早坂隆

Profile

1973年生まれ、愛知県出身。日中戦争や太平洋戦争をはじめとする日本の近代史などを主なテーマとするノンフィクション作家、ルポライター。戦時中の中等野球大会(現在の高校野球の前身)の詳細を当事者たちからの聞き取りによって浮き彫りにした『昭和十七年の夏 幻の甲子園』(文春文庫)は、NHKでドキュメンタリー番組化され、第21回ミズノスポーツライター賞最優秀賞、第2回サムライジャパン野球文学賞ベストナイン賞を受賞した。また、世界のジョークに関する著作も多く、『世界の日本人ジョーク集』(中公新書ラクレ)シリーズは累計100万部を突破している。

Book Information

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自分の国のノンフィクションを描きながら、常に「パイオニアワーク」を目指す



早坂隆さんは日本の近代史などを主なテーマとするノンフィクション作家であり、ルポライターとしても著名です。ルーマニアに2年間滞在して書き上げた『地下生活者たちの情景 〜ルーマニア・マンホールピープルの記録」で第12回週刊金曜日ルポルタージュ大賞優秀賞を受賞、その後も2006年に刊行した『世界の日本人ジョーク集』はジョーク集としては異例の75万部を超えるベストセラーになりました。『昭和十七年の夏 幻の甲子園』で、2011年第21回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。鋭い視点と独自の切り口のノンフィクションを語る早坂さんに、本とのかかわりについて、電子書籍についてご意見を伺いました。

ジョークウォッチャーという肩書で呼ばれることも


――ノンフィクション作家としてご活躍ですね。


早坂隆氏: 僕はもともと、ルポルタージュやノンフィクションを書いていまして、そちらが本業なのですが、ジョーク集の方が、本人も予想してなかった部数が売れてしまったため、「ジョークウォッチャー」とか「ジョークコレクター」という肩書で呼ばれることもあります。
もともとは海外の紛争地とか貧困地帯についてのノンフィクションを書いていまして、ルーマニアのマンホールに住んでいる子供たちの取材をしたのが実質的なデビュー作になります。

ユースホステル部で旅する楽しみに目覚めた


――今日は早坂さんの幼少期の読書体験などもお伺いしたいと思います。


早坂隆氏: 僕は愛知県の岡崎市という徳川家康が生まれた城下町で育ちました。野球などのスポーツをやっていたこともあり、読書量は人並みだったと思いますが、本を読む時間がぐっと増えたのは大学時代からです。高校の時には硬式野球部に入ったのですが、野球部自体も2年の途中で辞めてしまい、学校は進学校だったのですが、つまらなくて行ったり行かなくなったりして、原付を乗り回すなどして町で遊んでいました。
大学に入って東京へ出てきたけれど、野球も中途半端に終わったし、勉強も中途半端だったので、「なんかこのままじゃいけないな」という思いは強かった。「このまま行くとどうなってしまうんだろう」という漠然とした不安があって、それで大学で「ユースホステル部」に入りました。旅をしたくて、最初にオートバイ中型の免許を取って、国内をツーリングしていたけれど、段々物足りなくなって、自転車の旅に切り替えた。バイクでは満足感が十分に得られなかったんです。

――なぜ自転車の旅を選ばれたのでしょうか?


早坂隆氏: バイクで旅をしている時、ユースホステルの同じ部屋に、自転車で旅している人がいた。彼の方が何か充実感を得ているというか、「良い表情をしているな」と思いました。それで自転車の旅を始めました。大学3年の夏に北海道からスタートして鹿児島まで、40日くらいかけて自転車にテントを積んで、寝袋とコンロとお米を持って、自転車で1日100キロくらい走りました。夕方になると、海岸や河原とか公園にテントを張ってコンロでお米を炊いて、おかずはどこかで買っていました。そんなことをやっていると地元の人が、「何やっているんだ」とくる。本当に優しい人が多いから、食べ物を持ってきたり、「お風呂に入ってけ」とか、それこそ「うち泊まってけ」とか。そういう交流が楽しかったです。

高校時代は社会への不満や、「あまり世の中が面白くないな」という思いも強かったけれど、なんとなくそういった旅の間で気持ちがほぐされていって、「社会もやり様によっては面白い」と思うようになった。「人間もいいとこもあるなぁ」という当たり前のことに、段々気付ける様になっていった。それが大学3年の時でした。
大学に入った時はもの書きになりたいなんて考えは全くなかった。でも自分は将来「何かしたい」という気持ちはあったから、「旅をしながら考えよう」と思っていて、旅の間、毎日日記を付けていたんです。旅日記というか、その1日にあったこと、思ったこと、感じたことを書き留めていた。そのうちに、それが楽しくなってきて、夜何時間も書いていたんです。野宿しながら、そういう旅の面白さに気付いたのですね。

