「こっちこっち」と流されて、初志貫徹の漫画家に
うどん県・香川出身の喜国雅彦氏は、長年連載された「傷だらけの天使たち」で人気を博するギャグ漫画家でありながら、「本棚探偵」シリーズで知られる無類の古書好き、ヘビーメタル好き、マラソン好きなど、多方面に活躍の場をもつ才人。素直に人の言葉を聞いて、子どものころからの予定通り漫画家に。愛妻で自身も漫画家である国樹由香さんとのエピソードも飛び出して、「あきらめない男キクニ」の真骨頂もわかる。
すでに絵で食っていた子ども時代
――喜国さんは、漫画家以外にフルマラソンもなさっていますが、最近は主にどんなご活動をなさっているのですか?
喜国雅彦氏: 日本の各地を走って連載していた『キクニの旅ラン』がこの三月に出版されました。それから四月には、ヘヴィ・メタル専門誌『BURRN!』に23年間連載していた『ROCKOMANGA!』が出る予定になっています。この作品は長期連載だったので、古いネタが新しい読者にわかるように各作品に解説もつけました。そのとき、自分でもオチの意味を忘れているのがあったのですが、Twitterでつぶやいたら、わざわざ調べてくれた方がいて、すごく有難かったです。
――長年いろいろな作品を世に出してこられた喜国さんの原点は、すでにご幼少のころにあったのですか?
喜国雅彦氏: 僕はひとりっ子だったので一人で遊ぶしかなかったのでしょうね。もの心ついた頃には、すでに絵を描いていたようです。近所に一人、絵の上手な子がいて影響されたのか、好きとか描こうとか思う前に描いていた感じですね。幼稚園の時、高松市内から農村部に引っ越したのですが、転校初日は友だちもいないので、しかたなく休み時間に絵を描いていたんです。するとみんなが集まってきて、「すごい」「上手」と言って、僕が描いた漫画を次々に持って行くんです。その代わりにビー玉やメンコをもらって、ここで社会の成り立ちを覚えました。絵を描くといいことがある。欲しいものが手に入る。そのときのそういう思い込みがその後も絵を続けさせ、そのままここまで来てしまったと。
――小学生にして、すでに自分の職業が決まったんですね。
喜国雅彦氏: そうですね、七夕の短冊には「漫画家か本屋さんになりたい」と書いたのを覚えています。昔はいろんな年代の子が一緒に遊びましたが、絵が描けたおかげでガキ大将の横っちょあたりに参謀みたいな感じでくっついていられたんです。漫画で読んだ知識を使って「こんな遊びどうでしょう?」とか「こんなルールどうやろう?」って、これまでの遊びにアレンジを加えて提案すると、「お前はいいアイデアを出すから、ここにいろ」と言われて、パシリにされずにすみました。
とまあ、こんなふうに遊びの中で、昔の子どもは社会の仕組みを学んだものです。それも絵のうまさというよりは、漫画の力でしょうね。小学校の高学年のころ、すごく絵の上手な子がいたんですけど、彼の絵はきれいな風景画でまじめな絵なんです。小学生だとやっぱり「サイボーグ009」とか「巨人の星」のような漫画の方が、人気者になれました。
美術の先生に言われて多摩美に進学
――ご出身は多摩美術大学ですが、美大に進まれたきっかけは何だったのですか?
喜国雅彦氏: 漫画家になりたいといっても、実際になれるとは思わなかったので、高校2年までは自分は文系に進学するものだと思っていました。でも僕の学校に、香川では有名な美術の先生がいて、自分の教え子を美大に行かせて、みんなでグループ展をやろうと計画していたんです。田舎の普通高校なのに、多摩美の合格者数が全国トップクラスで、僕らの年は7人も入りました。
その先生に「美大にいかないか?」って言われたから、「目指してみようかな」と思ったんです。いろんな賞をもらって、外国でも賞をもらうような人が言うなら、行けるのかなと。とはいえ、高校2年の後半まで何にもしていなかったので、急いで美術部へ入って、1年間、死にものぐるいで描きました。スパルタでしたね。高校3年になったら、普通の授業も出ずに朝から学校の門を乗り越えて入って、部室で毎日ずっとみんな競い合うように絵を描いていました。担任の先生も「お前今日授業に来ていたのか」「あんまりおおっぴらにさぼらないようにね」なんて言って理解があったんです。もっとも誘った美術の先生からは後になって「お前が受かると思わなかった」って言われましたけど。
――美大の受験はすんなり合格できないほど難しくて、普通は美術予備校などに行って何年も準備すると聞きますが、進路を決められたのが1年前だったのですか?
喜国雅彦氏: 受験の時はびっくりしました。先生や先輩から聞いてはいたんですけど、東京の予備校にいた人の中には10浪の人もいて、受験生の絵のレベルじゃない。そういう人の絵と僕等の絵が並ぶと、明らかにうまさでは負ける。ただし、先生は、絵の良さはそこじゃないから、泥臭く一生懸命やれと言っていました。そこが絵や音楽がスポーツの勝ち負けとちがうところで、熱がこもっていれば泥臭い絵が上手な絵に勝てたりするんだと。
美大の受験生って、一教室25人ぐらいなんですが、退室のときに黒板の下に全員の作品を受験番号順に並べるんですよ。それを教授たちが見て、合格者を選ぶんですが、繊細できれいな絵の横に、ダーッって塗り込めたような激しい絵があったら、きれいな絵って死ぬんですよ。だから先生は「泥臭くやれ」って言った。その通りに「泥臭く、泥臭く」って言いながら絵を描いた泥臭組が全員合格しちゃったんです。
僕は受験の時、自分よりうまいやつの受験番号と名前を覚えていたんですけれど、みんな落ちていました。美大側も、ある意味完成されている子を教えるよりは、泥臭い絵をどういうふうに方向づけるかという方が、教授たちも面白いと思うんです。僕は、「これでちょっとだけ漫画家に近づけたかも」と思いながら美大に行ったんです。
――そうすると、美大に行ったのも戦略的な選択だったのですか?
喜国雅彦氏: いや、むしろ結果ですね。人気者になろうと思って絵を描いたわけじゃなくて、絵を描いていたら人気者になった。先生が「美大に行け」と言ったので、「じゃあ行こうかな」と受験した。流されていると言えば流されているんですが、それぞれの場面で「やっぱりこれしかないよね」との思いもありました。
著書一覧『 喜国雅彦 』