肩書にとらわれず、プロとして今できることをする
彼のことを軍事ジャーナリストと呼べば、かつて自衛隊に籍を置いていたからかと思い、評論家と呼べば、その昔敏腕編集者として数々の問題作を世に問うた過去があればこそと思う。しかし潮匡人氏は、自身の仕事のスタンスを、「常にその時の情勢に応じて臨機応変に対応しているだけだ」と語る。執筆し、発言する場にまっすぐに取り組み、すべてに全力を尽くす姿勢にプロの誇りをみる。
母方に職業軍人、父方に法律家という環境で、自衛隊に入隊
――潮さんといえば、軍事ジャーナリストという印象をお持ちの方が多いと思います。どんな幼少期を過ごされたのでしょうか。
潮匡人氏: 母方の大叔父にあたる草鹿龍之介が大日本帝国の海軍の軍人で、連合艦隊の参謀長だったんです。だから子どものころからそういう映画や戦記ものによく触れる機会はありました。父方のほうは、私の父も祖父も曾祖父も、全部判事や裁判官なので、法律に関係することに自然と関心を持つようになりました。家には大量の本がありましたね。
――お父さまは書斎で仕事をなさることも多かったのではないでしょうか。
潮匡人氏: 裁判官というのは、出勤しないで在宅勤務をする「宅調日」というのがあったので、親が机に向かって専門書を読んだり、判決文を書いたりしている姿を見る機会が多かったですね。仕事の内容が特殊ですけれど。自分が苦学したせいで、子どもの本代は惜しまないというのが父の教育方針でした。昔の家は家督を継ぐ長男に対して教育費等の投資をするのが一般的だったので、二男だった父親は、働きながら夜間の学部を出て司法試験に受かったんです。法律関係の本を扱っている出版社で働いて、仕事の合間にそういう本を読んで勉強したようですね。そういう環境でしたので、私自身も本の好きな子どもで、高校生の時点で「新潮文庫の100冊」は全部読んでいたと思います。家の近所にあった本屋の本は大体読んでいたので、読む本がないような状態でした。
――潮さんも同じように法律家の道に進まれれば4代目になった可能性もあったのではありませんか。
潮匡人氏: 当初はその道に行くということを念頭に置いて早稲田大学の法学部に入ったんですが、あんまり授業に出なかったのと、大学3年の時に南青山に住んだりしたことや、大学入学時点で雄弁会という海部俊樹さんが所属していたサークルに入って幹事長をしていたことなどから、何となく普通の就職に対する抵抗感があったのだと思います。最終的に、当時としては極めて異例ですが、航空自衛隊に入隊したんです。
自衛隊の次は編集者として、話題本の出版に携わる
潮匡人氏: 自衛隊は、入ってみたら意外と面白かったですし、大学院にも行かせていただいたりしたので、当初とは違って、ここで偉くなって何らかの意味のある仕事をしたいなというような気持ちにはなっていました。なんだかんだと11年半ぐらいは在籍して階級的にも軍隊でいう少佐にあたる三佐まで行きました。仕事は、防衛庁広報紙の編集長をやっていたんですが、「私はこれで自衛隊を辞めました」っていう特集をドーンと打ち出したせいで、それが物議を醸したんですね。当時の朝日新聞が「変わる自衛隊」とかいうのが見出し社会面のトップ記事でそれを取り上げたように思います。いわゆる出る杭になってしまいました(笑)。ほかの普通の仕事では、航空総隊司令部というところで、例えば日米共同作戦計画等も担当していました。
――その後に、出版社に入られたのですね。
潮匡人氏: 自衛隊を辞めてからは、クレスト社という出版社に入って書籍編集の仕事をしました。割合ヒットを飛ばして平均10万部のベストセラーを出したので、産経新聞で、顔写真入りで異色の経歴の「業界の風雲児」として紹介されたこともあります。年に最低4冊の出版を3年続けました。
――当時のヒット作はどんなものがありますか。
潮匡人氏: 最初に一番大きく売れたのは谷沢永一さんの『こんな日本に誰がした』という、大江健三郎さん批判の本で、20万部を売りました。後に谷沢先生自身が毎日新聞の連載の中で私の名前を含めて明かされたことですので率直に申し上げると、あれは大江さんの著作をすべて私が読んで、批判すべきものをピックアップして、そろえた素材をもとに谷沢先生に語っていただいてつくった本なんです。あとはもうその流れで、勢いに乗って次から次へとそういう挑発的なタイトルがつく本ばっかりを出していたという感じでしょうか。
著書一覧『 潮匡人 』