石井光太

Profile

1977年生まれ。東京都出身。日本大学芸術学部文藝学科卒業。『物乞う仏陀』『神の棄てた裸体』『レンタルチャイルド』『飢餓浄土』などの海外ルポを初めとして、国内外の文化、歴史、医療についての文章を多数執筆。また、本や映画などについてのコラムや批評も手掛ける。執筆以外では、TVドキュメンタリの製作、写真活動、漫画やラジオ番組のシナリオなども手掛けている。東日本大震災後、遺体安置所にはりついて書き上げた『遺体』、国内HIV感染者たちの抱える葛藤を見つめた『感染宣告』など、人の生と死のすがたを追いつづける。絵本『おかえり、またあえたね』ほか著作多数。近著に『津波の墓標』(徳間書店)がある。

Book Information

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いい、悪いではない。「美しい」ドラマを描き出したい



石井光太さんは、国内外を幅広く取材し、様々な境遇にある人々の実相を描くノンフィクション作家です。いわゆる「ジャーナリズム」には興味がないと語る石井さんのノンフィクション観を、作家を志したきっかけなどから探りました。また、電子書籍についてのお考えをお聞きするうち、出版業界、ノンフィクションのジャンルを盛り上げる「使命感」についても伺うことができました。

映像よりもリアルな文章の世界に引かれた


――早速ですが、最近のお仕事について伺えますか?


石井光太氏: 今は『新潮45』で日本の浮浪児の連載をやっています。戦後に戦災孤児が上野の地下道に集まって、彼らがどうやって暮らして、どうやって60数年間を生き抜いてきたのかというルポルタージュをやっています。あとは東日本大震災での釜石市の遺体安置所について書いた『遺体』ですね。遺族が約2年間を経て今どうしているのかという話を書いて、その映画化もあります。事件取材では、この間の尼崎事件のルポルタージュを『週刊ポスト』でやったり、あるいは海外で麻薬を運んで死刑判決を受けた竹内真理子という女の子のルポをやったり、そのほかもろもろという感じです。

――精力的な執筆活動をされる石井さんですが、子どものころから作家を目指していたのですか?


石井光太氏: おやじがクリエイティブの仕事をしていたので、「クリエーターは素晴らしい」みたいな感じの雰囲気があったんです。だから「ちゃんとしたサラリーマンになれ」みたいな空気はまったくなかった。むしろ「サラリーマンより、クリエイターの方がいいぞ」的な感じがあったし、うちの母ちゃんも、映画とか本に関してはいくらでも金をくれたけれど、それ以外はほとんどくれないし、ゲームやったりしてたら馬鹿にされる。そうなるとプレッシャーもあるじゃないですか。今考えてみると非常にいい環境だったなと思いますけれども。

――そのような環境で成長して、早くから文章という表現に注目されたのでしょうか?


石井光太氏: 興味があったのが映画か本だったんですが、映画というのは集団でやることなので、自分が思ったようにできるものじゃないじゃないですか。予算もあるし、意見も挟まれるし。本というのは自分のやりたいままでやれますよね。それと、中学生ぐらいの時に谷崎潤一郎の『春琴抄』を読んだ時に、佐助が自分の目を針で刺すシーンがあって、それを読んだ時に映像よりも生々しいと思ったんですよ。映像よりもリアルを伝えられる文章の世界に非常に興味を持って、文章の方に行きたいと思ったんですね。大学も日本大学の藝術学部文芸学科に入りました。それで、大学1年生の時に海外旅行へ行ったんですね。その行き先というのがパキスタンとアフガニスタンだったんです。

――なぜパキスタンとアフガニスタンだったんでしょうか?


石井光太氏: おやじがイギリスで舞台美術の勉強をして、ヨーロッパなどで講演なんかもしていたので、そっちはいやだった。そもそも僕は反抗的なんですよ(笑)。一方、弟はずっとアメリカに留学していたので、アメリカもいやだった。おじは南米の卸の会社をやっているので南米もいやだった。そうなってくるともうアジア方面しかないですよね。で、仲の良い友達が、同じ休みでインドに行くと言っていたんです。じゃあ俺はもっとすごいところに行ってやろうと思って、地図を見たら、インドの上にパキスタンって書いてあって、それでパキスタンに行くことにしたんですね。もう、すごろく状態ですね。

戦地の人たちにも『素』の私生活がある


――カシミール紛争や内戦等が激しい時期だったと思いますが、そのような状況を取材するという目的はなかったのでしょうか?


