中島義道

Profile

1946年福岡県生まれ。東京大学法学部卒業。同大学院哲学科修士課程修了。ウィーン大学にて哲学博士号取得。 14年間勤務した電気通信大学を2009年に辞職。現在は哲学塾主宰、学生から熟年までさまざまな職業の男女塾生と共に、カント、フッサール、ニーチェなどを丹念に読み進めている。近著に『ウィーン愛憎』(中央公論社)、『哲学の教科書』(講談社)、『孤独について』(文藝春秋)、『悪について』(岩波書店)、『カイン』、『働くことがイヤな人のための本』(共に新潮社)など多数。

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哲学人生の系譜は他力本願、33歳のウィーン留学で人生のつじつまを合わせた


――ご出身は北九州の門司区で、東大へ進まれてから、どのように哲学と出会うことになるのですか?


中島義道氏: うちの家には壮大な物語があるんです。祖父は大分県の庄屋の生まれで、東京外語大のフランス語を出ていて、祖母が北星学園でカトリックだったんです。祖父は長男じゃなかったので、結婚してからゴールドラッシュの時代に、カリフォルニアのサクラメントに渡って、大成功したんですよ。おやじはそこで生まれたんです。そのあと実家の長男が亡くなって、おやじが7歳の時に、一家はまた大分県に戻った。つまり、おやじは帰国子女だったんですが、一高に行って東北大学を出て、戦後ディーゼルエンジンの工場を起こそうとして、あちこち回ったけどうまくいかなくて、昭和25、6年ごろに家族5人で世田谷の尾山台に流れ着いたんです。大家さんのところの運転手の家を借りていた。うちの家自体は授業料も払えないぐらい貧乏でしたが、家が千坪あって庭のある立派なところに住んでいたんです。

――そこからまた上を向いていったわけですか?


中島義道氏: そのあとにおやじがちっちゃな工場に入ったらそれがたまたま小松製作所に併合されて、今のブルドーザーのコマツになった。それで川崎の市営住宅が当たったから、そちらに移ったんです。姉貴は学習院に行って、大金持ちとつき合いがあったから、私は、超貧乏から華族からまで幅広く知っているんです。中学の成績が良かったので、そのまま有名な都立高校に進めばよかったんだけど、おやじの判断で私は川崎高校に入り、そこから東大に進みました。上昇志向のある家だったから学歴とか社会的地位とかを大事にするわけです。東大以外は人間の行くところじゃない、官僚で大蔵省じゃなきゃいけない。法学部が一番偉いと思っているから。私も東大の文科一類しか受けなかった。文科三類も早稲田も慶応も認めない。勉強して東大に入るのが一番偉いと思っているから、姉と妹に囲まれた一人息子でしたから、家のことは何もせず、食事の時も座ると、周りからお皿やおしょうゆが自動的に出てきて、甘やかされ過保護に育てられた。雨戸の閉め方も知らない子でしたね。

――文科一類の法学部から哲学科に転向してから、その生活は変化しましたか?


中島義道氏: 法学部もあと2年辛抱すれば卒業できたし、文一の時の仲間たちもよかったんですが、哲学科は当時大森荘蔵先生がいらして、楽しそうだと思った。哲学なんてすると人生の落伍者だと思われ、親せき一同からはバカ扱いされるのはわかっていたけど、哲学科は何か知らない隠れ家みたいな魅力があって、風通しがいいところがありました。結局出たり入ったりして、東大には12年在籍して、卒業後はとりあえず、予備校に就職してそこで教えていたんですが、親は大学で教授にならなきゃ認めないという価値観でしょう。それで、1979年、33歳の時、もう死んでもいいやと思ってウィーンに行きました。あれが人生の大きな節目になりました。身の回りのこともろくにできない人間がいきなり海外に行った。そのあたりのことは、『ウィーン愛憎』に書いたんですよ。その間ずっと親から仕送りを受けていました。それでもウィーンに行ったことで、思いがけず結婚もして、東大の助手に決まって子どもも生まれて、33歳で行って37歳で帰ってくるまでの4年間でそれまでの欠落を全部取り戻して、普通の人のレベルまでいった。40歳で助教授になった時は、普通に落ち着いていましたね。向こうに行った時には思ってもみませんでした。

――不思議ですが、いったいなぜそんな展開になったのでしょうか?


