成長したいなら、「甘えん坊」になることを畏れない
角川総一さんは、債券に関する専門で活動後、独立。日本初の投資信託のデータベースを構築する等、金融商品に関する有用な情報を提供しています。また、作家・金融評論家として、マクロ経済や金融商品の動向等幅広いテーマを、一次データを縦横に駆使して解説する言論活動を展開しています。角川さんに、波乱万丈のキャリアについて存分に語っていただき、また電子によるデータ管理の有用性等についても伺いました。
バイオリン片手に、やりたい仕事をする
――会社経営、調査研究や執筆、講演等とお忙しそうですね。
角川総一氏: 最近は時間との競争の中でやって行かざるを得ないような仕事じゃなくて、もうちょっとロングタームでできるような仕事が増えてきました。自分自身の中から自発的にわいてきた、やってみたいと思うようなテーマがいくつかあるのだけど、それが今やっと手に着くような時期になって、ある意味では今の景気の低迷というのは喜びかと思ったりするんだけどね(笑)。僕はもちろんフリーで仕事はしてきたんだけれども、依頼仕事が多かったから、それがどんどん、自分が意図せざる状況で変わってきたというのは結果的にいいんじゃないかという気がします。でも、僕にとって一番やりたいことは楽器を演奏することなんですけれどね(笑)。
――どういった楽器を演奏されるんですか?
角川総一氏: バイオリンとチェロですね。バイオリンはね、幼稚園の時から気が付いたらやっていたんです。おやじが音楽好きで、本当は音楽関係の仕事をしたかったんだけれどもできなくて、公務員になりました。だから夢を僕に賭けたのかな。地方に講演で2、3日行くと、とにかく楽器に触りたくてしょうがなくなる。だから最近はカバンを持って行かずにバイオリンのケースの中に少量の書類を入れて持って行く。本当はチェロを持って行きたいんだけど、ちょっと持って行けないからね。
――講演の主催者の方も、バイオリンを見て驚かれるんじゃないですか?
角川総一氏: 「ちょっと変わったおっさんやな」って言いますね。
劣等感、家出…、京大合格までの紆余曲折
――経済やマーケット状況を分析されている角川さんですが、大学は文学部だそうですね。
角川総一氏: とりあえずモラトリアムで大学に行った方が働かなくてもいいなと。とにかく数II Aだか数II Bだかの最初のところでもう転んでしまっているから、理系は全部ダメ。かといって法律だったら、分厚いものを努力の塊になってやらなければいけない。これはたまらんなと。さらに経済は数字を使うからこれもダメ。消していったら文学しか残らない。文学作品を読んでいるかというと、せいぜい太宰治だとかその辺を読んでいただけ。でも文学、哲学、美学だとかに雰囲気的にあこがれていたんですね。要するに世の中で一番貴い学問は実学じゃなくて哲学だと。役に立たないようなのが一番貴いものであるという、青年特有の青さの中にいて、気が付いたら文学部に入っていたという感じですね。小学校、中学校の時は何の努力もしなくて、まあ何となく北野高校に入ったけれど、北野高校ってみんな頭いいやつばっかりで、急激に劣等意識が出ましたね。ラグビー部に入って勉強しなかったから、成績は550人のうち、3年の最初ぐらいまでは真ん中より下でした。
――そこから、京都大学に合格されるわけですよね。どのような勉強をされたのでしょうか?
角川総一氏: その前に、僕もう大学に行くつもりはなくて、学校が嫌になって、高校3年の夏休みに家出したんです。「東京で文学修業するんだ」って、参考書を全部難波の天牛書店という古書店に売り払った。僕の場合、本を読む時には必ずボールペンを持って、書き入れながら読んでいくから、全然読んでないような参考書しか売れなかったけど、あの当時は今に比べてやっぱり中古本って高く売れたんですね。それで東京に行った。昭和42年、日本の経済が最高潮の時。まあ給料が年に10パーセント頑張らなくても上がった時代でしたね。でも僕は世間知らずだったんですね。。住所も身元引受人も何もなくても住み込みで働けると思っていたわけです。でも大阪弁でしゃべる、青っちょろいのがいきなり来ても雇ってくれるところなんかない。あちこち電話をして全部断られた。しょうがないから2、3日して帰ったら、おやじが「アホか、お前。とにかくこの3か月、4か月、死んだ気になって勉強しろ。それから文句言え」と言われて、そりゃそうやなと思って、それから生涯で一番勉強したんじゃないのかな。そうしたら一気に学校での順位が60番か70番ぐらいになりました。その位になると京大は大体、当確になる。その頃北野高校からの合格者は、東大が2、30人ぐらいで、100人ぐらいは京大。100人から120、130人が阪大や神大。あとは同志社だとか、立命館、関西学院だとかに入るわけです。550人のうちの東大と京大と阪大、神大で約半分ですね。それで、自分は京大に入ったわけです。
京都最後の「夜のバイオリン弾き」
―― 大学時代はどのような生活をされていましたか?
角川総一氏: とにかくおやじがけむたかったから、京都に下宿して、おやじに「とにかく入学金と授業料だけは払ってくれ。あとは全部自分でやるから、一切仕送り要らん」とタンカを切った。ただ、僕は1か月もしないうちに学校は全く行かなくなってしまいましたね。
――生活費を稼ぐためにどのような仕事をされたのですか?
角川総一氏: 新聞配達、牛乳配達、工員、家庭教師もしました。一番長かったのが、2年半ぐらいやっていた夜、ダンスホールのタンゴバンドでバイオリンを弾くアルバイトですね。大学には5年半いたけど、これじゃどうしようもないというので中退して、何か仕事をしなきゃいかんと、東京に来たんですね。
――東京ではまずどのようなお仕事をされたのでしょうか?
角川総一氏: 最初のスタートは材木の卸問屋の力仕事でしたね。その仕事と新聞配達をダブルでやっていたけれど、仕事をするなら、とにかくどんなに小さいところでもいいから出版社だとか、業界紙だとか、インクのにおい、活字のにおいがするような仕事をしたいなという風な感覚が漠然とあったんです。
著書一覧『 角川総一 』