石井光太氏: 全然考えてないんですよね。世の中の貧困を見るとかいうことでもなくて、ただ、すごいところに行こうという、本当にそれだけ。今でもそうなんですよ。ほかの作家の方はみんなちゃんと何かポリシーを持っていますよね。僕はどちらかというと、ドラマを見たい、美しいものを見たいっていうだけなんです。極端な言い方をしちゃえばジャーナリズムに興味があるわけでもないし、政府を糾弾して何とかをするというつもりもない。人間の美しさをみたい。そのためなら別に行き先はどこでもいいんですね。

――旅行中は危険な目に遭うということはなかったのでしょうか?


石井光太氏: 当時は大学一年で英語がほとんどしゃべれなかったので、適当に「イエス、イエス」って言うしかないじゃないですか。そうしたらパキスタンで、近づいてきた怖いオッサンたちにどんどん周りを取り囲まれるので、「ああ、もう俺は終わった、日本に帰れないや。グッバイマザー」って感じでした。

――「イエス、イエス」を言い続けた結果、どこにたどり着いたんですか(笑)。


石井光太氏: アフガニスタンにたどり着いたんですよ(笑)。で、そこでは戦争をやっていました。そうすると、戦争の被害者がいっぱいいるわけじゃないですか。地雷で手足を失ったり、銃で撃たれて頭半分欠けたりしている人が、物ごいをやっていたりするんです。それを見た時に、いろんな意味で足元を揺り動かされるような気持ちになったわけです。今まで自分が生まれ育ってきて、当たり前の世界だと思っていたものが全然違う。その時に、その人たちのルポルタージュをやりたいと思ったんですね。しかも、その人たちのもっと素の私生活を極限まで追ってみたい。つまり、例えば貧困うんぬんの話になってくると、どうしても「かわいそうな、だけど笑顔の子どもたち」みたいになるじゃないですか。だけど、見ていると彼らにも家族がいるわけです。家族がいるということは、結婚してセックスして、子どもを産んでいるわけですよね。あたりまえの日常としてのドラマがあるはずなねす。ではその「路上のドラマ」を描くことはとても意味のあることではないか。そこから見えてくる真実ってあるんじゃないかと思ったんですね。

ノンフィクションが何なのか、今もよくわからない


――作家になるために特別な練習、文章修業のようなことはされていましたか?


石井光太氏: 高校生の時から書く仕事に就くんだというのは持っていましたから、大学入ってからは1日3冊本を読んで、1週間に一編、小説を模写していました。例えばモーツアルトを弾いたことのない作曲家がいるわけがないじゃないですか。それだったら川端康成を書き写したことのない作家もいるわけはない、と単純な発想で。1日3冊というのも、ある作家が「1年間で1000冊読まなければ作家になる資格なんてない」って言っていたんです。しかも「それで苦節10年やって、なんとなるかならないか」と言ったんですね。でも僕は「苦節10年」はいやだったんですよ(笑)。3年間ぐらいで世に出たかったんです。できれば大学在籍中にデビューしたかったんですね。まあ、できなかったですけれど、でもやるしかないじゃないですか。としたならば、1日3冊くらい読むしかない。海外に行く時にはもちろんできませんけれど、海外に行かない時にはずっとそれをやっていました。

――大学を卒業されてから、出版や雑誌編集などのお仕事をするお考えはありませんでしたか?


石井光太氏: 就職という考え方は全くなかったんです。なぜかというと、自分にとって「これだ!これをやれば絶対に成功する!」というテーマが見つかっていたので。就職をすることが遠回りだったのです。ただ、就職したことがないので「ジャーナリズムとは何ぞや」的なことを刷り込まれずに済んだ気はします。一度その価値観にどっぷりと浸ってしまうと、いい意味でもわるい意味でも、そこから抜け出ることはなかなか難しいですからね。もちろん、それがあるところでは弱点となることもありますが、僕自身はこれでよかったのかな、と思っています。

殺人者にもそこに至るまでの必然性がある


――石井さんのノンフィクションがほかの作家の方々と異なっている点はどのようなことにあると思いますか?