――そこが今の原型なのですね。


六畳一間、仲間3人での夢ある共同生活



早坂隆氏: こういうことを仕事にできたらどんなにいいだろうという甘い考えで、この世界に入ってしまった(笑)。大学卒業間近になってきて、ユースホステル部の親友で、「カメラマンになりたい」っていう奴がいた。彼は、大学1年の時からネパールにはまって、ネパールの写真をずっと撮っていた。卒業したら僕はルポライターになりたかったので、卒業したら2人で頑張ろうと。もう1人仲の良い仲間がいたので、男3人で東京の練馬に木造の6畳間1部屋を借りて、男3人で暮らし始めました。

――六畳一間に男性3人ですか。


早坂隆氏: 3畳くらいの台所はありましたが、木造のきたないところだった。僕らは皆、夢を追うと決めたから、貧乏もするだろうしお金もないし、一緒に刺激を与え合って頑張ろうと。作家の椎名誠さんが、『哀愁の町に霧が降るのだ』という本を書かれていますが、椎名さんも若い時にイラストレーターの沢野ひとしさんや木村弁護士と一緒に共同生活をされていた。それで一緒にそれぞれ成功して世に出ていった。ああいった共同生活のイメージを抱いていました。
それで3人でワーワー言いながら僕とそのカメラマンは一緒に日本エディタースクールのジャーナリストコースに通い始めました。当時は作家志望といっても仕事なんかない。アルバイトで埼玉の製本所に行ってアジア人に紛れながら本を作っていた。カメラマン志望の友人はとび職をやっていました。去年、彼は小学館ノンフィクション大賞の優秀賞を取りまして、現在その受賞作が小学館から出ています。『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』というタイトルです。その授賞式に選考委員で椎名誠さんが来ていた。われわれはかつて椎名さんにあこがれて共同生活をしていたので、彼が椎名さんに褒められて、メジャーデビューしたということで、非常に感慨深いものがありました。

――その当時はまだ先が見えないわけですが、どのような思いで過ごされていましたか?


早坂隆氏: その後に自分たちで同人誌『旅を思想する同人誌dig』を作りました。僕は一応編集長で友人が専属カメラマンです。「Dig」っていうのは英語で「掘る」という意味です。旅を通じて社会を掘っていくというような、今考えると堅苦しい、20代ならではのテーマでした。
その時代はそれぞれ、不安や心配もありました。「自分で本当にできるのか」っていう思いもあった。でも周りに友人というかライバルがいたから、それぞれ励まし合ったりして、作品に関しても「もっとこうしたらいい」とワーワー言いながら、「お前の写真はつまらない」とかやり合いながら頑張ってきた。仲間というのは集まって、お互いをたたき合いながら、磨き合いながら、成長していく。そういう人間の特性があると思うんです。そこからそれぞれなんとなく、段々と食える様になってきました。いまだにちょこちょこ会って、「お前の新刊がああだこうだ」と言います。だから1人だったらできなかったと思います。

猿岩石の番組で、マンホールチルドレンを見てひらめいた


――実質的なデビュー作の『ルーマニア・マンホール生活者たちの記録』ですが、出版はどういったきっかけからでしたか?


早坂隆氏: 当時、共同生活から僕が最初に抜けて、リクルートの情報誌でアルバイトをしていました。本当はノンフィクションをやりたかったんですが、やっぱり食えなかった。アルバイトとして、製本所よりはいいかという感じで情報誌をやっていたんです。それで、なんとなく食える様にはなっていた。でもやっぱり満足のいかない部分があった。
その当時テレビではやっていたあの猿岩石が、ルーマニアに行った時に野宿をしていたら、マンホールに子供たちがいて、「そんなところで寝るなら、マンホール来いよ」みたいなことでついて行くとマンホールの下で生活しているシーンを見て、「これをもっと知りたい」と思った。きっちりどういう子供たちが、どういう経緯でここに住んで、どういう生活をしているのかを知りたいと思いました。何より活字として僕自身が読みたいと思った。

