吉村作治

Profile

1943年東京都生まれ。66年、アジア初の早大エジプト調査隊を組織し現地に赴いて以来、50年以上にわたり発掘調査を継続、数々の発見により国際的評価を得る。05年1月には未盗掘・完全ミイラ「セヌウ」を、07年10月にはエジプト学史上非常に珍しい「親子のミイラ」が埋葬されている未盗掘墓を発見し、大きな話題となった。そして、09年2月には、ラムセス2世の孫王女の墳墓を新たに発見した。11年6月、第1の石蓋引き上げに成功した、古代エジプト最古の大型木造船「第2の太陽の船」を発掘・復原するプロジェクトにも、全世界からの注目が集まっている。大好評のもと終了した、『早大発掘40年展』と『新発見!エジプト展』の2つの展覧会に続き、新企画『吉村作治の古代七つの文明展』を、2011年6月から福岡市博物館を皮切りに開催し、現在、全国を巡回中。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

大事なのは人生を楽しむ「時のデザイン」ができること



日本を代表するエジプト考古学研究者である吉村作治先生。長年、テレビや書籍、その他多くのメディアで、エジプト考古学の魅力を紹介してくれています。世界をまたにかける先生の移動距離は軽く地球を200周したといいます。「動いていてもじっとしていても、疲れ方は同じ」そんな活動的な吉村先生のエジプトに対する情熱、仕事、人生観、そしてもちろん電子書籍についても、お伺いしてきました。

発掘人生初めての怪我


――早速ですが近況・・・(両手に松葉杖をついた先生が登場)先生、その怪我は!?


吉村作治氏: 私、今年でエジプト考古学に携わって47年目なんだけども。初めてね、怪我しちゃいました。今、第二の『太陽の船』というのを発掘しているのですが、それを保存処理をしてから復原をするという事をやっているんですね。大体10年位かけて行っているプロジェクトでして、大体半分位済んで部材を取り上げてそれを保存処理しようという段階だったのです。

その部材を取り上げる先頭に立って作業を行っていた時に、事故は起きました。小さなテントで、その下に幅が20メーター深さと長さが4メーター4メーター位の溝があるんですよ。ピットと言います。

そこに舟の部材が解体されて、埋設されています。その船の部材を空中に浮いているゴンドラに乗って上から取っていくんです。それの一番上に乗ろうとして岩盤の上から滑ったんですよ。それでそのままストンと落っこちちゃって。本当に奇跡的にですね、幸い舟も、部材も破損せずに済みました。足も、4メーターからの落下なら普通、足挫いたりしますが、右足のくるぶしの所を捻挫、それから、じん帯を損傷しただけで済んだんです。

――そんなときでも一番は発掘の部材ですか!木材の方には何もなかったという言葉に、本当に並々ならぬ愛情を感じます。


吉村作治氏: そう、それが一番大事なの。(笑)落ちながらどうしようかって、壊したらどうしようかとかね。考えましたけど。上手く避けられました。

――普通ならまず自分の命が第一じゃないですか。命に関わることですし。4メーターって言ったら。


吉村作治氏: 遺物の方が大事でしょ。命よりも。

――はー(感嘆)


吉村作治氏: それで、足を挫いてうずくまっている所をゴンドラが助けに来るわけですが、ともかく、「一つ目は僕が取り上げなきゃいけないっ」と思って。怪我したまんまですが、取り上げました。「残りは任せた」と現場の主任にお願いして、そのまま救急車で病院に運ばれたんですよ。

――本当に「転んでもタダでは起きない」んですね。エジプト魂を感じます。


吉村作治氏: 何のために行ったか分かんなくなっちゃうので。それよりも事故をして、自分がその場に居ないほうが残念です。47年で一度も現場で怪我したことなかったんですよ。

――今回のような怪我や事故は、現場では頻繁に起こるものなんでしょうか。


吉村作治氏: 現場という性質上、やはりそういうことはままあります。大体皆、穴に落っこちるんですよ。それを見て皆は「へへん、バカな奴だ」と思ってたのと同時に、そこで一人前の普通の考古学者として認められるようなところもあるんです。今まで「吉村作治は落ちない」という伝説があったのですが、今回の件で、ようやく僕も一人前の普通の考古学者になることができて気が楽になりました。(笑)