石井光太氏: 自分がルポする時、一番引かれたのはジャーナリズム的な取材方法ではなくて、民俗学のフィールドワークだったんです。ジャーナリズムのやり方は、取材に行って距離を置きながら質問をして、客観性という建前の下に結論を出すということだと思うのですが、僕は一緒に暮らして、そこから習慣だとか伝統、ドラマというのをあぶりだすという方法。それは民俗学とか人類学、あるいは写真家の人たちの方法じゃないですか。僕はそっちに魅力を感じたんですね。だからジャーナリズムをやろうという意識は、今でもないんですよね。そもそもジャーナリズムの方法論って僕は勉強したことがないですから。とはいえ、そういう形でつくったものを「新しいもの」ととるのか、「素人の作品」ととるのかは、人それぞれだと思います。ただ、僕の判断基準は一般読者。一般の読者が「おもしろい」「すごい」「感動した」というものをつくるにはどうすればいいかということしか考えていません。ジャーナリズムをやろう、ではなく、読者の心を動かすにはどうすればいいか、が常に先決にあるのです。

――文体も独特なものですね。


石井光太氏: 僕の場合、文章表現方法はいわゆるルポルタージュっぽくない小説っぽい書き方をしますけども、ドラマを伝えたいからなんです。どうすれば一番ドラマを伝えられるかということを考えると、描写でしか描くことができないと思います。一つのドラマによって人の心を内部から揺り動かしていきたい。たとえば、『遺体』という本であれば、東日本大震災によって設置された遺体安置所に勤める千葉さんという管理人が、続々と運ばれてくる遺体に声をかけてその尊厳を守りつづける。「火葬の順番がきて良かったね」なんて言ってあげるわけです。その声がとても温かく、遺族や働いている人たちの心に響いていく。こういう言葉の尊さは描写でしかつたわらないものです。もし論にしてしまったら「老人が遺体に声をかけることによって尊厳を守ったのである」という無機質なものになってしまう。僕はそれではだめだと思うんですよ。なぜドラマが必要かと言われれば、人間の美しさはそれによってもっとも描ききることができるからです。

頭の中にいつも、スナイパーがいる


――どのように感じるかを読者に委ねるということですね。


石井光太氏: 僕は参考文献じゃなくてプライベートで本を読む場合、本に2つ求めることがあるんです。1つが感動したいっていうこと。もう1つが魂に火をつけられたいってこと。これを与えてくれる本は名著だと思っています。でも「ここで泣いてください」って書かれて感動するわけない。それに「こうやりなさい」って言ったってやらないじゃないですか。例えば、スポーツで優勝したシーンは、もう説明じゃない、ひたすら描写ですよね。だからこそ感動する。そしてプロ野球選手になりたいという意思が芽生える。そういうことが大切なんです。それを本という媒体を通してつたえたいんです。

――取材対象に感情移入することもあるのではないかと思いますが、描写することとバランスを取ることはできますか?


石井光太氏: 自分とは別に「作り手」がいますよ。頭の中に、常に幽体離脱している人間がいて、もう一人の自分がいろんな角度から見ている。どれがベストなポジションかって、デューク東郷みたいなやつが狙っているわけですよ(笑)。自分はその場で泣いたり笑ったりしているけれども、とても冷静な自分が観察していて、彼が文章を書いているという感じです。

電子書籍で絶版がなくなることに期待するが…


――取材で移動されることが多いと思いますが、電子書籍などは利用されていますか?


石井光太氏: この間、SONYの人にインタビューを受けた時に、リーダーをもらいましたよ。でも読んでないですねえ(笑)。ダウンロードしたんですけど、読んでないんですね。

――手元にありながら読むまでに至らない理由はどういったところにあるのでしょうか?


石井光太氏: 正直読みづらいんですね。ずっと紙の本を読んできたので、単純に慣れていないということだと思います。始めは新聞とか雑誌が電子で読めればいいと思ったんですが、ダメなんですよね。若い人はそうじゃないと思いますけど、僕自身はやっぱり本の方が読みやすい。それになかなかそこまでのメリットが感じられないんです。軽くなるっていったって、別に文庫本を持っていけばいいですし、満員電車でも読めるといっても、そもそも満員電車に乗らないし(笑)。そういうふうに考えた時に、僕にとってはあまりメリットがないんですね。

――電子書籍に期待できることがあるとするとどういったところでしょう?


