ノンフィクションが何なのか、今もよくわからない
――作家になるために特別な練習、文章修業のようなことはされていましたか?
石井光太氏: 高校生の時から書く仕事に就くんだというのは持っていましたから、大学入ってからは1日3冊本を読んで、1週間に一編、小説を模写していました。例えばモーツアルトを弾いたことのない作曲家がいるわけがないじゃないですか。それだったら川端康成を書き写したことのない作家もいるわけはない、と単純な発想で。1日3冊というのも、ある作家が「1年間で1000冊読まなければ作家になる資格なんてない」って言っていたんです。しかも「それで苦節10年やって、なんとなるかならないか」と言ったんですね。でも僕は「苦節10年」はいやだったんですよ(笑)。3年間ぐらいで世に出たかったんです。できれば大学在籍中にデビューしたかったんですね。まあ、できなかったですけれど、でもやるしかないじゃないですか。としたならば、1日3冊くらい読むしかない。海外に行く時にはもちろんできませんけれど、海外に行かない時にはずっとそれをやっていました。
――大学を卒業されてから、出版や雑誌編集などのお仕事をするお考えはありませんでしたか?
石井光太氏: 就職という考え方は全くなかったんです。なぜかというと、自分にとって「これだ!これをやれば絶対に成功する!」というテーマが見つかっていたので。就職をすることが遠回りだったのです。ただ、就職したことがないので「ジャーナリズムとは何ぞや」的なことを刷り込まれずに済んだ気はします。一度その価値観にどっぷりと浸ってしまうと、いい意味でもわるい意味でも、そこから抜け出ることはなかなか難しいですからね。もちろん、それがあるところでは弱点となることもありますが、僕自身はこれでよかったのかな、と思っています。
殺人者にもそこに至るまでの必然性がある
――石井さんのノンフィクションがほかの作家の方々と異なっている点はどのようなことにあると思いますか?
石井光太氏: 自分がルポする時、一番引かれたのはジャーナリズム的な取材方法ではなくて、民俗学のフィールドワークだったんです。ジャーナリズムのやり方は、取材に行って距離を置きながら質問をして、客観性という建前の下に結論を出すということだと思うのですが、僕は一緒に暮らして、そこから習慣だとか伝統、ドラマというのをあぶりだすという方法。それは民俗学とか人類学、あるいは写真家の人たちの方法じゃないですか。僕はそっちに魅力を感じたんですね。だからジャーナリズムをやろうという意識は、今でもないんですよね。そもそもジャーナリズムの方法論って僕は勉強したことがないですから。とはいえ、そういう形でつくったものを「新しいもの」ととるのか、「素人の作品」ととるのかは、人それぞれだと思います。ただ、僕の判断基準は一般読者。一般の読者が「おもしろい」「すごい」「感動した」というものをつくるにはどうすればいいかということしか考えていません。ジャーナリズムをやろう、ではなく、読者の心を動かすにはどうすればいいか、が常に先決にあるのです。
――文体も独特なものですね。
石井光太氏: 僕の場合、文章表現方法はいわゆるルポルタージュっぽくない小説っぽい書き方をしますけども、ドラマを伝えたいからなんです。どうすれば一番ドラマを伝えられるかということを考えると、描写でしか描くことができないと思います。一つのドラマによって人の心を内部から揺り動かしていきたい。たとえば、『遺体』という本であれば、東日本大震災によって設置された遺体安置所に勤める千葉さんという管理人が、続々と運ばれてくる遺体に声をかけてその尊厳を守りつづける。「火葬の順番がきて良かったね」なんて言ってあげるわけです。その声がとても温かく、遺族や働いている人たちの心に響いていく。こういう言葉の尊さは描写でしかつたわらないものです。もし論にしてしまったら「老人が遺体に声をかけることによって尊厳を守ったのである」という無機質なものになってしまう。僕はそれではだめだと思うんですよ。なぜドラマが必要かと言われれば、人間の美しさはそれによってもっとも描ききることができるからです。
頭の中にいつも、スナイパーがいる
――どのように感じるかを読者に委ねるということですね。
石井光太氏: 僕は参考文献じゃなくてプライベートで本を読む場合、本に2つ求めることがあるんです。1つが感動したいっていうこと。もう1つが魂に火をつけられたいってこと。これを与えてくれる本は名著だと思っています。でも「ここで泣いてください」って書かれて感動するわけない。それに「こうやりなさい」って言ったってやらないじゃないですか。例えば、スポーツで優勝したシーンは、もう説明じゃない、ひたすら描写ですよね。だからこそ感動する。そしてプロ野球選手になりたいという意思が芽生える。そういうことが大切なんです。それを本という媒体を通してつたえたいんです。
――取材対象に感情移入することもあるのではないかと思いますが、描写することとバランスを取ることはできますか?
石井光太氏: 自分とは別に「作り手」がいますよ。頭の中に、常に幽体離脱している人間がいて、もう一人の自分がいろんな角度から見ている。どれがベストなポジションかって、デューク東郷みたいなやつが狙っているわけですよ(笑)。自分はその場で泣いたり笑ったりしているけれども、とても冷静な自分が観察していて、彼が文章を書いているという感じです。
電子書籍で絶版がなくなることに期待するが…
――取材で移動されることが多いと思いますが、電子書籍などは利用されていますか?
石井光太氏: この間、SONYの人にインタビューを受けた時に、リーダーをもらいましたよ。でも読んでないですねえ(笑)。ダウンロードしたんですけど、読んでないんですね。
――手元にありながら読むまでに至らない理由はどういったところにあるのでしょうか?
石井光太氏: 正直読みづらいんですね。ずっと紙の本を読んできたので、単純に慣れていないということだと思います。始めは新聞とか雑誌が電子で読めればいいと思ったんですが、ダメなんですよね。若い人はそうじゃないと思いますけど、僕自身はやっぱり本の方が読みやすい。それになかなかそこまでのメリットが感じられないんです。軽くなるっていったって、別に文庫本を持っていけばいいですし、満員電車でも読めるといっても、そもそも満員電車に乗らないし(笑)。そういうふうに考えた時に、僕にとってはあまりメリットがないんですね。
――電子書籍に期待できることがあるとするとどういったところでしょう?
石井光太氏: 絶版を気にしなくていいというのはありますね。絶版は、悲惨です。子どもが死んだみたいな感じですよね。ただ、電子書籍って売れてないじゃないですか。僕も1回、いろいろな実験をしてみようと思って、『神の捨てた裸体』という本を電子にして、新潮社の人間に頼んで1冊の本を5冊に分けて、1冊100円か120円にして、しかも写真を10枚ぐらいわざわざ付けて、ということをやってみたんですよ。でも何の反響もないんですね。絶版にならないで残るということはいいことかもしれないんですけど、反響がないんじゃつまらないですよね。ただ今の書き手の感覚としては、新潮社みたいに出版した本は全部電子化するというところで出したいです。僕は電子書籍ではあまり読みませんが、それでしか読みたくないという人もいるわけで、そういう人にはちゃんと扉を開いておくべきだと思います。
著書一覧『 石井光太 』