中島義道的人生の極意、何かが手に入ったところで人生なんてつまらない、あとは死ぬだけ
『人生に生きる価値はない』『私の嫌いな10の人びと』など、厭世的でありながら「戦う哲学者」とよばれる中島義道さん。世の凡人が望むものをすべて(ではないが)拒否して心のままに生きてきた結果、好きなことのみをするというわがままを通しながら、沈没もせず社会的に排斥もされずに生きてきた。本人は、それを「うしろめたい」と言う。なぜそのような精神構造をもつに至ったか、まわり道の多かった人生の折々で、大切にしてきたもの、捨ててきたもの、独特の価値観に迫った。
哲学をしたい人が来ればいいだけの哲学塾、「会長にもバカ」って言っちゃう
――中島さんは、戦う哲学者というイメージが強いと思いますが、今でもそうですか?
中島義道氏: もう戦っていません。閉じこもっちゃっているんですよ。この仕事場から歩いて3分ぐらいのマンションが自宅なんですけれども、電車に乗るのは月に1回ぐらいで、完全にひきこもり生活です。大学は3年前に辞めて、今はここで「哲学塾」を開いています。作家っていうのは、あんまり他人と組織の中でやっていきたくないんですよ。私は大学に25年勤めましたが、教授っていうのがイヤでしょうがなくてね。教授って偉くないのに偉ぶって高い給料をとってる勝ち組集団でしょ。私は基本的に自分が負け組だと思っているからね。別にお金をもうける必要もないし。
――「哲学塾」は、どんな方が受講されますか?
中島義道氏: 10年以上前も哲学ブームがあって、電通大で「無用塾」っていう素人さんたちのための哲学の塾を無料で開いていたことがありました。「哲学塾」は今まで400人ぐらい来て、今も150人ぐらいいるんじゃないですかね。私の本の読者が三分の二ぐらいいて、全体に学歴が高い人がたくさん来ます。有名大学出身で修士が2~3割、理系の人が多くてお医者さんも5~6人います。エリートサラリーマンや会長さんもいます。中には、中島っていうのはどういうジジイか見てやろうとやってきて、1回だけのぞいていなくなる人もいますけどね。なぜか関西とか東北とか北陸のような遠くから来ます。中には、ひきこもりの人や病的な人もいて、仕事もしていないからお金もないのに、深夜バスで名古屋や長野のほうから来たりしています。
――みなさん、哲学を学ぶ目的というのは何でしょう?
中島義道氏: 私は今66歳ですが、私たちの世代から前の世代っていうのは、哲学がしたくてもできなかったんですよ。貧しくて、すぐ働かなくちゃいけなかったから。哲学がやりたくても法学か経済にいったほうがメシは食える。でもそういう人たちがずっとカントを読んできて、60代になってまた読みたいって思うんですよ。それでお医者さんとか社長さんになっていても、だいたい頭が硬くなっている。人生って、どんなことも、その人の才能や個性や人間的魅力をうまく生かせるかどうかが大事なのに、人はどうしても社長とか会長とかいう地位で人を評価してしまう。よくいわれる「中二病」みたいな自意識過剰の人がいてね。だから私は、逆に「会長のくせに頭悪いですね」って言ったりするわけ。ここはカントならカント、ニーチェならニーチェを読んで、そこで勝負するというだけの空間なんです。
この前、「先生、カントのいろいろな言葉は会社では何にも役に立ちません」と言われましたが、そういう人にこそ来てもらいたい。俗世間でバリバリでやってきて、哲学に変な思い入れがない人。私は哲学を40年やっていますから天皇が来たって大丈夫。来なくて残念なのは暴力団。脱獄者はちょっと怖いですけれど、犯罪者のような社会的に排斥されている人が来たら、かえって私が打ちのめされるかもしれないけど。
――受講してくれる人に、なかなか言えないような言葉を率直におっしゃるのは、哲学者としての使命感や愛ゆえでしょうか?
