術的な大著を執筆したい
――最後に、今後の執筆予定についてお聞かせください。
仲正昌樹氏: カール・シュミットについて連続講義をしたのをテープ起こししてもらって、それに手を入れています。作品社から出す予定です。あと、春秋社から出る予定の、ロールズに関する入門書を1冊書いています。将来の話として、学術的な大著を出したいなと思っています。つい最近、10何年前に一度刊行博士論文を、その時に省略していた部分とかを復活させて、出し直したんですけど、もう1回は、同じくらい本格的なものを書きたいな、と思っています。どのテーマに絞ったらいいのかを、いま考えているところです。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 仲正昌樹 』