中島義道氏: 自分でもよくわからないんです。ただ直感的に動いていったらこうなってしまった。ウィーンに行ったら、そこに日本人学校があって就職できたし、家内がいたし、そういう出会いにすごく恵まれていたと思います。他力本願というのか。ただ不器用にやってきて、結果として自分のしたいようなチャンスをつかんだことになります。ある意味でこれは偶然ですけれど、留学しても思いを遂げられない多くの人に対して負い目があるように感じます。親に16年間養ってもらっていただけなんですから。そのせいで自分のできることを何かしたいと思うようになったのかもしれません。ひきこもっている人にこういう場があればいいなというものを作ったりしています。私自身、小学生から大学までずっとずっと大変な人生だったから。よく狂気にならなかったと思います。体力がなかったから親を刺すこともなく放火することもなく、すごく模範的な家庭で大事に育ったというストーリーを20歳過ぎても信じていた。それがみんなウソだとわかった時、書き始めたんですよね。親は、私が書くことを納得できなかったみたいですけれどね。

動物占いではペガサス、ジタバタしているとなぜかうまく行ってしまう人生はわが子にも遺伝


――聞くところによると、息子さんの人生も、お父さまゆずりのツキのよさがあるそうですね。


中島義道氏: 家庭では実際離婚の危機もあったんです。月に何回かは離婚しようと思うぐらい。ウィーンでも家内に食べさせてもらっていた負い目があって、一度離婚話になった時に「離婚前に3年間ウィーンで暮らしてもらいたい」と国際離婚みたいなことを言われた。問題は息子の教育で、小学校は明星学園という自由な教育方針のところに入れていたんですが、勉強も好きじゃなかったので、たぶんこの子は日本の受験競争には耐えられないと思って、海外の大学で別のコースを歩ませようということになった。

当時私は56歳ぐらい、息子が13歳ぐらいの時に、家内が一大計画を立てて、家族全員でウィーンへ移って、息子をアメリカン・インターナショナル・スクールに入れたんです。私も運よく学術振興会の長期留学で一緒に行けることになりました。息子は、カズやラモスに夢中のサッカー少年だったので、英語なんて何にもできなかった。その割になぜかアメリカン・インタ-ナショナル・スクールの試験には受かって、うまく順応して、あっというまにサッカーの代表選手になっちゃった。ある時学校に行ったら、息子がMVPをもらって、体育の教師が私のところへ飛んで来て、「ヨシは素晴らしいです!ヨシは素晴らしいです!」と言ってくれる。ただ、本人も「僕は最低のラインで卒業する計画をずっと前から立てている」と言うだけあって成績が悪くて、内申書で慶応を受けられなかった。でも、上智を受けたら、新聞学科に一発で受かっちゃった。ペーパーテストもダメで、面接でもしちゃいけないことを全部したらしい。そうしたらなぜか受かっていて、大学を出て、今度は博報堂プロダクトに受かって、コピーライターになったんですね。

――ご家庭の中に、そういった息子さんをサポートする連帯感があったのですか?


中島義道氏: うちは夫婦仲がすごく揺らぐんです。私はそもそもあんまり人と一緒にいたくないほうですし。動物占いでは私はペガサスで、家内と息子が2人ともバンビなんですよ。2人とも優しくされることが好きで、そのうえ金とモノが大好きで、私とは全然合わない。うちはどうしてもダメなんです、3人一緒にいると。だから、私はほとんど終日近くの仕事場にいて、息子は1人で赤坂のほうにいて、3人とも違うところに住んでいるわけです。息子も月に1回か2回しか帰ってこないから。同じ家にいたとしてもわりと広いので、ずっと家内と会わない生活をしていて、5年ぐらいほとんど口をきかなかったんですよ。どういう顔をしていたか、会っていないから忘れちゃったりして。私が大学に勤めていた時も、家内は、5年の間に、茶道の先生になっていたり調理師の免許をとったりしていました。結構いい人生みたいでしょ?でもね、結局私は正直じいさんで、何にも期待せずに一生懸命やるわけです、妥協しないで。この「哲学塾」があるおかげで生活もできる。だから最後は全部失って死ねばいいと思っている。そのことを感づいていて、家族は、私が一番危ないと思っているようなんです。

――中島さんのお仕事は、自分を表現できることで人に幸せを分け与えているといえるのではありませんか?


中島義道氏: 私は59冊本を書いたんだけれども、多くの人が、これによってもっと傷ついているかもしれないけれど、救われた人もいるかもしれない。どうにもしょうがないね、作家っていうのはね。「中島の本を読み続けて失敗した」という人はたくさんいますよ。

著書一覧『 中島義道

この著者のタグ: 『海外』 『哲学』 『考え方』 『生き方』 『働き方』 『作家』 『きっかけ』 『大学』

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