中島義道氏: いやぁ、愛じゃなくてね。私のために自殺未遂とか自殺しちゃった人もいると思うし。「睡眠薬をまた飲んだ、死にたい」なんてメールも来ます。私に対してものすごく思い入れが強くて、私に自分の死とか哲学的な思いを送ってくる人に対して「全然ダメです」って突き放したら死んじゃうかもしれないけど、ウソはつきたくないし、わりと危険なわけですよね。2チャンネルやメールで「バカ」とか「死ね」とか散々言われていますよ。でも私は、自分が本を書いてもらう印税も授業料も汚い金だと思っていて、ものすごく自責の念があるので、たたかれてかえってバランスがとれていると思う。日本昔話の正直じいさんです。いつももうけたくない、もうけたくないと言ってある程度もうけちゃうんですけれど。
――もうけることに罪悪感を抱いてしまうのですか?
中島義道氏: 例えばイチロー選手も、もちろん大変だと思うけれども、私の考えでは好きなことをやっているんだから年収200万円ぐらいでいいと思うんですよ。それよりも他人のために頑張っている看護婦さんや消防士に何億でも払えばいいと思うけれど、資本主義ってそうなっていないですよね。私の場合は、ウィーンに借家があって、夏はヨーロッパにいるんですよね。そうすると読者は、私のとんでもない人生を「これだけダメな人間でもうまくいくのか」って期待できたりもしますが、場合によってはその通りにならないとそれが憎しみに変わって、「中島はずるい、ペテン師だ」ってことになるわけですよ。そういう人が私を襲うことはありえます。この前、長瀞に行った時、ステッキや木刀を売っていたので、護身用に買っておこうかと思ったぐらいです。
哲学人生の系譜は他力本願、33歳のウィーン留学で人生のつじつまを合わせた
――ご出身は北九州の門司区で、東大へ進まれてから、どのように哲学と出会うことになるのですか?
中島義道氏: うちの家には壮大な物語があるんです。祖父は大分県の庄屋の生まれで、東京外語大のフランス語を出ていて、祖母が北星学園でカトリックだったんです。祖父は長男じゃなかったので、結婚してからゴールドラッシュの時代に、カリフォルニアのサクラメントに渡って、大成功したんですよ。おやじはそこで生まれたんです。そのあと実家の長男が亡くなって、おやじが7歳の時に、一家はまた大分県に戻った。つまり、おやじは帰国子女だったんですが、一高に行って東北大学を出て、戦後ディーゼルエンジンの工場を起こそうとして、あちこち回ったけどうまくいかなくて、昭和25、6年ごろに家族5人で世田谷の尾山台に流れ着いたんです。大家さんのところの運転手の家を借りていた。うちの家自体は授業料も払えないぐらい貧乏でしたが、家が千坪あって庭のある立派なところに住んでいたんです。
――そこからまた上を向いていったわけですか?
中島義道氏: そのあとにおやじがちっちゃな工場に入ったらそれがたまたま小松製作所に併合されて、今のブルドーザーのコマツになった。それで川崎の市営住宅が当たったから、そちらに移ったんです。姉貴は学習院に行って、大金持ちとつき合いがあったから、私は、超貧乏から華族からまで幅広く知っているんです。中学の成績が良かったので、そのまま有名な都立高校に進めばよかったんだけど、おやじの判断で私は川崎高校に入り、そこから東大に進みました。上昇志向のある家だったから学歴とか社会的地位とかを大事にするわけです。東大以外は人間の行くところじゃない、官僚で大蔵省じゃなきゃいけない。法学部が一番偉いと思っているから。私も東大の文科一類しか受けなかった。文科三類も早稲田も慶応も認めない。勉強して東大に入るのが一番偉いと思っているから、姉と妹に囲まれた一人息子でしたから、家のことは何もせず、食事の時も座ると、周りからお皿やおしょうゆが自動的に出てきて、甘やかされ過保護に育てられた。雨戸の閉め方も知らない子でしたね。
――文科一類の法学部から哲学科に転向してから、その生活は変化しましたか?