それでリクルートを辞めて、東京のアパートも引き払ってルーマニアへ行きました。ピンと来たんです。結局、合宿共同生活の時に皆で話してた1つのキーワードっていうのが、「パイオニアウォーク」という言葉です。これは「誰もやったことがないことをやろう」ということで、もともと探検家や冒険家がよく使う言葉です。しかし、どの分野でも使える言葉だろうと思います。このノンフィクションの分野でも、誰かが似た様なことをやっているテーマを今更取材しても面白くないし、やりがいもない。やっぱりパイオニア性のあるノンフィクションをやりたいと思っていました。その定規で考えた時に、そのルーマニアのマンホールチルドレンの話を、きっちりノンフィクションとしてまとめることは、まだ当時誰もやっていなかった。小さな新聞記事なんかでは出たことがあったけれど、1冊の本として、ノンフィクションとしてまとまったものはなかったので、「それをやりたい」と思った。

――「やりたい」というご自分の気持ちを信じて、ルーマニアに行く決意をしたんですね。


早坂隆氏: やるに当たっても、東京とルーマニアを行ったり来たりする方法もあったけれど、そうじゃなくて、もう向こうに腰を落ち着けて、住みながら向こうの文化や背景を理解した上で取材したいと思った。言葉も通訳を付けるんじゃなくて、ルーマニア語で直接子供たちとコミュニケーションを取りながら本音を聞き出したい。そのマンホールに住んでいる子供たちは、例えば親に捨てられた子とか、親から虐待を受けて逃げてきた子とか、そういう子たちなので、そういった話しにくいことを、わけの分からない外国人に話すわけがない。本音を引き出すためにやはり、彼らの言葉で時間をかけて関係性を築きながら取材したいという、そういう思いがありましたね。

30歳までにノンフィクションの世界に足がかりを付けたかった



早坂隆氏: パイオニアワークというと企画の話になりがちですが、やはり大事なのは書くまでの準備であったりします。手間暇かけるとか、そういったところが大事です。単なるアイデアということではない。野球で言うと、イチローのすごさは、あの打席の中だけじゃなくて、打席に入るまでの準備をいかにしているかというところに価値がある。ノンフィクションの場合は取材です。そして取材の前段階。そういった準備をきっちりする。今の例で言えばルーマニア語をまず一から勉強するという準備が大事です。

――その時はおいくつだったのですか?


早坂隆氏: 行った時は28歳です。30歳までに、なんとかこのノンフィクションの業界でとっかかりを作りたかった。だから28歳で行くと2年間で30歳になる。情報誌のアルバイトでは結構お金をもらっていたので、辞めてルーマニアへ行くのはリスクでした。でも何にもしないリスクっていうのもあるんです。情報誌にずっといて夢を追わず、もう確立した生活の中で、生活はできるんだけども、でもそのまま30歳を迎えて終わってしまうリスクもある。
何かするリスクは見えやすいし分かりやすいけども、何にもしないリスクっていうのもあります。当時、「ルーマニアへ行かない方が危ないじゃないか」と思った。やらない怖さの方に不安があって、ルーマニアを選びました。それに、当時ルーマニア人の平均月収は月1万円くらいだった。そうすると単純計算で年12万円。2年で24万。プラス航空代金などはもちろんかかりますけれど、そのくらいで2年暮らせるのはすごいことだし、好き勝手できるじゃないかと思いました。2年終わって帰ってきたって飢え死にはしないという思いがありました。

――そのあと、紛争地のジョークの本を出されましたね。


早坂隆氏: 紛争地に行っている時も、パレスチナへ行くと日本のジャーナリストやジャーナリスト志望の若い子がいっぱいいる。そうすると町で空爆があったりすると、みんな同じバスに乗って行って、跡地を囲んで、バシャバシャ写真を撮っている。僕は、「バカじゃないか」と思ったんです。
だから僕は、そこを素通りしてパレスチナ人のジョークを集めていた。こっちの方が面白いと思いました。当時は、「あいつ何をやっているんだ、パレスチナまで来て、なんで笑い話なんか集めているんだ、写真撮れ、空爆が起きているんだぞ」と随分怒られました。でも僕は「興味がない」と言って、ジョークを集めていた。結局そこに希少価値が出て、最初のジョーク集の『世界の紛争地ジョーク集』という本につながった。版元の人も、「こういう切り口の方が初めてだし、面白い」ということで本にしてくれました。

長い海外生活の中での、日本語欠乏症状に電子書籍は有効


――今日は電子書籍の話もさせていただければと思いますけれども、ユーザーが早坂さんの本を電子化して読まれることについて、どうお考えですか?


