吉村作治

Profile

1943年東京都生まれ。66年、アジア初の早大エジプト調査隊を組織し現地に赴いて以来、50年以上にわたり発掘調査を継続、数々の発見により国際的評価を得る。05年1月には未盗掘・完全ミイラ「セヌウ」を、07年10月にはエジプト学史上非常に珍しい「親子のミイラ」が埋葬されている未盗掘墓を発見し、大きな話題となった。そして、09年2月には、ラムセス2世の孫王女の墳墓を新たに発見した。11年6月、第1の石蓋引き上げに成功した、古代エジプト最古の大型木造船「第2の太陽の船」を発掘・復原するプロジェクトにも、全世界からの注目が集まっている。大好評のもと終了した、『早大発掘40年展』と『新発見!エジプト展』の2つの展覧会に続き、新企画『吉村作治の古代七つの文明展』を、2011年6月から福岡市博物館を皮切りに開催し、現在、全国を巡回中。

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人生は「生まれてから死ぬまでの旅」


――移動の連続ですね。地球を股に掛けて。


吉村作治氏: そうですね。エジプトと日本の間っていうのは、約1万キロ。年末から年始にかけてある人物、に会うためにニューヨークに行っていました。その人物は「クリスマスの休み以外には、僕と会えない」って言うから。それもまた約1万キロでしょ。だから、このふた月の間に2万2、3千キロ移動してることになりますね。

――そういう移動の連続だと、体力的負担も大きいのではないですか?


吉村作治氏: 全くそれはないですね。じっとしてるのも、移動してるのも同じなんです。要するに、飛行機での移動時間は、空中に浮いてると思えば良い訳ですから。疲れる時もありますけど。それは東京に居ても同じなんです。移動してるから疲れてるんじゃなくて、生きてることが疲れることだから。(笑)



僕は、旅が好きなんです。人生も旅、生まれてから死ぬまでの旅ですから。そういう面では自分のやりたいことをやっている旅ですね。もう著作も300冊以上書いていますが、好きだから書いています。テレビに関しても、話したり人に伝えるのが好きだから出てるんです。講演会は日本に帰ってきてから4000回位でしょうか、日本でね。これも、話すのが好きだから。で、自分のやったこと、考えたことを、知ったこと皆さんにお話して。

講演料頂いて、そのおかげで発掘出来て。その発掘からまた、新しい話が出来て。また、皆さんにお話が出来る。こんな良い循環はないんじゃないかと僕は思っています。

――私のような凡人からすると、うらやましい限りです。


吉村作治氏: いや、僕は凡人ですよ。だって、天才的な人の考えるようなことって、考え付かない。非常に普通の考えの持ち主。そういう面で、子どもの時から優れてなかったですからね。

吉村先生の幼少期~エジプトと関わるような運命だった~


――どんな幼少期を過ごして、「エジプト考古学者、吉村作治」は形成されていったのでしょうか?

 

吉村作治氏: 生まれた時はさすがによく分かんないですけど。(笑)小学校の4年生の時に、『ツタンカーメン王のひみつ』というハワード・カーターの伝記を読んだんです。「これは面白そうだな、エジプト行こう。」と思いました。今、もうあと二週間(2013年2月1日)で70歳になりますけれども、それから実際エジプトに行くことになる今から47年前22歳までの間は準備期間 (笑)それを含めると60年間、一生のうちの大半をエジプトに携わって過ごしてきたなぁ。

――まさに幼少期は、その後の運命のための準備期間なんですね。


吉村作治氏: 本当に運命だと思います。その後に出会ったものが積み重なって、今の日本のエジプト考古学が作られてきたわけです。今、日本でエジプト考古学を研究している学者は、私の弟子で約20人います、その他に研究されている方はいらっしゃいますけども。それは、皆本を読んで研究してる人達で。私の20人位のグループが唯一の実際に現場で発掘調査をやっているグループですね。

皆世界中に認知されてるとても優秀な若者ですね。僕は凡人だからきっと皆優秀な人が集まってくるんだろうと思いますけど。不思議な世の中です。

早稲田大学時代に当時の総長の大濱信泉先生にエジプトに行く話をしたときです。唐突に言ったもんだから、大濱総長に理由を聞かれたんですね。日本にエジプト学を広めたい事と、早稲田にエジプト学の研究所を作りたい旨を伝えました。大濱総長は、「やれるもんならやってみろ」と。そういったやり取りをしたわけですが、出来っこないからやめろと言っているのかと勘違いしてしまったんですね。「じゃあやってやろう」と。それで仲間集めてそれから約3年かけて初めてエジプトに行くことができたんですよ1966年、9月のことです。