中島義道氏: 法学部もあと2年辛抱すれば卒業できたし、文一の時の仲間たちもよかったんですが、哲学科は当時大森荘蔵先生がいらして、楽しそうだと思った。哲学なんてすると人生の落伍者だと思われ、親せき一同からはバカ扱いされるのはわかっていたけど、哲学科は何か知らない隠れ家みたいな魅力があって、風通しがいいところがありました。結局出たり入ったりして、東大には12年在籍して、卒業後はとりあえず、予備校に就職してそこで教えていたんですが、親は大学で教授にならなきゃ認めないという価値観でしょう。それで、1979年、33歳の時、もう死んでもいいやと思ってウィーンに行きました。あれが人生の大きな節目になりました。身の回りのこともろくにできない人間がいきなり海外に行った。そのあたりのことは、『ウィーン愛憎』に書いたんですよ。その間ずっと親から仕送りを受けていました。それでもウィーンに行ったことで、思いがけず結婚もして、東大の助手に決まって子どもも生まれて、33歳で行って37歳で帰ってくるまでの4年間でそれまでの欠落を全部取り戻して、普通の人のレベルまでいった。40歳で助教授になった時は、普通に落ち着いていましたね。向こうに行った時には思ってもみませんでした。
――不思議ですが、いったいなぜそんな展開になったのでしょうか?
中島義道氏: 自分でもよくわからないんです。ただ直感的に動いていったらこうなってしまった。ウィーンに行ったら、そこに日本人学校があって就職できたし、家内がいたし、そういう出会いにすごく恵まれていたと思います。他力本願というのか。ただ不器用にやってきて、結果として自分のしたいようなチャンスをつかんだことになります。ある意味でこれは偶然ですけれど、留学しても思いを遂げられない多くの人に対して負い目があるように感じます。親に16年間養ってもらっていただけなんですから。そのせいで自分のできることを何かしたいと思うようになったのかもしれません。ひきこもっている人にこういう場があればいいなというものを作ったりしています。私自身、小学生から大学までずっとずっと大変な人生だったから。よく狂気にならなかったと思います。体力がなかったから親を刺すこともなく放火することもなく、すごく模範的な家庭で大事に育ったというストーリーを20歳過ぎても信じていた。それがみんなウソだとわかった時、書き始めたんですよね。親は、私が書くことを納得できなかったみたいですけれどね。
動物占いではペガサス、ジタバタしているとなぜかうまく行ってしまう人生はわが子にも遺伝
――聞くところによると、息子さんの人生も、お父さまゆずりのツキのよさがあるそうですね。
中島義道氏: 家庭では実際離婚の危機もあったんです。月に何回かは離婚しようと思うぐらい。ウィーンでも家内に食べさせてもらっていた負い目があって、一度離婚話になった時に「離婚前に3年間ウィーンで暮らしてもらいたい」と国際離婚みたいなことを言われた。問題は息子の教育で、小学校は明星学園という自由な教育方針のところに入れていたんですが、勉強も好きじゃなかったので、たぶんこの子は日本の受験競争には耐えられないと思って、海外の大学で別のコースを歩ませようということになった。
当時私は56歳ぐらい、息子が13歳ぐらいの時に、家内が一大計画を立てて、家族全員でウィーンへ移って、息子をアメリカン・インターナショナル・スクールに入れたんです。私も運よく学術振興会の長期留学で一緒に行けることになりました。息子は、カズやラモスに夢中のサッカー少年だったので、英語なんて何にもできなかった。その割になぜかアメリカン・インタ-ナショナル・スクールの試験には受かって、うまく順応して、あっというまにサッカーの代表選手になっちゃった。ある時学校に行ったら、息子がMVPをもらって、体育の教師が私のところへ飛んで来て、「ヨシは素晴らしいです!ヨシは素晴らしいです!」と言ってくれる。ただ、本人も「僕は最低のラインで卒業する計画をずっと前から立てている」と言うだけあって成績が悪くて、内申書で慶応を受けられなかった。でも、上智を受けたら、新聞学科に一発で受かっちゃった。ペーパーテストもダメで、面接でもしちゃいけないことを全部したらしい。そうしたらなぜか受かっていて、大学を出て、今度は博報堂プロダクトに受かって、コピーライターになったんですね。
――ご家庭の中に、そういった息子さんをサポートする連帯感があったのですか?
