ノンフィクションは虚構のないもの、小説とは違う
門田隆将氏: ノンフィクションと小説は全く成り立ちが違います。小説というのは作家が頭の中で創作していくものです。ノンフィクションというのは全く逆で、言ってみれば、つるはしで地中に向かって掘っていき、その結果、鉱脈に行き当たるかどうかというものです。そして、取材し尽くして、なんとか真実にたどり着こうとする。
ノンフィクションは、いうまでもなく当事者を“説得”し、取材に応じてもらわなければなりません。そのために、あらゆる方法でアプローチし、取材源にたどりつきます。だから『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』についても、この本ができるかどうかは、当事者の吉田昌郎さんを説得できるかどうかにかかっていました。この人が取材に応じてくれるかどうか、ということです。吉田さんという人間を徹底的に調査し、恩人は誰か、親友は誰か、あるいは吉田さんが「この人の言うことなら耳を傾ける」という人は誰か……等を徹底的に研究しました。そしてその結果わかった何本ものルートを使って吉田さんにアプローチしました。吉田さんご本人とお話しできるまで、1年数か月かかりましたよ。その末に会うことができた吉田さんは「門田さん、私は何でも答えますから、もし、なにかまずいことがあったら、門田さんの方でカットしてください」とおっしゃった。すごい人だった。私は、東京電力にこんな太っ腹の人間がいたのかと、びっくりしました。
――吉田さんにそういう言葉を言わしめた門田さんもすごいと思いますが。
門田隆将氏: 私は吉田さんに、「この事故は、日本の年表に太字で書かれるようなものです。どうしても日本の将来に真実を残さなければいけない。私やあなたが死んでも、孫やひ孫の代に残る本を書きますので、私に話すのではなく、歴史に向かって話してください」とお願いしたんです。それで、吉田さんに、私がなぜこの本を書きたかったかということを話したんです。「私のノンフィクションは色々なジャンルのものがあるけれど、何かが起きている瞬間、その本人に代わってその場に身を置いてみるというのが私のノンフィクションの基本なんです」と。「例えばガダルカナルの戦いだったら、“血染めの丘”に自分が行って、土も岩も石も全部を巻き上げるあの猛烈な敵の射撃の中で突撃できるかとか、その時と場所に身を置いて想像してみるんです」と。
「今回の原発事故の中で全電源が喪失して、注水不能になって、津波でもう下は全部破壊されて、放射線量が増加している状態だったと。それを想像しただけで怖くなった。そんな真っ暗闇の中を懐中電灯で階段を10段、15段下りて、その先に広がっているあの放射能汚染の中へ入って、バルブを開けに行ったのは一体どんな人間なんだ。どこまで腹が据わっているんだ。彼らは命を懸けて突入している。この使命感と責任感を持った人ってどんな人なのか。いま東電バッシングみたいな中で、その人たちの息遣いも聞こえて来なければ顔も見えてこない。どんな男たちがこれをやったんだっていうことを、私は知りたくて仕方がない」と、そう伝えました。
それは、私がそんなことはできないからです。とてもじゃないですが、階段を3段5段以上降りる勇気はないということを、吉田さんが来た時にもあらためて伝えましたね。
――すごいですね。
門田隆将氏: それで彼が事故に関して色々な話をしてくれる中で、一緒に死ぬ人間の顔を思い浮かべるシーンだとか、そういう話を淡々としてくれたんですね。私は聞いていてもう背筋が寒くなりました。「本当に日本は危なかったんだな」と。
それで、吉田さんの部下の方にも、「あの時所長が吉田さんじゃなかったらどうなっていたと思いますか?」と聞いてみると、「あそこにいたのが吉田さん以外だったらダメだったと思う」ということを、ほとんどの人が言った。それを聞いて私はまた背筋が寒くなりました。吉田さんもまた、「あの時に1、2号機の当直長に伊沢郁夫がいてくれたのは有り難かった。あの男は単に技術とか何とかじゃなくて腹が据わっているし、心持ちも含めて、ありとあらゆる面で抜群なんだ。あの男がたまたま1、2号機の当直長として、最悪の状況の中でいてくれたことは、本当に助かりました」ってしみじみ言うわけです。こっちも天の配剤、こっちも天の配剤で、掛け合わせたら日本が助かる率は一体どのくらいだったのだろうと思ってゾッとしました。
――そういう事実も、やはり門田さんが光を当てないと埋もれてしまうのですね。
門田隆将氏: そうですね。ちょっと難しかったでしょうね。
小学4年生の時からジャーナリストになりたいと思っていた
――どの様にして門田さんがいまのようになられたかを伺いたいと思います。いつ頃からジャーナリストを目指すようになりましたか?
門田隆将氏: 私は、小学校4年の時からジャーナリストになろうと思っていたんです。スポーツをするのも見るのも大好きで、よく高知新聞のスポーツ面を読んでいたんですが、自分がその試合を見て感じたことと、スポーツ面の記事が違う。そのころからスポーツ欄の注目の記事のスクラップを始めました。そうすると、小学校高学年から中学生になっていくにつれて、「やはり違う」という違和感が強まっていった。
私は色々な本も読んでいて、雑誌の『ボクシングマガジン』も定期購読していたんです。そうしたら中2か中3くらいの時に、ハワイで行われた世界ジュニアライト級タイトルマッチのベン・ビラフロア対上原康恒の試合で、上原がベン・ビラフロアの左の強烈なアッパーをくらって、2ラウンドでノックアウトされた。私は、「上原ほどの男が何でやられたんだろう」と、釈然としなかったんです。私は、上原は勝てると思っていた。確かにパンチ力はビラフロアが上かもしれないが、上原もパンチ力はあるし、テクニックで言えば上原が数段上だった。新聞にも試合の解説は出たのですが、納得できるものはなかった。
すると、数週間後に届いた『ボクシングマガジン』でノンフィクション作家の佐瀬稔さんが、その試合をレポートしていたんです。たった4、5分で終わった試合について、佐瀬稔さんが5ページか6ページにわたって大レポートを書いていた。私はそれを読んだ時にびっくりしたんですね。「ああ!」って。「これこそがジャーナリズムなんだ」という風に思いました。