吉本隆明さんに認められて、『試行』に採用される
小浜逸郎氏: それからは塾をしながら同人雑誌に参加するという状態が続いて、81年に『太宰治の場所』という本を出しました。当時34歳くらいです。太宰治論を書いたのはそれよりも何年か前です。『群像』の評論部門に投稿したら、佳作になりました。文芸批評を本当はやりたかったのですが、私は気が散りやすい性質で、集中ができなくていろんなことを書いていました。当時は聖書にも関心があり、太宰治の次は旧約聖書のヨブ記についても書きました。その2つを吉本隆明さんが認めてくださって、『試行』という雑誌に掲載された。
その当時、80年代の初めくらいから学校での問題が社会現象化してきました。校内暴力、いじめ、校則の異常な細かさ、不登校といった現象が非常に目立ってきた。自分が塾をやっている関係で少し距離を置いた場所から生徒たちを見ていて、なんとなく見えるところがあったので、当時の教育評論に対して違和感を持ってきていました。少し乱暴な言い方をすれば、どれもこれもだめだと。
――それで85年の『学校の現象学のために』を書かれたのですね。
小浜逸郎氏: 私としてはラッキーなポジジョンにいたと思います。例えば教育学者になって、どこかの大学の教員に籍を置くと、きれいごとの議論に終わりがちですし、現場の教師をやっていたらとても忙しくて書くどころではない。本当は「マスメディアなんか勝手なこと言いやがって」という不満も先生方にはあるのだろうけれども、なかなか意見がまとまらないのでしょう。
書きながら手と頭の間で考える
――いろいろなことに興味を持たれて、ジェンダー論などを深く掘り下げていかれる訳ですが、執筆のために日々感じたことはメモなどされていたのでしょうか?
小浜逸郎氏: メモを取ったりしますが、日記はつけていません。私はまず、「人がこういうことをこういう風に言った」ということが気になって、放っておけなくなる。気になってしょうがないから妄想がそこから膨らむ。そういう経路があります。
――実際に執筆されている時は、どのように書いていきますか?
小浜逸郎氏: いろいろなケースがありますが、編集の方にテーマを提案されることが多いです。出すまでに時間が多少かかりますが、書き出すとそんなに遅くない。無名のころは、自分なりのノートを懸命に書いていた時期があります。特に、夢に興味があって、自分の見た夢を全部記録して、自分でフロイトのように解釈するということをやっていました。書くテーマについてはなんとなくという感じがあって、手を動かして書いてみないとわからない。手と頭の間で考えるという感じです。
――書くという作業を通して考えるんですね。
小浜逸郎氏: 書き出すまでの期間も長いと言いましたが、緻密に構想などを立てている訳ではありません。「書くためにはこれを読もう」、「これを勉強しよう」という最低限の線はありますが、あまり深く勉強すると知識に振り回されていつまで経っても書けなくなるから、「えいや」と書き始めるのが私のやり方です。書いている中で必要があれば再度資料にあたります。
編集者は執筆に欠かせない存在
――小浜さんが執筆において大事にしていることはございますか?
小浜逸郎氏: まず締め切りを守ることです。そして、テーマによって「誰が読んでくれるか」ということを考える。書き手にはわからない部分が多いので、その時にサポートしてくれるのが編集者です。編集者と話しているうちに、「読者は恐らくこういうことを望んでいるのだろう」ということがわかる。だから、編集者がいないと本を書くことができない。
――小浜さんにとって編集者としてあるべき像はどんなものだとお考えですか?
小浜逸郎氏: 1つは最後まできちんと付き合ってくれること。書いたものに対してきちんと意見を言ってくれて、「ここはこうした方が良いですよ」や「削った方が良いですよ」なども言ってほしいです。少し前に担当してくれた編集の方は、とてもよく伴走してくれました。「ちょっと書き過ぎだからこれくらいで削ってほしい」と、800枚以上書いた原稿を100枚くらい削ったこともあります。最初はせっかく書いたのにと思うのですが、出来上がってみると、絶対その方が良い。映画の完全版というのがありますが、あれはあまり面白くない。映画も編集ですから。それと本作りは何か似ています。
――編集作業をする人がいないと映画も本もできないと。
小浜逸郎氏: 編集者は書き手と読者の中間にいますからね。
著書一覧『 小浜逸郎 』