形を変えながら「無条件の愛」を追求してきた
――今後の活動の展望を伺えますか?
水島広子氏: 私の人生は大体6年単位なんです。私が「無条件の愛」という概念に目覚めたのが12歳くらいで、18歳からの6年間は、私の人生の中では最も悩みの多かった時期であり、かつ、最も俗世間にかぶれていた時期です。慶應医学部に入った時、左翼少女だった私ですら権力志向になって、俗っぽくなった。体育会にも入ってビシビシしごかれましたが、合コンだ飲み会だナンパだ、マハラジャとかそういう時代でしたから。でも本性には合わないので精神的にはパッとしない時期だった。それで24から1年間放浪旅行に出て、アイデンティティーを取り戻して、そこから6年間は精神科医として能力も1番伸びて、大学院で研究もしっかりやった。次の6年、2005年までが政治がテーマなんです。その後の6年間で、米国にも住み、今やっているAHの活動の基盤を日本に作って、2011年は震災があって、「怒り」本がヒットした。「怒り」までは病気の本ばかりで、一般的なテーマの本はほとんど書いていなかった。でもそれからいろいろなテーマで月1冊くらいのペースで一般書を書く様になりました。だから2011年からの6年間は、ちょっと大変だけれども、一般人に向けて、AH的なものを普及させる時期だと思っています。最近、AHのボランティアの方達も育ってきたので、AH活動そのものは次の世代の人たちにやってもらって、人材を増やすトレーニングもしていきたいと思っています。
――並行して診療や研究も続けられていくわけですね。
水島広子氏: 2006年の10月から日本でAHをやっていて、最初は精神科医も研究も全部止めて、AH活動に専念したいって思った時期があったんです。でもアメリカで、AHの創始者であるジェリー・ジャンポルスキーとか、AHの元本になった『奇跡のコース』という本を出したジュディス・ウィトソンなどと話していた時、「あなたの社会的なステータスがあるから、怪しくない感じがして、人が出入りできる」って言われたんです。日本でもそれは言われたことがある。確かに、私がつぼを売りつけるとは思わないですよね(笑)。日本では最近のスピリチュアル・ブームの中、AHについても怪しいのではないかと思う人もいる。私がある程度社会的な義務も果たしつつ、AHはAHで人材をどんどん育てて、すべての責任は私が取るという感じでやっていこうと思って、厚生労働科学研究もやっています(笑)。まあ、患者さんを診るのは好きで、精神科医は私のアイデンティティと言えばアイデンティティなのですが。
――お話を伺うと、さまざまな舞台での経験がすべてリンクしていると感じます。
水島広子氏: 私のここまでのキャリアは、自分では一貫性があるつもりですけど、すごく変わっています。私としては何かを途中で放り出したつもりは1回もないんですけど、1つの形を6年以上続けられないというのも事実なんです。形を変え、進化し、脱皮して、12歳で目覚めた「無条件の愛」という1つのテーマを追求しているんだと思っています。それに、いろいろな業界に出入りしているから、ジェリー・ジャンポルスキーから、「君は将来的にはマグネットと呼ばれる様になるだろう」と言われています。つまり政治、金融、精神医学、AH、ジェンダーとかDVとか、貧困、人種差別、戦争、環境といった違う領域に見えるものを、全部同じ温度で考えている。普通の人だとつなげないテーマをつなぐのが私の頭の構造です。いろいろな領域に全く同じ顔をして、足を突っ込んでいる人間なので、さまざまなところに顔を出しつつ、AH的な姿勢で生きていくというのが役割だと思います。
――執筆にもますます力が入りますね。
水島広子氏: 多くの人に知らせていくためには本という媒体は大切ですから、メインとしては書く6年だと思っています。もう今年、来年くらいまで書くものが決まってしまってスケジュールはパンパンですが、その間になんとかAHのシリーズと、もう1冊専門書を書かなければいけない。どう割り込ませるかですが、それでもめげずにやっていきたいです。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 水島広子 』