中島義道氏: うちは夫婦仲がすごく揺らぐんです。私はそもそもあんまり人と一緒にいたくないほうですし。動物占いでは私はペガサスで、家内と息子が2人ともバンビなんですよ。2人とも優しくされることが好きで、そのうえ金とモノが大好きで、私とは全然合わない。うちはどうしてもダメなんです、3人一緒にいると。だから、私はほとんど終日近くの仕事場にいて、息子は1人で赤坂のほうにいて、3人とも違うところに住んでいるわけです。息子も月に1回か2回しか帰ってこないから。同じ家にいたとしてもわりと広いので、ずっと家内と会わない生活をしていて、5年ぐらいほとんど口をきかなかったんですよ。どういう顔をしていたか、会っていないから忘れちゃったりして。私が大学に勤めていた時も、家内は、5年の間に、茶道の先生になっていたり調理師の免許をとったりしていました。結構いい人生みたいでしょ?でもね、結局私は正直じいさんで、何にも期待せずに一生懸命やるわけです、妥協しないで。この「哲学塾」があるおかげで生活もできる。だから最後は全部失って死ねばいいと思っている。そのことを感づいていて、家族は、私が一番危ないと思っているようなんです。
――中島さんのお仕事は、自分を表現できることで人に幸せを分け与えているといえるのではありませんか?
中島義道氏: 私は59冊本を書いたんだけれども、多くの人が、これによってもっと傷ついているかもしれないけれど、救われた人もいるかもしれない。どうにもしょうがないね、作家っていうのはね。「中島の本を読み続けて失敗した」という人はたくさんいますよ。
電子出版には興味ゼロ、飛行機の中とウィーンでしか読まない、『チボー家の人々』は3年越し
――今の時代、自分がもっている本を電子化して保存することができるようになりました。先生の著作物を電子化してとっておきたいという人はたくさんいらっしゃいますが、電子書籍についてはどんなふうにお考えですか?
中島義道氏: 私は、辞書でも何でも全部紙でちゃんと調べるほうが好きなので、電子書籍は、現実に見たこともないし、まったく知りません。この前、大手の出版社の方と話していたら、「今後は電子書籍がシェアが半分ぐらいまで行くだろう」とか言ってすごくポジティブな見解でした。端末はわりと高価なんでしょう?若者だけかと思ったら、中高年の人も買っているみたいですね。書き手としては、印税が少なくなるんだけれども、新しい読者を開拓できるかもしれないし、私としては、全然反対でもないし、どうだっていいんですよね。
――最近はどんな本をお読みになりますか?
中島義道氏: 最近はそんなに本を読まないから。この仕事場には文学は置いていなくて哲学関係の本だけなんですが、ウィーンの家にもここと同じで、全部合わせて約1万冊はあります。私は長いこと学生をやってその後ずっと教師だから、ずっと勉強漬けなわけですよ。だからかなり読んでいます。今の「哲学塾」でも、私1人でカントの『純粋理性批判』とニーチェとそのほかのものと、全部教えます。あんまり人の論文を読みたくないんです、つまらないから。電通大のいいところは、卒論とかドクター論文とか読まなくていいんですよ。私は自分の書いたモノを読むのは好きなんです(笑)。「なかなかいいこと書いてあるな」とか思いながら(笑)。もちろんひどいのもいっぱいありますけど、「ああ、書かなきゃよかった」というのはない。「書いておいてよかった」と思うわけですよ。
――普段の読書は、どんな感じですか?