――吉村先生らしいポジティブジョークですね。




吉村作治氏: まぁ、まじめに考えると、慣れから来る油断でしょうね。われわれ研究者が遺跡の発掘現場に入る場合は、かなり気をつけているんです。たとえば生きている人間はばい菌とか細菌とかいっぱい持っています。我々研究者が菌を持って遺跡にうつしちゃいけないから、白衣にマスク、眼鏡と手袋をして。靴にはビニールをかけて行うという念の入りようです。

でもそれが、良くなかったのでしょう。今回の船の材料は木でできているのですが、木っていうのは湿気を高く保たないといけません。作業場では大体、85パーセントから90パーセントの湿気を保たせています。その状況下でビニールに覆われた地面を、ビニールの袋をかぶせた靴で歩くわけです。湿度が高いので、岩に汗かいてる訳ね。岩って冷たいでしょ?すると、温度が高くて湿度が高いから露の状態でそこに滑っちゃった。だからそこはやっぱり、慣れてるとは言えそういうことは知ってるんだから、気をつけないといけませんでしたね。

――では、普段から危険な状態で、作業されていたのですか。


吉村作治氏: そういうのを知った上でやったから、それは危険ではなかったんです。逆に、危険じゃないものって世の中にないから、全部危険とも言えます。13メーター下のピットでの発掘作業もたくさん経験してきたけれど、一度も落ちたことなかったんですね。もちろん、ちゃんと命綱をつけたり対策は講じていたのですが。4、5メーターっていう油断もあったんでしょうね。

――周りは大騒ぎになったのではないですか?


吉村作治氏: 僕が心配するぐらい、周りは大騒ぎでしたよ。でもね、僕で良かった。他の人だったらそんな上手く対処出来なかっただろうし。それに、事故をしてしまった人の損害賠償の問題も出てくるでしょ?自分自身には損害賠償申し立てられないですからね。それに一番大事なのは、今回の事故で、危ないってことが認識されて皆が気をつけるようになったことです。やっぱり、自らが証明するのが良いんですよ。他の人じゃまずいです。

――先生、笑い事にされてますが。


吉村作治氏: そうそう、笑い事。それで、帰って来たのが土曜日でしょ。家の近所で日曜日に診療をやっているところが一箇所だけ見つかったので行きました。そこで、エジプトの病院で撮ったレントゲン写真と新たに撮った写真と見比べて、骨に異常が無いか確認してもらいました。「異常なし」ということで、「ああ良かった」と思った途端、急に足が痛くなりました。(笑)

そしたら、次の日雪なんです。自宅と仕事場であるここエジプト考古学ビルを、丁度この松葉杖で雪の中、2往復しましてね。それは、自分でも偉いなと思いましたけど。また、明日に大阪行かないといけません。

人生は「生まれてから死ぬまでの旅」


――移動の連続ですね。地球を股に掛けて。


吉村作治氏: そうですね。エジプトと日本の間っていうのは、約1万キロ。年末から年始にかけてある人物、に会うためにニューヨークに行っていました。その人物は「クリスマスの休み以外には、僕と会えない」って言うから。それもまた約1万キロでしょ。だから、このふた月の間に2万2、3千キロ移動してることになりますね。

――そういう移動の連続だと、体力的負担も大きいのではないですか?


吉村作治氏: 全くそれはないですね。じっとしてるのも、移動してるのも同じなんです。要するに、飛行機での移動時間は、空中に浮いてると思えば良い訳ですから。疲れる時もありますけど。それは東京に居ても同じなんです。移動してるから疲れてるんじゃなくて、生きてることが疲れることだから。(笑)



僕は、旅が好きなんです。人生も旅、生まれてから死ぬまでの旅ですから。そういう面では自分のやりたいことをやっている旅ですね。もう著作も300冊以上書いていますが、好きだから書いています。テレビに関しても、話したり人に伝えるのが好きだから出てるんです。講演会は日本に帰ってきてから4000回位でしょうか、日本でね。これも、話すのが好きだから。で、自分のやったこと、考えたことを、知ったこと皆さんにお話して。

講演料頂いて、そのおかげで発掘出来て。その発掘からまた、新しい話が出来て。また、皆さんにお話が出来る。こんな良い循環はないんじゃないかと僕は思っています。

――私のような凡人からすると、うらやましい限りです。


吉村作治氏: いや、僕は凡人ですよ。だって、天才的な人の考えるようなことって、考え付かない。非常に普通の考えの持ち主。そういう面で、子どもの時から優れてなかったですからね。

吉村先生の幼少期~エジプトと関わるような運命だった~


――どんな幼少期を過ごして、「エジプト考古学者、吉村作治」は形成されていったのでしょうか?