早坂隆氏: 例えばルーマニアのマンホールの本も、単行本で出て、文庫にもなりましたけど、そんなに売れたわけじゃない。去年その本もKindle版が出ました。そうやって、また新しい読者の目に触れる可能性があるというのはすごくうれしいです。書き手としては紙で読んでいただいても、電子でもそれは関係ないです。より多くの人が読んでくれる、すそ野が広がるという意味ではありがたい話です。電子書籍だとそのKindle版も450円くらいなので、それだったらダウンロードしてもいいかっていう読者の人もいるでしょうから。
2年間かけて取材して、紙の印税だけでは大したお金にはならない。だからまた新しい1つのオプションができるのは、歓迎すべきことです。利用する方としたら、例えば僕がそれこそ10年前、ルーマニアにいた時にだったら、利用したかったです。当時電子書籍ってなかったですけど、やっぱり海外が長いと日本語が恋しくなります。送ってもらったしょうゆの成分表示も「日本語だ!」と思って、「きれいだな」と呟きながら読みました(笑)。そのぐらいの欠乏症状が出ますから、当時親にメールして、段ボールで本を送ってもらっていました。アメリカとか、西ヨーロッパの大きな都市なら日本の本が置いてありますが、東ヨーロッパにはなかったし、中東もない。アジアだってそんなにないです。それを考えると、もし当時、電子書籍があったら喜んで使ったと思います。

今は「つながりすぎて」孤独になれない


――ネットが発達した今、旅することの変化をお伺いしたいと思います。


早坂隆氏: 大学の時の日本縦断の自転車旅行や、四国のお遍路さんを巡った時も、旅に出ると全く音信不通になりました。メールもないし携帯もない。連絡手段は絵はがきでした。でもそれが心地よかった。誰も僕がどこにいるか知らない。当時そのユースホステル部の合宿が九州などであったので、旅の途中に日本を縦断して合宿所に直接行くんです。もう真っ黒になって、やせた体で、2か月ぶりに会う。その間全く連絡を取ってないから「おぉ無事だったか!」みたいなノリでした。ほかの部員も色んな旅をしていて、2か月ぶりに会うという面白さがありました。
それが今だったら携帯を持って、「今、高知県のなんとか山、なんとか寺」とか、「今、食事中なう」などとつぶやいちゃう。それは面白いのかなと疑問に感じるところもあります。ずっとつながってる感っていうのは、便利は便利なんだろうけども、旅の醍醐味という部分が、ちょっと失われるのではないかと思います。

書き手はピッチャー、編集者はキャッチャー


――早坂さんの仕事スタイルについても伺いたいと思います。


早坂隆氏: 今はiPhoneで録音、カメラ、地図と全部できます。電車の手配、時刻表を見る必要もないし、ホテルの手配もできます。飯を食い行くのもうまそうな店も全部調べられる。簡単な原稿ならパパッと書けます。取材はiPhone1つです。荷物が格段に減りました。昔は現地で、いろいろと道具が必要だった。荷物は本当に減りましたね。便利は便利です。

――ノンフィクションを書かれる時、編集者の方とどんなやり取りをされているのでしょうか?


早坂隆氏: 本当に編集者の方には恵まれたなという気持ちを持っています。野球で例えると、書き手がピッチャーで編集者がキャッチャーです。良いキャッチャーがピッチャーの良いところを引き出してリードする。調子が悪い時は、「お前、腕を振れてないよ」とか、「フォームのここが崩れてるからこうした方がいいんじゃないか」とか、僕のフォームを理解してくれて、球筋も理解してくれて、「今回ちょっと走ってない」とか、「腕もっと振れ」と、そういうことを理解してリードをしてくれたりします。作家の方でもいろいろな方がいるでしょうけど、尻をたたいて伸ばしていくことで伸びていく書き手もいれば、褒められて気分よく書いていく人もいるでしょう。そういったところを編集者の人が理解して、付き合ってくれると気分よく投げられる。僕は個人的には、褒めてもらった方が気分よく伸ばす方です(笑)。「ナイスボール」と言ってくれた方が気分よく投げられます。