石井光太氏: 絶版を気にしなくていいというのはありますね。絶版は、悲惨です。子どもが死んだみたいな感じですよね。ただ、電子書籍って売れてないじゃないですか。僕も1回、いろいろな実験をしてみようと思って、『神の捨てた裸体』という本を電子にして、新潮社の人間に頼んで1冊の本を5冊に分けて、1冊100円か120円にして、しかも写真を10枚ぐらいわざわざ付けて、ということをやってみたんですよ。でも何の反響もないんですね。絶版にならないで残るということはいいことかもしれないんですけど、反響がないんじゃつまらないですよね。ただ今の書き手の感覚としては、新潮社みたいに出版した本は全部電子化するというところで出したいです。僕は電子書籍ではあまり読みませんが、それでしか読みたくないという人もいるわけで、そういう人にはちゃんと扉を開いておくべきだと思います。

電子書籍の普及は『かっこよさ』にかかっている


――それでは、電子が出版界を席巻するとか、そういった劇的な変化は起こらないとお考えでしょうか?


石井光太氏: いずれはすると思うんですよ、慣れだから。ただ、何かしらの強い衝撃がない限り、大きな革新ってありえないですよね。iPodでCDが必要なくなるというのと、電子書籍で本は必要なくなるっていうのを同列に並べているけれども、あれは全然違いますよね。iPodは、今までCDを買っていたのが買わなくて済んで、しかも安く済むというのがあったじゃないですか。だけど電子書籍にしたからって別に安くなるわけでもない。ブックオフでも買えなくなればむしろ高くなりますよね。あともう1つ、iPodが出た時の「かっこよさ」がないんです。あの時、MDなんて持ってたら恥ずかしいみたいな感じがありましたよね。スマートフォンに変わったのだってかっこいいからというのがあると思います。それでだんだん慣れてきて、移行していくわけですよね。でも世の中の潮流として、電子書籍がかっこいいというのも、本がダサいということもないですよね。

――電子書籍を読むことが「かっこいい」ことになるにはどういったことが必要なのでしょうか?


石井光太氏: 「かっこよさ」を作るのは作家の仕事でもあるはずだと思っています。確かにiPodはスティーブ・ジョブズが率いるAppleが作ったかもしれないですけれども、iPodで聴くかっこいい音楽っていうのがやっぱりあるわけです。iPodの最初のCMって、ラップっぽい感じになっていたじゃないですか。いいラップの歌手がラップをやりながら、スケボーをしながら聴くというイメージを作っているんですよね。つまり、ファッションとしてちゃんと成り立っているわけです。だけど、本を読むということがファッションとして成り立っていないんですよね。それはハードがあればいいだけではなくて、そのハードを使うことがかっこいいというコンテンツが作られているかどうかということだと思うんです。

例えば、もしも村上春樹の『ノルウェイの森』が出た時に、村上春樹が庭で電子書籍を読んでいる姿が紹介されたら、たぶんみんな買いますよ。あるいは村上龍の『限りなく透明に近いブルー』が出てきた時、SONYで村上龍が電子書籍を読んでいるシーンをかっこよく宣伝したら買うと思うんですよ。それはあのころの村上春樹や村上龍のような、ブームになっている作家にハードのイメージが適応すればこそありえる話で、今はコンテンツとハードが全然一体化してないんですよ。それはハードを作る側にももちろん問題はあるけれども、それと同じぐらい作り手にもあると思うんですね。

――作家が作品だけではなく、読書のスタイルも作っていくということですね。


石井光太氏: 作る人間というのは、その業界を盛り上げていく役割というのを絶対持っていると思うんですよ。例えばサッカー選手はサッカーだけしていればいいという考えも確かにあるかもしれないけれども、イベントをやったり、サッカー教室をやったり、あるいは苦手でもテレビに出るということだってある。中田英寿や本田圭祐は、ファッションもプライドを持ってやっていますよね。それによって、サッカーに夢を抱いて、目指す人がいるから業界が盛り上がるわけじゃないですか。