 

吉村作治氏: 生まれた時はさすがによく分かんないですけど。(笑)小学校の4年生の時に、『ツタンカーメン王のひみつ』というハワード・カーターの伝記を読んだんです。「これは面白そうだな、エジプト行こう。」と思いました。今、もうあと二週間(2013年2月1日)で70歳になりますけれども、それから実際エジプトに行くことになる今から47年前22歳までの間は準備期間 (笑)それを含めると60年間、一生のうちの大半をエジプトに携わって過ごしてきたなぁ。

――まさに幼少期は、その後の運命のための準備期間なんですね。


吉村作治氏: 本当に運命だと思います。その後に出会ったものが積み重なって、今の日本のエジプト考古学が作られてきたわけです。今、日本でエジプト考古学を研究している学者は、私の弟子で約20人います、その他に研究されている方はいらっしゃいますけども。それは、皆本を読んで研究してる人達で。私の20人位のグループが唯一の実際に現場で発掘調査をやっているグループですね。

皆世界中に認知されてるとても優秀な若者ですね。僕は凡人だからきっと皆優秀な人が集まってくるんだろうと思いますけど。不思議な世の中です。

早稲田大学時代に当時の総長の大濱信泉先生にエジプトに行く話をしたときです。唐突に言ったもんだから、大濱総長に理由を聞かれたんですね。日本にエジプト学を広めたい事と、早稲田にエジプト学の研究所を作りたい旨を伝えました。大濱総長は、「やれるもんならやってみろ」と。そういったやり取りをしたわけですが、出来っこないからやめろと言っているのかと勘違いしてしまったんですね。「じゃあやってやろう」と。それで仲間集めてそれから約3年かけて初めてエジプトに行くことができたんですよ1966年、9月のことです。

一緒にエジプトに行った5人の仲間のうち4人は、つまり僕以外みんな大学卒業して就職したんです。僕は大学に残ってもしょうがないから、カイロ大学に留学することにしました。カイロ大学には13年いたわけですが、恩師が亡くなったので、早稲田に戻って来ました。運命にただ逆らわずに生きてるだけ、非常に平凡な人生を送ってきたんです。

――しかし、確実にエジプト学のキャリアを積み上げてきたわけですね。


吉村作治氏: 非常に運が良いですよね。エジプト行って一生懸命努力してやっと発掘権を取得したのですが、今度は普段生きるための生活費を稼がなければなりません。発掘だけが目的であれば、必ずしも自分が研究者でいる必要はないのです。そんな時、ある新聞社のカイロ支局が開設されることになり、応募したんですよ。結果は、合格。けれども、その日に恩師の訃報を聞くこととなり、大学から戻っておいでと連絡が来たんです。「大学取るか、新聞社取るか。」という選択をしなければなりません。

僕は、新聞社取らないで大学取ったんですよ。それは、当然大学からのオファーだから専任講師のポストが用意されているのかと思いきや、非常勤講師だったんですよ。給料が当時で月1万2千円。夏休みと冬休みはもらえないっていう絶望的な状況なんですよ。だから、月6千円位だってね。そんなような状況でバカ見たって皆言うんだけど。僕は、その月に1万2千円しかもらえないんだし。1コマだけ授業すれば、後は自由なんだから。勉強も出来るしアルバイトも出来ると考えたのです。で、お金かせぎと番組の作り方の勉強の為にテレビ局でアルバイトしてたんですよ。で、それがテレビを作ったり出演したりする原点です。

そのアルバイト経験を活かして僕、ずっと記録を撮っています。もし常勤の専任講師だったらそんなこと出来なかったと思います。そういう自由な時間のおかげで、記録も出来るし皆がどうやったら喜ぶかって事も勉強できたわけです。その内、「そうか、テレビは作るより自分が出た方が良いな」と、いよいよメディアに登場するわけです。今から20年位前は、メディアに出た、つまり顔が知れるようになった大学の先生たちは議員になる傾向がありましてね、、僕にもお声がかかってきました。選挙に出ませんか!という熱いラブコールを頂いたわけです。(笑)

――でもエジプトに身も心もささげていた先生は・・・。


吉村作治氏: うん、当然出ません。こんな面白いことやってるのに、やめたくないという気持ちが強くありました。けれども、政治家という仕事の重要さや大変さもわかるし、尊敬する部分もある。せっかくのお願いを無下に断ることは、性格上できないんですね。