一緒にエジプトに行った5人の仲間のうち4人は、つまり僕以外みんな大学卒業して就職したんです。僕は大学に残ってもしょうがないから、カイロ大学に留学することにしました。カイロ大学には13年いたわけですが、恩師が亡くなったので、早稲田に戻って来ました。運命にただ逆らわずに生きてるだけ、非常に平凡な人生を送ってきたんです。

――しかし、確実にエジプト学のキャリアを積み上げてきたわけですね。


吉村作治氏: 非常に運が良いですよね。エジプト行って一生懸命努力してやっと発掘権を取得したのですが、今度は普段生きるための生活費を稼がなければなりません。発掘だけが目的であれば、必ずしも自分が研究者でいる必要はないのです。そんな時、ある新聞社のカイロ支局が開設されることになり、応募したんですよ。結果は、合格。けれども、その日に恩師の訃報を聞くこととなり、大学から戻っておいでと連絡が来たんです。「大学取るか、新聞社取るか。」という選択をしなければなりません。

僕は、新聞社取らないで大学取ったんですよ。それは、当然大学からのオファーだから専任講師のポストが用意されているのかと思いきや、非常勤講師だったんですよ。給料が当時で月1万2千円。夏休みと冬休みはもらえないっていう絶望的な状況なんですよ。だから、月6千円位だってね。そんなような状況でバカ見たって皆言うんだけど。僕は、その月に1万2千円しかもらえないんだし。1コマだけ授業すれば、後は自由なんだから。勉強も出来るしアルバイトも出来ると考えたのです。で、お金かせぎと番組の作り方の勉強の為にテレビ局でアルバイトしてたんですよ。で、それがテレビを作ったり出演したりする原点です。

そのアルバイト経験を活かして僕、ずっと記録を撮っています。もし常勤の専任講師だったらそんなこと出来なかったと思います。そういう自由な時間のおかげで、記録も出来るし皆がどうやったら喜ぶかって事も勉強できたわけです。その内、「そうか、テレビは作るより自分が出た方が良いな」と、いよいよメディアに登場するわけです。今から20年位前は、メディアに出た、つまり顔が知れるようになった大学の先生たちは議員になる傾向がありましてね、、僕にもお声がかかってきました。選挙に出ませんか!という熱いラブコールを頂いたわけです。(笑)

――でもエジプトに身も心もささげていた先生は・・・。


吉村作治氏: うん、当然出ません。こんな面白いことやってるのに、やめたくないという気持ちが強くありました。けれども、政治家という仕事の重要さや大変さもわかるし、尊敬する部分もある。せっかくのお願いを無下に断ることは、性格上できないんですね。

ただ、そういうお声が多方面から掛ってきて、メディアの方々も「いつ出るのか」と質問攻めにされて困っていたのです。僕は思い切って、記者会見を開くことにしました。そこで「実は出馬しません」と、出馬ならぬ「不出馬宣言」をしました。新聞記者の人達は、当然出馬するから会見を開いたと思って来てくれたわけですね。「出馬しないのに記者会見やるなっ」て怒られましたけどね。

――それはちょっと怒られるかもしれません。(笑)


吉村作治氏: 毎日のように電話かかってて。だから、皆集めて「出ません!」って言った方が早いじゃない。まあ出馬しなかったおかげで今でも、エジプトの研究、発掘ができるのですから良かったと思っています。そういう意味でも、エジプトと共に生きるような運命だったのでしょう。

――常に、エジプトへの情熱で動いてきた。お金よりもエジプト。


吉村作治氏: そうそう。「人生、お金じゃない」。エジプト調査の47年間で100億円位使ったんですよ。今まで稼いだ金もすべて注ぎました。だから、私は今でもアパートに住んでいます。家も持ってません。

このビルも借金で建てました。当時、大学は定年退職になると同時に研究室が無くなっていたのです。研究の拠点であると同時に、エジプト研究者のシンボルでもあるわけです。今は、制度が変わり、定年後は室代を払えば研究室を持てる時代になりました。シンボルがあって、尚且つ大学の中にも研究室持って、大変ラッキーだと感じています。

――今までの功績の賜物だと思いますが。


吉村作治氏: 何事も明るくね。ポジティブに見てくと、そういう風に人生回ってくんです。悲観したら終わりなんです。

著書一覧『 吉村作治

この著者のタグ: 『海外』 『生き方』 『可能性』 『研究』 『メディア』 『研究者』 『遺跡』 『時のデザイン』

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