この間、ある有名な映画監督さんと話をした時に、「映画ってもうかるんですか?」って聞いたら「全然もうからないんですよ」って話をしていたんです。平均して考えれば、監督の収入は驚くほど低い。彼は売れっ子ですからそうじゃないと思いますよ。あくまで全体的に低いということです。でも彼は「収入が一般のイメージより少ないなんてことは絶対言えない」とおっしゃっていました。夢を持たせるためにそんなことは言っちゃいけないんです。それは作る人間の責任でもあると思うんですよね。映画監督を目指す人間がいるわけですから、タキシードを着てレッドカーペットを歩いて、映画に対する夢を与える、そういう世界というのは絶対必要だと思うんですよね。それはたぶん本の世界だってやらなきゃいけないことなんですよね。本だってきらびやかに見せなきゃいけないし、それをファッションにしていくという考え方もあると思います。

ノンフィクションを盛り上げる「使命」がある


―― 一人ひとりの作家さんにも、自分の作品だけではなく「業界を盛り上げる」という発想が必要でしょうか?


石井光太氏: 自分の本が売れりゃいいという話ではなくて、ほかの人の本も売れてその業界の面白さというのを作り上げなきゃいけないと思います。最終的にはそれは自分にも還元されますしね。それをどれだけやっている人間がいるのか、そしてどれだけ有効にできるかが、その業界の活性化につながると思うんですよ。作家が作品を作るのは、もちろん知りたいとか、人に伝えないといけないと思うからです。「これを俺が伝えないで誰が伝えるんだ」と思うんですね。その衝動があるからたぶん本を書き終えることができる。でも書き終わったら、それとは別に著述業、作家という自分がいるわけじゃないですか。それはそれでまた違う役目があると思うんです。書き終わったらそれで終わりということではなくて、それプラスアルファ人に何かを伝えていかなきゃいけないし、盛り上げていかなきゃいけない。そういった意味で両方やりたいですね。必ずやる必要はないと思いますし、やらなければダメだというつもりは全くありませんけど、僕自身としてはできる限りやりたいなというのはあります。

――「出版不況」の話題で、ノンフィクションについてもよく引き合いに出されますね。


石井光太氏: 僕は去年の夏に『ノンフィクション新世紀‐世界を変える、現実を書く。』というガイドを出しましたけれども、あの本の中には自分の本をあえて1冊も入れていないんです。人の本を紹介するのにメリットがあるのかっていうふうにも言われますが、単純に自分の利益ではなくて、その業界を作っている人間が盛り上げるのが使命だと僕は思っています。僕自身の本を面白くないと思ったらほかの人の作品を読めばいいわけですしね。やっぱり作家になるというのは幸運なことだと思うし、いろんな人に助けてもらっている部分というのはあると思うんです。自分が見えているものより、何100倍もあるんですよ。



例えばこうやってインタビューを受けて、インタビュアーの方とカメラマンの方、お二方しか会っていないけれど、その裏にはいろんな人がいるわけじゃないですか。その中で自分がネットの媒体に出て、人が読んで本を買ってくれるわけですよね。そういうふうに考えた時に、僕は自分が良ければいいと思うことはできなくて、ほかの人も売れてみんなで盛り上がって楽しんで、素晴らしいものを素晴らしいと言える環境っていうのを作り出さなければいけない立場だと思うんです。僕自身はノンフィクションという仕事の中に軸足を置いていて、少しぐらいの読者は集まるし、少しぐらい人に呼び掛けることはできるので、それを形にできればいいんじゃないかなと思っていますけれどね。

――最後に、作家、表現者として今後、今後何を最も大切にして活動していきますか?


石井光太氏: この間亡くなった大島渚さんじゃないですけれども、全力で作品をつくることで自分自身が戦っている姿を見せていければいいんじゃないかと思います。人は必死になって戦っている姿に興味を持ったり、ひきつけられたり、憧れたりするわけですから。当然、戦うことは楽なことではありません。でも、それをやりつづけた向こうにある何かを人につたえたいと思うし、自分自身でも見てみたいと思う。それだけです。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 石井光太

この著者のタグ: 『出版業界』 『ノンフィクション』 『作家』 『ジャーナリズム』 『ルポルタージュ』 『ドラマ』

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