ただ、そういうお声が多方面から掛ってきて、メディアの方々も「いつ出るのか」と質問攻めにされて困っていたのです。僕は思い切って、記者会見を開くことにしました。そこで「実は出馬しません」と、出馬ならぬ「不出馬宣言」をしました。新聞記者の人達は、当然出馬するから会見を開いたと思って来てくれたわけですね。「出馬しないのに記者会見やるなっ」て怒られましたけどね。

――それはちょっと怒られるかもしれません。(笑)


吉村作治氏: 毎日のように電話かかってて。だから、皆集めて「出ません!」って言った方が早いじゃない。まあ出馬しなかったおかげで今でも、エジプトの研究、発掘ができるのですから良かったと思っています。そういう意味でも、エジプトと共に生きるような運命だったのでしょう。

――常に、エジプトへの情熱で動いてきた。お金よりもエジプト。


吉村作治氏: そうそう。「人生、お金じゃない」。エジプト調査の47年間で100億円位使ったんですよ。今まで稼いだ金もすべて注ぎました。だから、私は今でもアパートに住んでいます。家も持ってません。

このビルも借金で建てました。当時、大学は定年退職になると同時に研究室が無くなっていたのです。研究の拠点であると同時に、エジプト研究者のシンボルでもあるわけです。今は、制度が変わり、定年後は室代を払えば研究室を持てる時代になりました。シンボルがあって、尚且つ大学の中にも研究室持って、大変ラッキーだと感じています。

――今までの功績の賜物だと思いますが。


吉村作治氏: 何事も明るくね。ポジティブに見てくと、そういう風に人生回ってくんです。悲観したら終わりなんです。

必要以上のお金はいらない。大事なのは人生を楽しむ「時のデザイン」ができること。


――悲観したら終わり。


吉村作治氏: うん。どんな偉い人だって、どんなにジタバタしても皆死んでく。死ななかった人間はいません。ハワード・カーター(ツタンカーメン王墓発見者)だって、死ぬんだから。僕にしても、当然死ぬ訳です。死ぬまで時間を、どうやって生きていくか。どれだけ自分の為に、尚且つ社会の為になっているかという観点からみると、金儲けなんてバカみたいな話。だって必要以上のお金は要らないんです。お金持ちと呼ばれる人たちが、お金を独占するから困る人が出てくるんです。

ほかにお金に困る理由は、入るお金より出るお金が多いこと。僕は入ったお金だけ使ってるから、全然困りません。年間、数億円を稼いだこともありますが、そういう時は、その入ったお金数億円分発掘をします。数千万円の時は、その金額分だけ、やれば良いんです。別にね、背伸びすることもなければ、見栄を張ることもありません。一生懸命必要なお金を稼ぐって言うのは良いと思います。だけど、それ以上のもの、「お金がお金を呼んで」というのにも懐疑的です。また、僕は投資もやらなければ、博打もやりません。与えられてる運はある程度決まっているとすれば、そういうもので運を使うのはもったいない。ここぞという時に、運という切り札を使うわけです。だから、現役のエジプトの考古学者で未盗掘の墓を5つも見つけることができたのだと思います。(笑)

――運は、ここ一番の情熱の対象に傾けるべきだと。先生の人生観とはどんなものなのでしょうか。


吉村作治氏: 現実が、今が一番大事なんですよ。「時のデザイン」って僕は言うんだけど、時間は宝物なんですよ。しかし時間というものは自然界にあるもんじゃないんです、人間が作った概念なんです。それをどうやってデザインするか。僕は演劇や映画が大好きですが、時間をやりくりしてよく見ます。他にも1年間に4回から5回は歌舞伎も見ます。宝塚にも行きます。僕は劇団四季の大ファンで、ミュージカルも大好きです。ニューヨークで会議がある時は、ブロードウェーにも立ち寄ります。昨年末も3回見ました。

人間っていうのは、専門領域を軸に、その他の領域のこともやって初めてひとつの人格が形成されると思います。他の事も楽しめないのは、生まれてきてもったいないと思うんですよ。だから、料理も、部屋のデザインも、洋服のコーディネイトも全部自分でやって、それ自体を楽しむことにしているんです。

電子書籍もツールの一つ



吉村作治氏: 自分に纏わるすべてが、人格なんです。これが欠けてしまうと、相手は「どうも付き合っててやだな、不愉快だな、あんまり付き合いたくないな」と思われる人になってしまいます。だから、人様から付き合いたいと思われるような人にならなきゃいけない。自分に関わるあらゆることをきちっとやる。新しいこともどんどん挑戦する。電子書籍に関してもそう。