中島義道氏: 私の頭はすごく面白い構造をしていて、前に読んだものをかなり覚えているんですよね。だから平行して15冊ぐらい一緒に読んじゃったりする(笑)。例えば、ニーチェとかカントですと1冊を読み込みますけど、『チボー家の人々』はもう3年ぐらい読んでいます。これを読むのは飛行機の中とウィーンと決めているわけですよ。『チボー家の人々』って5巻あるんですが、1年たって、また前回の続きから読み始めても平気。覚えているんです。記憶ということに関して言うと、本棚の配列も正確に覚えています。ウィーン留学時代に、鎌倉の親に「上の本箱の3段目の左から4番目のを取って送ってくれ」と頼んだりしていましたね。
安全な道の逆を行く、捨てると次に来るものがある
――著作も含めて、今後のお仕事はどうなりそうですか?
中島義道氏: 2月の中旬ぐらいに何か出ると思います。あとは文庫本を含めて今年は3~4冊は出るでしょうね。そうすると、あとは死ぬだけでしょう?ずっと5歳から自分が死ぬってことが大問題なんです。それでちょっと気がおかしくなるぐらいの少年でした。今でも哲学問題としてそれがある。だから葬式に行くと気がおかしくなったりするから、行かないようにしているんですよ。そのせいか、意外と私、人生でいろんなものをパーンと捨てることができるんです。法学部をやめたり、ウィーンに行ったり。例えば哲学をやる時も、法学部をあと2年我慢するという選択肢もあったけれど、私、我慢しない人間なんです。損なほうをとっちゃうんです、どちらかと言うと。普通の人は、そんなことをやったら危ないからと安全なほうを勧めるけど、私はだいたい逆のほうへ行く。それで築いてきた自分なりのマイナス実績があるから、何かあった時に、あんまり執着せずに全部捨てられる。ウィーンの借家もいらないし、今もし離婚したらこの仕事場に住めばいいし。何もいらないわけです。ちっちゃいころから考え続けている「死んでしまう」ってことに比べたら、生きていることに何の意味もないって思っていますね。
――それが中島義道的人生哲学ですか?
中島義道氏: 有名になるとか、何億もうけるとか、そういう願望は何にもないですね。ヨーロッパに旅行しても今日はマクドナルドだけって決めたりしてやっているわけですよ。高い料亭で接待されるのも好きじゃないんです。むしろ、安酒場での一人2000円くらいの飲み会が好きですね。教室でする飲み会のために、時々サミットの水曜日の冷凍品の半額をまとめて買いしたりしています。出版社の人とは、安い酒場で2人で5,000円くらいを割り勘にして飲むこともあります。私の信念として、おごってもらいたくないわけですよ。そうすると、彼らも私と飲むには身銭を切るしかない。「あなたは払うんですか?」って聞いてイエスならば、「じゃあ割り勘にしましょうね」って飲み方です。あるいは家に招待して時々おごったりして。絶対私にはお金とか贈り物をしちゃいけないって言ってあるんです。もらうのもイヤだから(笑)。人生なんてつまらないに決まっているんだから、なるべく自分の好き勝手なことをして、その時々で、結果として何かそれなりに人に伝えるものが出てくるという感じでしょうか。
うれしいのは、昔の「無用塾」の時の教え子がちょうど40歳ぐらいになっていて、みんなドクター論文書いたりしているのですが「哲学塾」で非常勤講師として協力してくれることです。おかしいですよね。「哲学塾」が結構うまくいっていることは、報われすぎですよね。私自身は名誉教授も拒否したし、賞も取らない、テレビも出ないと全部決めているんですね。自分自身が報われるのがイヤだからと思って。そうするとわりと報われることがあるんですけれどね(笑)。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 中島義道 』