WEBにもプロの編集者が現れるべき


――今後電子書籍が普及すると、素人でも出版することまではできるという環境になっていきますね。


早坂隆氏: そこは気になっていますね。僕はWEBで、人のブログをあんまり読まない。Twitterもやってない。それはね、ちょっと偉そうに聞こえると嫌ですけども、つたない文章を読むのはすごく腹が立つ。紙の媒体はやはりプロの編集者が付いていて、きっちりそこの過程を経てできているから、そんなに不快になることはない。でもネットのブログやTwitterはそこの編集作業が全くない。メルマガとかもほとんどない。僕はWEBの編集者という存在はすごく必要と思っています。

――WEBの編集者ですか。


早坂隆氏: 中央公論でお世話になっていた担当者が去年独立して、有料メルマガの会社を立ち上げて社長をしています。彼はやはりWEBの編集者をやりたかったようです。メルマガを書き手が書いて配信しているけれど、普通紙だったらそこに編集が入ります。メルマガもプロの編集作業を入れましょうと彼は言っています。僕もずっと前からそう思っていました。そういう意味ではWEBの編集作業をもっと大事にしないと、やっぱりレベルが上がらない。メルマガやブログ、Twitterもあまり文章がひどいと読む気が起きない。

――デジタルだからこそ編集者の役割はもっと必要なのかもしれないですね。


早坂隆氏: WEB界の名編集者っていうか名捕手が、出てきてほしいという思いはあります。まだ過渡期なのでしょう。まだデジタルの可能性を生かしきれてないのかもしれない。

自分の国の史実を作家として書きたい


――本という媒体を通じて、今後どんなことをされていきたいと思いますか?


早坂隆氏: 海外のノンフィクションを書いている間に、やはり自分の国のことをきっちり書きたいなという思いが段々強くなってきました。

――それはどのようなきっかけからでしょうか?


早坂隆氏: 以前は海外の紛争地、ユーゴスラビアや中東のパレスチナやイラクを取材していたのですが、パレスチナで取材している時に、あるパレスチナ人に言われた言葉がある。「日本人の君には僕たちの悲しみは分からないよ」と。僕なりにベストを尽くして取材していたのですが「そりゃそうだな」と納得してしまった自分がいた。自分はいつでも豊かな祖国に戻ることができて、その紛争地を撮った写真や文章でお金をもらって、お酒を飲んだり遊んだりできる。「この矛盾はなかなか大きいな」という意識が僕の中では大きかった。もちろんジャーナリズムの意義は分かっているつもりだし、誰かがそういうことをやらなくてはいけない。ただ、自分としては、「僕のやりたいこととは違うのかな」と感じた。その中で書きたいと心から思えたのは「自分の国の戦争」です。太平洋戦争、大東亜戦争。僕の祖父も中国に従軍していて、ここにある軍服が祖父のものです。



――大陸方面の軍服ですね。


早坂隆氏: 今、祖父は亡くなっていますけども、僕がそう思った当時は祖父も存命で、戦争体験者もまだ生きている人が多かった。だからそういった取材をしたいという思いが強くなった。海外のものよりも自分の国のことを書きたい。そして今の日本を成り立たせているその土壌にあった戦争を、自分なりにノンフィクションとしてやってみたいという思いが強くなりました。今でも僕のライフワークの軸としてやっているのは太平洋戦争の取材です。戦争物、戦記物も書店の棚に行けばいっぱいありますが、それでもまだまだ埋没している史実というのはたくさんある。そういったものをきっちり拾い上げて、活字にしたい。戦争証言集もありますが、単なる証言集も読むのが大変だったりする本が多いという風に僕は感じます。戦争物なのだけども、文学というと大げさですが、読み物としてきっちり構成して、表現も日本語の美しさにこだわったもの。そういう戦争、戦記物をやりたいという風に思っています。
これまで「中央公論」で連載してきた「鎮魂の旅」という企画が7月に本になります。戦時中の埋もれた話をノンフィクションとして、まとめました。今年は戦後68年で、戦争体験者の証言が聞けるギリギリの時期に来ている。戦前の日本を適確に理解している世代への取材が成り立つ最後の段階だと思います。毎回いろいろな人の取材に行きますが、「昨年亡くなった」とか、間に合わない時もある。ご存命でも、やはりご病気で、記憶があやふやだったりすることもある。もう80代後半から90代の方々ですから。でも終戦の時に5歳6歳の方だと、取材にならない。今後はその辺はちょっと危機感を持ちながら取材していこうと思います。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 早坂隆

この著者のタグ: 『旅』 『海外』 『ライター』 『ノンフィクション』 『作家』 『自転車』 『ジャーナリズム』 『編集長』 『取材』 『きっかけ』 『価値』 『ルポルタージュ』 『ユースホステル』

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