――もう既に、電子書籍も多数出版されていますね


吉村作治氏: 今まで300冊出版した本も全部電子化したい。吉村作治という、ひとつの塊として残したいですね。そのために、facebookもTwitterそしてニコニコ動画も、電子書籍も含め、もっといろんなツールを使って発信しないといけないと考えています。



多くの人達に支援されて、発掘をやってきたわけですが、そこから色んなことを考えて、勉強してきたことを皆さんにお知らせする。ご恩返しです。我々、社会的に発言力がある者の使命として、発信し還元することが大事だと思っています。僕の場合は、約1万年という歴史的な時間軸で研究しています。その1万年という観点から今の事象を解釈して、皆さんにお知らせしてます。本を出版したり、メルマガでも、あらゆるメディアを通して、研究を通して考えていることを発信しています。これは、実は早稲田大学の祖でもある、大隈重信先生の「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」の理念なんですね。そういう部分でのメディアへの露出もしています。

――まさに、時間をデザインし、楽しみながら、社会に還元する。大変だなと思ったことは・・・。


吉村作治氏: ないですね、スイスイやってます、楽しいから。通常、朝5時に起きて、6時半位から書いたり読んだりがスタートします。その日の仕事は、大体10時半か11時前に終るようにしています。TwitterやFacebookの発信なども、この時間に終わらせます。午後からはこういうインタビューを受けたり、人に会ったりしています。

教育者として、書き手として見る電子書籍の可能性



吉村作治氏: 電子書籍のメリットは、環境に良いこと。紙を使わないので、木の伐採が減る。資源枯渇するって言われるけど、枯渇するんじゃなくて、させるんですよ。人間が。同時に制作にかけるコストを他の部分に回すことができます。手間もカバーできる部分がある。本を、本として維持するコストも、つまり在庫の問題もクリアできますね。

――研究者として古い文献にあたることも多いと思いますが。


吉村作治氏: そう、電子書籍には期限がないんです。絶版の問題。古書店にしても店舗が無くなってしまう可能性もある。期限がないものっていうのはあんまりない中で、電子書籍に関しては期限というものがなくなります。僕ら研究者が一番困るのは、大昔でなくてついこの間のものでも、参考文献がなかなか手に入りにくいことなんです。そういう面では、半永久的に残るのは電子書籍の可能性の一つではないでしょうか。

便利だけれども、注意して付き合ったほうがいい



吉村作治氏: どこにいても、アクセスが可能というのも魅力ですね。しかし、この便利さには注意して付き合っていかなければなりません。現代では、インターネットが整備されていて、辞書から何から全部手に入って、勉強しやすい環境が出来上がっているはずなのに、皆勉強しなくなっちゃうんです。僕達の時代には、コピーもないから、図書室にある本を参考にする時も、全部手書きで写して勉強していました。

――とりあえずキープ、はできないんですね。


吉村作治氏: そうなんです。だから、よく読み込んで必要な所だけ手書きでノートやメモをとります。書き込んだ時にさらに理解していきます。そうして自分でまとめたものを、使う。その三段階を経るわけです。するめみたいに三度美味しいってことなんです。

インターネット上の百科事典も革命的ですが、そうした経緯をすっ飛ばして、情報にダイレクトに到達できてしまいます。それだけ人間の努力とかやる気がイージーになって、勉強しなくなるんですよ。大学で教本を捨てた理由は、提出することを目標とせず、勉強を通して身につけるためなんです。身についていないまま提出するということは、ある意味、不良品を出しているんです。自分の知識として習得してはじめて、誠実な商品だと言えるのではないでしょうか。

値がつくかつかないかは別として発表って商品ですからね。だから、ちょっと乱暴な言い方になるけれども、今の不良品を垂れ流す教育システムっていうものに対して、警鐘を鳴らしたい。

――先生は、先駆けて講義を収録してインターネット上で閲覧できるようしましたが、教育という観点から電子媒体の可能性をお伺いします。


吉村作治氏: 小学1年生が、初めて学校に行って、教科書をぱっと開けた時に、そこに広がるね、紙のにおいとインクのにおいに包まれた字と絵の世界。それは大事にしたいものです。知的なものに興味を持つ。大事ですよ。だから、小学生の時代に教科書を紙でやるのは賛成なんです。それ位は大した数じゃないから。

小学校、中学校の間は紙媒体で良いと思います。けれども、高校からは、教科書はもう電子媒体にした方が、ぐっと可能性は高まると思います。大人の場合でも、すぐ読みたい本などは、電子書籍にして、僕の本も含め、安く皆に読んでもらえることが大事だと思いますね。

様々な知へのアクセス方法



吉村作治氏: 読書自体に言及すると、もっと本を読まないとだめ。人間ひとりが、世の中に知り合える人数なんて、一生で1000人が良い所ですよ。本だったらね、万単位。10万冊読めますよ。著者の考えに触れ合えるという意味では、10万人に会う事と等しいと思っています。

また図書館の可能性も広がると思いますよ。元々、図書館という存在は古代エジプトが原点なんです。ムセオンって言いいます。ムセっていうのはミューズという知的なエンターテイメントのギリシアの女神で、英語のミュージアムにあたりますが、楽しみの伝道、智の伝道ということなんです。本来図書館は、博物館的でもあるわけです。だから、図書館も今後はコーヒー飲みながらゆっくりできる、電子媒体も活用して楽しみの殿堂の場所になれば良いと思います。図書館の方が静かだし、環境良いんですから。図書館の役割はもっと、可能性が広がります。もっと人が来ますよ。

映画館も劇場も同じ。ライブ自体の重要性は今後も変わらないと思います。例えば、1ヶ月講演にしても、毎日違うんです。同じ演目を、同じ演者がやっていても違うものなんです。知とは、エンターテイメントと同義だと僕は考えています。日本の場合、エンターテイメントと言えばスポーツと芸能という感じですが、そんなことありません。読書や講演で知に触れることも、エンターテイメントなんです。

生き方、人生を「デザイン」する



吉村作治氏: 僕なんか今70歳でしょ?だから、頭がそれなりにしてて体が動いて、説得ある話が出来るのは後、10年だと思っていて、10カ年計画を立てています。80歳以降は、ゆったりと軽く流して死を待つという。良いことだと僕は思っています。

若い人も含めて、年寄りも含めて、死ぬってことを実感して無いんですよ。死ぬってことは生命が終わるだけじゃなくて、自分の世界における存在がなくなるということなんです。生き方をきちっと決めないで生きてる人、多いじゃないですか。それはそれで良いし、構わないんだけど、少し損だと思います。自分のやりたいことをきちっと自分の人生に組み込んでいってほしい。

例えば、僕は30歳の時に50歳で死ぬとしたら何と何をやる。で、40歳だったら60歳で死ぬ時に、という風に、今まで調整してきました。今70歳まで生きちゃったから、80歳になったらどうする、と考えている。けれども、それ以上は考えない。大事なことは、ただ命を存続させることじゃなくて、その自分が社会にとってどういう存在価値があるかっていうことを理解した上で、生きていかなきゃいかんと思っています。

――いかに生きるか。


吉村作治氏: それを啓蒙するのは、やはり世の中に向かって発言する人間の責務だと思うんですよ。本を出版したり、テレビに出演したり、ラジオで話したり、雑誌でインタビュー受けたり。それぞれの行為は、それなりに社会に自分の考えを影響させようという意図がある訳です。僕がとても嬉しく思うのは、僕自身がエジプトの伝道師であり、「エジプトは良いから一度はおいで」っていう想いだけじゃなくて、古代エジプト人が考え、行動した、その結果。それを皆さんに知らせることによって、自分の生き方や、日本の在り方、アジアの在り方を考えるきっかけになること。考える意識が環境を作っていきます。色んなメディアをもって皆に発信する。それが僕は大事だと思うんですね。



――今後の先生の展望をお聞かせ下さい。


吉村作治氏: そうですね。ともかく、あるもの全部吐き出す。アウトプットすると、脳の中に入ってるもので。それだけだとずっとカラカラになるから、また新たに入れなきゃいけない。仕入れと販売を一緒にやんないと。だから、もっともっと。今考えている目標は、1000冊書くこと。ただし大事なのは、本を売ることではなくて、もちろん読んでもらうこと。自分が考えていることを、みんなに広めたくて、知ってもらいたくてしょうがない。私には皆にどうやったらたくさんの人に読んでもらえるか、知ってもらえるかっていうことがとても大事なんです。電子化はそういう意味でも大きな可能性を秘めていると思います。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 吉村作治

この著者のタグ: 『海外』 『生き方』 『可能性』 『研究』 『メディア』 『研究者』 『遺跡』 『時のデザイン』

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
著者インタビュー一覧へ戻る 著者インタビューのリクエストはこちらから
Prev Next
利用する(会員登録) すべての本・検索
ページトップに戻る